☆☆写真講義☆☆ 写真理論編
2014.7.14〜2015.5.25
執筆:中川繁夫
写真雑学講座(3) 2-1〜7
<手作り写真とデジタル写真>
ちょうど時代の境目だと思うんです。
写真を制作する手段というか方法のことです。
それから<写真>という呼び方のことですが。
はたして今後も<写真>と言い続けていけばいいのかどうか。
最近では静止画という表記がよくなされます。
動画にたいして静止画という区別になるのかと思います。
いまやカメラの主流はデジタルカメラです。
まだ若干フィルムを装填して写すカメラも使われています。
デジタルカメラに対してフィルムカメラと呼んでいいでしょう。
フィルムを使うカメラは、市販のフィルムを装填します。
そうではなくて写真、つまり静止画を得る方法が手作り写真。
まだ明確な意識付けはされていませんが<手作り写真>です。
デジタルによって制作される写真のすべてを<デジタル写真>。
デジタルでない方法によって制作される写真のすべてを<手作り写真>。
このように二つのグループに分ければ、非常にわかりやすいです。
手作り写真と括っていますが、この中には次の二方向があります。
銀塩をつかうフィルム写真、銀塩を使わない非銀塩写真があります。
この非銀塩写真というのが、現状では<完全手作り写真>といえます。
京都写真学校のカリキュラムで実習しているサイアノタイプ・プリント。
ほかには、サルト・プリント、ガム・プリント、プラチナ・プリント等々。
これらは印画紙に当たるもので、フィルムにあたるものではありません。
<完全手作り写真>では、フィルムに相当する陰画を得なければなりません。
現在、陰画を得る方法として、デジタル応用と印画紙応用とがあります。
デジタル写真から加工する陰画、ピンホールカメラにて制作する陰画です。
<写真イメージと言語>
写真を発表するときって、タイトルをつけたり、説明をつけたりします。
写真と言語がリンクして、ひとつの表現物となっているんですね。
たとえばタイトルをつけることで、その写真の見方を限定させる。
たとえば紅葉するもみじを撮った写真に、秋の風景、とかのタイトル。
町角を撮って、その場所が、具体的な場所を示す、新世界、とか。
こうして何気なく文字を使ったタイトルを、何の疑いもなくつけている。
実は言語と写真イメージの、その作品における位置関係を考えています。
言語があって、写真イメージがあるのか、それとも。
それとも写真イメージがあって、補足的に言語があるのか。
言語と写真イメージが対等の関係として並べられているのか。
言語と写真イメーージの位置関係というのは、この上下または並列関係。
別の言い方をするなら、バランスの関係といえばいいかも知れない。
写真イメージが、それ単体で、独立した作品だとすると、どうなるか。
文章を連ねた詩や小説、この場合は言語だけです。
写真イメージを、詩や小説などと対等で、それが作品だとすると。
写真イメージに言語が介在しない、そんな写真イメージを想定するのです。
説明や見かたの枠を限定する言語を、写真イメージから排除する。
写真イメージを、写真イメージとして作品とするのに、言語が必要か。
写真イメージの独立は、言語から解放されてイメージが飛翔するときです。
言語を交えず、写真イメージを写真イメージとして受容すること。
見ることの感動、言葉が不要な感動の領域。
その領域を彷彿とさせる写真イメージが、独立した写真。
写真イメージが、無意識の世界を刺激して、感動を呼び起こす。
とりとめないけど、そんな写真イメージを作りだしていきたいですね。
<記憶のなかで写真を撮る>
カメラを構えて写真を撮る、その撮る場所のことです。
自分が撮るもの、撮る場所、それは自分で選ぶものです。
ぼくの場合ですが、よくよく思うと、記憶の光景を求めている。
記憶のなかで撮っている、なんてことがよくあります。
これは自分のなかでの価値観、写真にするという根拠のようです。
なんでもいいからカメラを向けてシャッターを切れば、写真が撮れる。
デジタルカメラなんて、電源入れてシャッターを押せば、写真が撮れる。
そこで、その写真が撮れるわけだけど、撮る写真に意味を見出そうとする。
意味なんて曖昧で分かりにくいから、自分の感覚でシャッターを押します。
その感覚で撮った写真を見て、それがいったいなんなのか、で悩む。
だから、ぼくなんかは、記憶の像を求めることが、多々あります。
日常の見慣れた光景、初めて行った旅先の光景・・・・。
見慣れた光景に対しては、過去の記憶で価値判断しているように思う。
初めて行った旅先では、パンフレットや雑誌や、で見た光景を求めます。
特に旅先では、あらかじめインプットされた情報、記憶が頼りです。
自分の価値判断というより、先に撮られている写真の場所で撮ります。
でも、ほんとうは写真家なる人は、独自の視線で、視点で、撮らねばならぬ。
この時に頼るのが「記憶」ということ、記憶の光景を求めています。
まあ、写真に撮らなくったって、日常の行動は記憶に頼っています。
記憶は、経験したことの光景が自分の中で構成されたものです。
その記憶と目の前に起こることを、ダブらせて今を判断する。
その判断、カメラを持って写真を撮ろうとしたときの、判断。
撮るべきか撮らざるべきか、ぼくはそう思ったときは、撮りますが。
撮ろうと判断する背景には、自分の記憶が、大きく作用しているようです。
<写真は記録として残ります>
写真は記録である、とはよく言われることで、定説でもあります。
そこで、写真は記録である、と言われるのは、その時が写っているから。
写真は、静止したイメージで、ある瞬間をとらえたものだからです。
静止した時間、こんなタイトルの写真集もありましたが、静止した時間です。
この静止した時間は、撮った人にとっても撮った証としての記録です。
歴史を語る言葉の、記述された文章の、具体的イメージとして残されます。
もちろん、いまのご時世では、写真は記録である、なんて過去の定義みたい。
そこであらためて、写真は記録である、というわけです。
ニュース面では、映像、動画が主流になった時代です。
そういうこともあってか、写真は芸術です、という時代なのでしょう。
記録から離れた写真・静止画は、内面の心情をあぶりだす装置でしょうか。
そういう時代だからこそ、写真は記録である、と言いたいわけです(笑)。
つくづく体験してるのは、かって撮った自分の写真を、いま見ていること。
撮ってからの時間、三十年とか四十年とかの、時間が経っています。
写真は記録である、というのは自分にとっての記録、です。
自分が生きていたその時の、目の前の光景が、そこに写っているからです。
それは自分史としての、写真は記録であることの証であるようなのです。
この自分というのが、かってとは違った視点ではないかと、思うんです。
かってあったように、客観的事実としての、証言としての記録。
それといまなら、私的事実としての、自分自身への記録。
自分のいまと対置された過去の自分、自分の痕跡です。
カメラを使う使い方にもいろいろな使い方があります。
それを、ぼくのばあいは、ストレート写真で、使いこなす。
あとの変換ツールを使いこなせないからですが(笑)。
<タイトルなし>-1-
写真について思いを巡らせています。
写真と書いてしゃしんと言っていますが、最近は、静止画ですね。
写真という言葉には情緒が感じられ、静止画だと情緒がない感じ。
情緒って、不思議でけったいな言葉で、気持ちをあらわす文字。
こうして、あれこれ想いにふけると、わけがわからなくなってきます。
写真って、真を写す、ということから作られてきた言葉でしょう。
真とは、真実とか本当のこととか、そういうことだと思えます。
真実、いったい、どうゆうこと?、なんて考えだすとこれもわからない。
あんまり、突き詰めて考えると、わけがわからなくなります。
静止画に対しては動画、静止と動、ということでいいでしょうか。
動画は、静止画が連続したもので、映画とか映像とか、ゆうのかなぁ。
このながれは、静止画をスライドショーとして、音楽をつけたり、が流行り。
ネット展開するニコンのアルバムなんかは、音楽をバックに静止画を連続させます。
小生もこれは、たいへん気にいって、そこで多くのアルバムを作っています。
情緒満点、自画自賛、スライドショーを観ていると、うっとりしてきます。
それから、制作する簡単さったら、小生は、写真制作は簡単だと思っています。
なにが簡単かというと、カメラで静止画を撮って、処理して人に見せる。
この撮影から公開までのプロセスが、簡単だと思うのです。
ただし、これは、表面的なことで、カメラを手にしたその日から写真ができる。
ほんとうは、そんなに簡単なものではない、と小生は思うところです。
でも、簡単なものではない、と思うようになるまでのプロセスがあります。
これは、やればやるほど難しく考えるようになる傾向があるから、でしょう。
イージー人間には難しく考えないから、小生のように写真は簡単だ、なんて。
何を撮るのか、なんて考えだすと、なかなか手ごわいですね。
撮るもんが見つかったら、どのように撮ったらいいのか、なってことになる。
構図とか、露出とか、いろいろな技術を駆使して、静止画としての写真をつくる。
そうして、なんでこんなもんを撮ってるんやろ、なんて考えると、また難しい。
堂々巡りしながら、あれやこれや、ああ、もう人生も終わりだぁ、なんて(笑)
写真雑学講座、ちょっと趣向を変えてみましたが、やはり試行錯誤です。
<タイトルなし>-2-
写真に表題をつけるその表題に<アンタイトルド>なんてつけ方が流行った時期がありました。最近のことでいえば<無題>ということなのですが、無題という題は、題がないということ。タイトルがない。このように書くと、無題って、なにかしら怪しげなムードを醸し出すようにも思えます。そもそも、写真に題をつけるというのは、いかがなものかと思うんですが、やっぱり、昔っから題をつけますね。この題というのは、言葉で言い表し、内容を示唆するものです。はたして、この題というものが必要なのであろうか、なかろうか、と提案してみたいところなのです。
そういえば、絵画だって、映画だって、彫塑だって、言語表現でない表現物には、言語による題をつけるのが通例なのです。そういえば最初に言葉ありき、聖書、古事記、言語で書かれています。それがイメージを伴って、絵画になり、写真になり、映像になってきました。でも言語がついて回っています。これは人間社会が、基本的に言語生活によって成り立っているからでしょう。ということは、表現とは、何よりも言語が優先される、とでもいえばいいのでしょうか。表現物である写真。これはイメージ、像、が表出されたものです。はたして、これを言語で括る必要があるのだろうか、というのが課題です。
これまで、おおくの写真が撮られ、発表されてきました。それは、おおむね、言語を補佐する補完物として扱われてきました。ニュース映像なんて、まさに言語があって現場の像があって、その状況が把握できて、ニュースとしての効果が現れます。もしイメージ・像がなかったら、もちろん言語をイメージに置き換えて理解するわけですが、現場とはかなり違ったイメージとして理解してしまう可能性が高いです。こうして言語活動の補完としてイメージ・像が使われる。はたして、写真という固有名詞を使ったときに、この言語とイメージの図式でいいのかな。写真の独立、独立した表現、ということを考えたとき、言語との関係は、最初にぶつかる問題です。
<薔薇刑という本>
1970年5月、小説家三島由紀夫が死ぬ前に、自らが被写体になった写真集「薔薇刑」があります。撮影は細江英公氏、デザインは横尾忠則氏、被写体が三島由紀夫氏。この本をめぐって、ぼくはこれまであまり深くは考えませんでした。たしかにセンセーショナルな事件があって、そのことも含め理解する必要があると思っているからです。写真を語る枠組みで、どのように語ればよいのか、ということが解らなかったからです。いま、あえて、この薔薇刑という豪華本を解析しようと試みようとしているのですが、これには文学の側からのアプローチでないと、対処できないようにも思えるのです。と、簡単に言っていますが、文学の側からの、ということはどういうことなのか、ということも問題になるから、論は迷路に入ってしまうように思えます。
最近になって、三島由紀夫が自決する周辺を追うテレビ番組を見ました。番組のなかみは、三島文学というか三島の行動原理を紐解く内容だったかと思います。賛美といえば賛美であって、三島を否定するものではありませんでした。と言っているぼくも、否定するつもりはありません。それは1970年だからもうおよそ半世紀も昔の、その出来事の記憶が、よみがえってきます。小説では「豊饒の海」でしたか、読みましたが読み切れませんでした。写真集の薔薇刑は、1980年代に入ってから手に入れたものですが、ロマネスク調とでもいえばいいのでしょうか、耽美な写真集です。
写真を語るには、写真の出来栄えを語ることでしか対処の方法がありません。出来栄えというのは、撮影技術、撮影現場のロケーション、アングルとか構図とか露出とかの問題です。ということで、この出来栄えを解説したところで、なんにも始まらない、写真の奥に秘められた謎を、理解することはできません。これは、文学的アプローチで、三島由紀夫論をやらないと、解釈できないと思うのです。残念ながら、ぼくには三島文学評論の力はありません。ということで、この「薔薇刑」という本についての批評はできないと告白します。いやはや写真を解説するということは、その奥にある意味を解かなければならないわけで、文学批評レベルと同じレベルの写真批評が求められる、と思うわけです。