☆☆写真講義☆☆ 写真理論編
2015.6.26〜2015.10.3
執筆:中川繁夫
写真・映像・メディア論 1〜7
(1)
最近のことでいうと、スマホのカメラ機能がすごい、バージョンアップして、大きな静止画像をえることができる、というのです。ひところ、といってっももう1990年代の半ばだから、20年も前の話になってしまいますが、インターネットの登場がありました。携帯電話の普及がありました。いまのスマホになりました。一方で、通信の技術革新があって、いまや高速度でデーターが転送できる環境です。この技術革新は、まだまだ続いて、静止画よりもはるかにデーター量が多い映像・動画を、より転送しやすくなる。このように、これはデジタル環境全体が、高度に進化していくわけです。ここで扱う<「写真と映像のメディア」論>そのものが、この技術革新に乗って展開されなければいけない、と考えるところです。
現在は西暦2015年です。この論を書き進んでいくにあたって、ぼくのなかにはおぼろげなイメージしかありません。論理的な展開で、論を書き進める、といったことはあまり想定していません。浮遊するイメージを、断片的に文字に書きかえる、それをブログというツールを使って、メディアに載せる。ざっとこういう全体像がイメージされて、各論をマス目としてマトリクス化していくことで、次の展開が見えてくるのではないかと思っています。過去、まだデジタルでなかったころの写真、映像、インターネットがなかったころのメディア環境。まだ20年そこそこのそんな昔話を、昔はよかった的な話しをするつもりはありませんが、現在との対比ということで、使うことがまま予想されます。メディア史、とでもいう領域になるのでしょうか。
ネットのブログ記事として、文章中心の読み物は、あまり好まれないように思えます。なにゆえ、にもかかわらず、書こうとしているのか、と問えば、だから、これは、ぼく自身への覚書、ぼく自身へのメッセージ、そうして多少興味を持ってくださる方に贈る言葉として、かすかな期待をこめて、書き進んでいきたいと思います。さて、ここに載せた写真のことですが、私的に大げさに語れば、ぼくの人生が詰まった思いの一枚だと言えそうなのです。初めて風景を撮ったなかの一枚、1975年の夏だったかも知れません。1971年に生まれた娘が、四歳、次女が一歳、そのころだと思えます。デジタル画像には撮影データーがつくから、日時分秒までカメラ時間に合わせて記録してくれますが、これは35oモノクロフィルムで撮った一枚です。石川県河北郡の内灘海岸、砂丘地帯です。被写体は弾薬庫の痕跡です。家族で海水浴に行った日に、あまり意識しなかったが、子供らが海に戯れるなかのスナップに混じって撮った写真です。
(2)
インターネットが、ぼくたちの日常の中にはいってきたのは、何時頃だったか。1995年頃、ネットスケープ画面で、パソコンで、見たけれど、電話回線は使い放題でいくらということではなくて、電話回線通話料が加算されていくことだったと記憶しています。IMIが始まったのが1996年だったか、NTTの専用回線月額25万円という契約が始まった。それから20年後のいま、2015年現在、光回線でNTTとビッグローブ、ネットにつなぎ放題で月額6千円くらいです。これは、また、なんと!、との驚きを隠せない。技術革新によって、使用料などが格安になる。値段が安くなるだけではなくて、通信の中身が、写真だと大きさが、映像だと鮮明度が、つまり転送速度と容量が多くなっています。
それからネットでつなげるデジタルコンテンツ、画像、映像のことですが、ぼくが注目するのは、アダルトサイトといわれている領域の画像、映像のことです。原則、18才以上の大人だけが観てもよいとされる領域のことです。このブログのタイトル、言い換えれば、静止画・動画のメディア論ですが、そのデジタル世界のなかでも、隠れた世界、隠される領域、そのことが気がかりなのです。論を立てること自体が憚れる、そんな感じもしますが、隠しておいていいのだろうかとも思うのです。正当に論の土俵に上げないと、いつまでも封殺の対象となってしまいます。セクシュアルな画像が作られる、映像が作られる、それがネットを通じてばらまかれる。無料から入っていって有料になる、といった仕組みですが。
日本の江戸期には浮世絵のなかの春画が配布されていました。写真が起こってくるとヌード写真が配布されることになり、フィルム映像があらわれるとフィルム映像であらわれます。ブルーフィルムとか言っていたと記憶していますが、性交の場面、そのものでした。ぼくは、ほとんど、これは観ていません。フィルムからビデオに変わって、ビデオテープが流布されることになります。もちろん、日本では違法な内容なので、取締対象になります。取締対象となるそのこと自体の中身を論じるというのは、この場では禁止ではないとおもうが、ふさわしくないのかも知れません。しかし、写真・映像の、可視範囲のなかにたぶん膨大に存在すること自体を、無視することはできないと考えています。性の解放なんていわれる時代の、もうひとつの写真・映像・メディア論があっていいのかも知れません。
(3)
東松照明さんの写真集に「太陽の鉛筆」と題された一冊があります。1975年にカメラ毎日の別冊ということで発行された写真集です。カメラ毎日に連載されていた写真群をまとめた本です。写真群の内容は、第一部がモノクロで撮られた沖縄、第二部では沖縄から東南アジア、バリ島までを旅するかっこうで、写真を撮っていくというものです。全然、話は別のことになりますが、高橋和巳の小説に「邪宗門」という作品があります。執筆は1960年代のことで朝日ジャーナルに連載されていました。この小説は大本教の弾圧を題材にして、書き進められる地理的範囲が東南アジアの国々にまで及んでいます。小説は、扱うテーマがあって、題材としてある状況、ある事件、実話を織り込みながら、作り話を含めるフィクションです。では、東松照明さんの「太陽の鉛筆」はその点、どうなのか。
写真はドキュメント(記録)という分野があり、ノンフィクション、つまり事実、目の前にあったもの、起こった事件が撮られて、表わされるという代物です。この事実の羅列としての一枚一枚の写真群によって写真集が構成されます。「太陽の鉛筆」の取材範囲は沖縄から東南アジア、バリ島まで、この範囲はアジア文化で、日本文化の源流がある、とされる地域です。写真の背後には、作者の思想が流れていて、ここでは日本文化の源流を目撃していく旅。移動していく視点です。写真のテーマとなる視点といえば、そのバックヤードとしては、ある事件、ある状況を背後に背負って、その痕跡を現場に求める、という方法がとられるケースが多いと思います。でも東松照明さんの「太陽の鉛筆」は、それとは違います。
ある事件、ある状況、つまり原爆投下された、戦争があった、等々、というその写真を受容する文化領域では共通の認識となる背景をベースにして、一枚一枚の写真に意味を語らせるという手法が、多くの場合、ドキュメントの形です。ところで東松照明さんの「太陽の鉛筆」のテーマは、特定の事件や状況を背景にしているというより、もっと広い日本文化の形という概念を背景にしているといえます。社会通念として意味をなさない、浮遊したイメージを提起しているわけです。生成された意味の上に写真を羅列するというのではなくて、まだ意味を生成させるまえの浮遊するイメージを写真化して、意味を生成させる、共同体の共通認識にまで明示するという手法です。「太陽の鉛筆」は、1970年代、この手法がドキュメント作品として表わされる初期の作品集だと思えるのです。
(4)
いま、ぼくの関心の的は、インターネットの現在と将来のことです。現在においても膨大なデータが日毎に蓄積されているわけですが、それがこの後、どうなっていくのか。ぼくは使う側の人間です。利用者の立場です。ただ、利用者といっても、見るだけではなくて、データをアップする立場でもあります。インターネットにつないで、ホームページを構成する。ブログを書く。フェースブックやツイッターを利用する。個人としては、かなり多用している部類だと思っています。そのうえ、通信回線料は支払っているけれど、ホームページやブログの利用は、無料サイトを使わせてもらっています。その逆、見ることにかけても、無料の域を出ないようにしています。そこで、無料でどこまでできるのか、ということです。
無料ということは、放送電波で民放を見るのに無料であるように、これはスポンサーがお金を出して、無料提供されています。と同じように、ネットを無料で利用するというのは、スポンサーがお金を出してくれているからでしょう。ぼくなんかは、それで買い物をするとか、しないから顧客としてはあまりよくない部類なんでしょうね。無料の奥は有料サイト。つまり、お金を出して見ることができる、ということですが、この無料に徹すれば、かなりのことができます。かってなら、有料で書店で買っていたエロ本の類なんて、いまどきネットの中にいっぱいあるじゃないですか。ひところビデオテープ、5本一万円とかで買っていたのが、それよりもはるかに良質の映像で、無料でみることができるじゃないですか。
無料で見られるアダルトサイト。国内発の写真や映像は、モザイクとかのぼかしが施されているけれど、外国発の写真や映像は、無修正になっていて、モロ、丸見え、というところです。こんな時代になっている現在です。10年前と比べれば、飛躍的に転送速度が速くなり、転送量が増えていて、鮮明な画像が提供されてきます。今後、ますます、画像の解像度が高くなり、転送速度が速くなり、転送量が増えても対処できるパソコンが出てきます。この現象というのが、どこまで進んでいくのか、興味あるところです。第三者の介在なしに、そこに行きつけるという現状は、それなりのリスクを伴いながらも、人間の心を開放していく方に向けての、兆しが見えてくるのではないか。メディアは常に進化し深化していくものですから。
(5)
ネットの世界は泥沼状態で、底なし沼のごとき欲望の、混沌領域でもあるように思えます。いまやデスクの前に座らなくても、スマートホン、手の中サイズの画面で、地の果てからの写真や映像を、得ることができるじゃないですか。たぶん、この領域は、とてつもなく大きな世界を構築しているのだと思えます。最近、サーバーの話しを聞いて、それらのデーターが、どこかのサーバーに保管されていて、それがどこにあるのかは、特定できるものだ、ということがわかりました。
ただし、むやみにだれでもがそこへ辿りつけるわけではなくて、できるのは特定の権力を握った人または組織です。昔の地下出版というレベルで、いまネット裏発信、とでもいえばいいのかも知れません。昔は、アナログの時代で、地下は地下で、地上へのルートは、つながらないこともできたと思います。でも、いまや、それは完全に、どこかに存在することを特定できる時代なのです。
写真は静止画、映像は動画+音声、メディア環境は膨大なデーター量を大量に迅速に転送できるほうに来ています。際限なくといえるほどに、大量に、サーバーから個別のパソコンやスマホへ、移動、移転、転送させることができる。21世紀のメディア環境は、ネットのなかで欲望が満たされていくのでしょう。かってメープルソープの写真集が検閲にひっかかってしまう、というようなことになって物議をかもしたことがありました。
マドンナという女性が写ったSEXという写真集、これも輸入禁止か、なんて物議をかもしていました。人間の欲望領域のイメージだから、無くなるということはありえなくて、ますます増える、拡がる、深まる、と思えばいいのでしょう。写真や映像領域で、日本国内では、性器の露出は、法違反だと認定されています。なので、日本国内に置かれているサーバーを経由する性器露出イメージはなくて、それは日本国外に置かれているようです。
(6)
<デジタル時代のテクノロジー>1
かって写真を目に見えるモノとして表わす材料はフィルムでした。1839年に写真術が公開されて以来、いくつもの方法が試行されながら、現在も売られているフィルムに至っています。フィルムは陰画で印画紙に転写されることで、陽画としての写真が出来上がってきます。写真という一枚の印画紙に転写されたイメージの背後には、それを支えたテクノロジーがあるのです。フィルム、画像を得る現像液、画像を定着させる薬品。それらを支える器具の類。引き伸ばし機、暗室装置など。なによりもそれを制作するための道具としてのカメラがあります。カメラの形式はデザイン要素を加味されながら人間工学に基づいて、いまあるカメラの型となっています。デジタル時代になって、このカメラの型は、フィルムの時代からデジタルの時代へ、ほぼ外形を変えずに引きつがれています。としてもフィルム処理に替わるデジタル技術の処理は、全く違う技術です。
写真は、静止画、一枚です。映像はこの静止画が連続して動くように見える装置です。フィルム写真に対してフィルム映画がありますが、この映画は、写真が連続してスクリーンに投影される装置、です。この関係は、デジタル装置においても同様で、静止画が連続して動画にされる、というものです。みかけの概念は同じように考えられて相似ですが、テクノロジー、技術においては、フィルムと印画紙の処理とは全く違う内容です。カメラの外にある風景をカメラの内にあるセンサーで、電気信号に変えて処理して画像にする、ということです。このデジタル信号を、どのように扱うかということが、今後、写真や映像作家には求められてくる知識ではないかと思われるのです。
いまやビット(bit)やバイト(Byte)で表示される一画像のサイズは「4K」と呼ばれる大きさになって市場に現われてきています。静止画が連続すれば映像で、静止画のことを写真と表現するなれば、写真や映像は「4K」が主流となる時期に入ったといえるようです。この知識は、昨日「Eスクール」で江夏由洋氏のレクチャー「4Kが描く次世代の世界」を拝聴して得た内容を、筆者なりに解釈して記しているところです。そのレクチャーの内容は、その原理的な次元での画像を生成させる根拠となる知識の話しです。かって、フィルム現像処理のプロセスを、ファインプリントを得るために、さまざまにデータをとって、より完全なるものを求めたように、デジタルにおいても、それ相応の知識が必要で、様々な制作プロセスにおけるデーターを、自分のものにしていかなければいけない、と思うのです。
(7)
<デジタル時代のテクノロジー>2
遅ればせながらスマホを手にしました。機種はauのiphone6ですが、この新しいバージョンが9月25日に発売になったということです。映像の4K時代に呼応するタイミングでスマホでも4K映像で撮れるというものです。ともあれ、手の中に収まるスマホの機能に、メディアと人間の未来像を考えるのは、それなりに価値があり、意義があるというものでしょう。ただ、ネット環境は通信回線のテクノロジー、それに呼応する操作器具としての端末の性能、といったように機能にばかりが注目されるきらいがあるように思います。
情況論ではなくて本質論、なんて言葉を使うこと自体が、もう死語になった感も無きにしも非ずですが、いいかえればネット環境の技術的論議それだけではなくて、それを扱う人間の精神の変容とか、人間をとらえる捉え方とか、個々の人の内面の作られ方というか、考え方というか、メディアが変わることにおいて、そういう変化する人間のこころのあり方のことを論じるのが必要ではないのか、と思うところです。でも、これは、いまや、時代の中で無効の論議なのかも知れない。
写真イメージをめぐる環境は、混沌としているように思えます。というのも、かってあり、今もあり続ける紙のうえにイメージを定着させる手段から、パソコン画面でアルバムを作って、そこにデジタルデータとして画像を羅列するという手段があります。そういう作品つくりとは別の観点になるかと思いますが、スマホで撮影した画像が、そこからネット環境に直結できて、多数の目にふれさせることができる。リアルタイムに画像をアップできる。現在は、すでにその時代に入っているということです。新しい認識は、この地平から始まるのかも知れないな、と思うところです。