写真雑学講座(2) 22〜41

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最新更新日 2018.10.22

        ☆☆写真講義☆☆ 写真理論編
                               2012.3.16〜2013.11.5
                                             執筆:中川繁夫



   写真雑学講座(2) 22〜41

        
                  nakagawa shigeo 2014.3.17

<写真という名前が>

日本語で「写真」しゃしんと言っています。
でもこれって現在なら「画像」とか「静止画」とか言ってる。
静止画が連続すれば動画と呼ばれるようになります。
写真ってゆう漢字と「しゃしん」って読む内容。
今や、かなり内容がはっきりしていない気がします。

写真って、写と真、真を写す。
真とは、真実とか、本当のこととか、それを写す。
写したモノが、写真という物体。
細かな詮索はどうでもいいけど、真を写す。
これって、ほんとかなぁ、と疑るのが現代。

中途半端で、突き詰めると難解な「写真」という単語。
映像の種類として、静止画と動画。
映像とはイメージ記号、言語記号じゃないもの。
その静止画は止まっている画です。
ますます写真って言葉が、昔の言葉になっていく。

写真っていう言葉を使うか静止画という言葉を使うか。
どうでもいいような話ですけど。
でも、まだまだ、世の中、写真という言葉が有効ですね。


<写真は簡単自己表現ツールか>

写真を撮る、発表する、他者に見せる。
最近のデジカメとか携帯電話とかで撮る写真。
簡単に撮れて、簡単にネットにアップできる。
ネットにアップした写真は、他者に即座に見せれます。
カメラからインターネットへ、受け手はブログ。
ソーシャルネットワークサービス(SNS)へ。

最近なら、Facebook、フェースブックへのアップ。
写真は静止画で、移動するカメラからアップできる。
ここでいうカメラとはカメラ機能がついた携帯電話のこと。
そのうち動画がアップできるのが当たり前になりますね。
いまテレビ局でやってるライブが、自分でできる。
まあ、個人放送局ですね。

このような展開で、かってあったような論が成り立たない。
かってあった論を越えて、道具が使われていきます。
自分を表現する手段としてのカメラ・写真。
この自分表現の内容が、イージーになってきている。
もう哲学とか文学とか、自分とは何か、なんていらない。
そうゆう時代に突入している映像、写真、動画の現在。

といいながらも、既存メディアである印刷物。
ギャラリーでの展示、オリジナルプリント。
これまで培われてきたノウハウはそのまま残る。
ただし残り方は、そのままとはいえない。
工業生産品としての材料は消えゆく運命です。


<制作の技術と表現内容>1

写真を作るための道具としてカメラを使います。
それと旧式ではフィルム、新式ではデジタル。
カメラと言ってもさまざま、いろいろ、多種多様。
フィルムと言っても多種多様。
デジタルはデーターを加工するツールがいっぱい。

さてさて写真は静止画、それを作るための道具。
道具を駆使して、撮ったイメージを加工する。
加工する限度は、いまやさまざまに加工できる。
内容は形式に由来する。
加工した結果、内容が作られる。

最近、思うことは、この内容のこと。
写真って、撮る現場があって、現場を再現する。
すごい、感動する、こころ揺すられる、そんな現場。
撮影の現場を、ストレートに近く再現する。
そのことで、写真をの中味が示す、意味を汲みとる。

どうも、感覚、感情、それが感知するイメージ。
そのことが優先される写真が多いように思える。
つまり制作の技術を駆使して、ハッと思わせる。
まあ、表面的に処理して、表面的に感動する。
この時代のムードを反映しているのかも。


<制作の技術と表現内容>2

写真イメージは、どのような思想に立脚するか。
こんなことを、考えていたことがありました。
写真の意味とか、写真が指し示す考えとか。
おおむね、それは言語活動に由来しています。
いま、あらためて問題とするべきは、ここです。

写真イメージは、言語とは違う。
言語は文字によって意味を指し示すツールです。
写真は、その言語から独立している表現ツールです。
言語と写真、これを対立項とみるか融合項とみるか。
あるいは言語活動があって写真イメージが成立する。
あるいは内部イメージがあって言語活動が成立する。

言語と写真について、その関係を考える。
言語と写真は違う、とすればどうなるか。
つまり言語に拘束されない、とすればどうなるか。
イメージだけが立ってきて、言葉化できない。
そういった類の写真、それが写真そのものだ、なんて。

本来的には、イメージ表現は、抽象表現です。
言葉による表現も、抽象表現です。
お互いに抽象表現であって、これまで組み合わされた。
組み合わせることによって、意味を限定してきた。
はたして、この方法が、いま必要な写真表現なのだろうか。
この観点からすると、言語とは融合しない写真が、写真ではないか。


<制作の技術と表現内容>3

言語とは融合しない写真が写真ではないか、との回答らしき結論を得たんですけど・・・・。
いま、ここにこうして書いてるのは文章、文字、つまり言語なわけです。
たしかに写真はイメージで浮遊してるように思えて、言語は意味をつけていくように思えて、写真を言語と切り離してしまうと、意味がわからなくなる。

たとえば「白い犬」の写真があるとします。
撮られて写っているのは「白い犬」だと、説明とかタイトルがなくても、たぶん見ればわかる。
写真に写った白い犬を見れば、白い犬だとわかるというこのこと、このことが問題ですね。

問題だから答えを出さなければならないわけで、答えを探します。
そうですね、白い犬が白い犬だとわかるのは、それが白い犬だと認識するからです。
そうですよね。で、白い犬だと認識するってゆうのは、これまでに学習したからです。
白い犬、茶色い猫ではなくて、白い犬、犬の大小とか名前とかは個別であって、白い犬。

見てわからない人は、それまでに、白い犬を見た経験がないから、わからない。
こんな場合は、どうすればいいんでしょうね。
ちょっと飛んじゃいますが、白い犬なら、見た人の100%とは言いませんが。
かなりの人が白い犬だとわかると思うんです。
でも、そうではないものが、写真に撮られて見せられた場合、どないしたらいんでしょうか。

ここで言語の助けが必要で、なんて言い出したらもとに戻っちゃうんですけど。
言語で説明をつけなくてもいいイメージ。
見た印象、見せられて心がうごめく、ゆらぐ、情が感じる、感情に訴えられる。
そんな感情がゆすぶられるイメージの写真。
ひょっとしたら、今や写真って、そうゆう代物になっているのでは。


<制作の技術と表現内容>4

あんまり難しく考えないのが、最近の傾向かなとも思います。
というより、表記の仕方、つまり、わかりやすくて平坦に、みたいな。
むつかしい漢字を使わない、むつかしい熟語を使わない。
写真という表現手段においても、このことを援用します。
ああ、援用って言葉の意味が、つかみにくいですね。
辞書によると、次のように説明してあります。
<他の 意見・文献などを引用したり、事例を示したりすること。>

写真表現、そのものずばり、写っているものそれ自体。
それ自体ということが、重要なのではないか。
こんなふうに書くと、わけがわからなくなるから、平坦に。
なにが写っているのか、多くのだれでもが、わかるように。
その写っているものそれ自体が持っているクオリティ。
意味、思わせる、感じさせる、感動させる、そうゆうもの。

ぼく流のほうほうなんですけど、そのものずばり、です。
なるべく正面から、見せたいと思うものを、撮って見せる。
もちろん撮り方の技術ってのも必要だけど、写ったもの。
桃でも、リンゴでも、なんでもいいんですけど、そうゆうもの。
人でも動物でも植物でも、なんでもいいんですけど。
写すもの、撮ってあげるもの、それ自体がもっている意味。

その意味たるものを大事にしたいと思うわけです。
わかりやすいもの、だれでも見たらわかるものを撮る。
言葉としては、リアリズムとか、ドキュメントとか。
枠組みとしては、記憶とか、記録とか。
自分を中心軸にして、世界を立体構造化する。
ああ、またしても、分かりにくい表現になりましたね。
反省します。


<写真という静止画>1

ぼくがいま使ってるカメラはキャノンのG11って機種です。
もう一つは、ニコンのCOOLPIXP7000という機種です。
キャノンはデジタルカメラでは三台目です。
ニコンはかってF2ってカメラ使っていました。
ニコンF、それからFMって自動露出カメラも使っていました。
それらは35ミリ版フィルムカメラです。

F2を三台持っていて、単体レンズで、交換式。
レンズは18ミリから300ミリまで、各種。
バッグにカメラ三台とフィルム20〜40本入れていました。
一回の取材に必要な機材とフィルムをバックにいれると結構重かった。
それに比べると、最近の取材では、デジカメ一台、ポケットに、です。
30年昔とは、全く違ったスタイルで、写真を撮っています。

もともと写真は、カメラオブスキュラという暗箱で、画像を得ています。
画像を得るためには、薬品を紙とか銅版とかガラス板に塗って。
絵の具を使った絵画と類似の、薬品を塗った紙とかのうえに画像を得ました。
それが写真という静止画の始まりだったわけです。
1826年でしたか、ニエプスって人が、窓からの眺めを定着させました。
いま2012年ですから、その時から186年目でしょうか。

写真という静止画が考案、発明されてからですね。
カメラという機材がバージョンアップ、画像を定着させるモノも変化します。
大量に生産消費する工場生産品になってきます。
写真という静止画から、映画という動画が考案されます。
いっきに現在に飛んできて、今やデジカメで、写真と映画が撮れる。
静止画と動画が、デジタルカメラという道具によって、得られる。
このような歴史を経てきて、なお、写真という静止画にの考察です。


<写真という静止画>2

2012.7.9
最近は、デジタルカメラで写真を撮るのが主流です。
ほそぼそとフィルムカメラにフィルムを詰めて撮る人がいます。
時代の流れといえば、時代の流れで、最新技術が詰まったデジタルカメラ。
だれでもシャッターを押せば、写真が撮れる。
その時代は1970年代ごろには言われていて、今や、まったくそのとおり。
三歳児がシャッターを押した写真の展覧会、なんてのがありました。
大人が撮っても、幼児が撮っても、あまり変わらない写真。

カメラって、カメラの前にある光景を、収める道具ですよね。
だから、シャッターを押せば、前にある光景が収まるわけです。
そこで、見栄えよく収めるためのノウハウが、語られる。
つまり、写真をうまく撮る方法、撮る技術、撮る心構えなど。
カメラを作るメーカーにすれば、そんな技術は不要とでも言いたげです。
オートで撮れば、無難に美しく、かっこよく、写真が出来上がる。
だれでも、持ったそのときから、名カメラマン。

現在の写真、つまり静止画制作の、現場は、ファッション化ですね。
だれでも撮れるカメラだから、見栄え、センス良さ、デザイン。
各メーカが提供するカメラの色再現とか発色とか、これも話題。
いっぱいオプションがついていて、使いこなすのが難しいくらい。
つまり、カメラを手にした人のニーズを、満足させるために、です。
簡単に撮れるけど、奥が深いテクニカル、というところでしょうか。

でも、ね、写真って、つまり静止画って、それでいいのか。
なんて、考えてるほうが、バカみたいな感じ。
撮った人を、ほめてあげて、嬉しくさせてあげて、たまに叱る。
なにより、いいね、いいねと褒めてあげる。
そうしたら、写真を撮る意欲がわいてきて、上手になる。
中身を論じるのは、それから後でもいいのかも、ですね。
でも、やっぱり、ほんとに、それでいいのかな?


<写真という静止画>3

写真という静止画は、目に見えるイメージです。
イメージとは像のことで目から入ってきた像です。
頭の中で想像されるイメージは、想う像です。
つまり、写真という静止画は、カメラの前にある像。
その像を認知するのに、言葉が必要なんですね。
この言葉と像の関係を探っていくのが、この目的です。

目に映る像は、外世界の出来事、光景、その図像です。
その図象に、言葉を添えて、私たちは認知し理解します。
さて、この言葉を外してしまったら、どうなるのか。
なにがなんだかわからなくなる、と思いませんか。
私たちって、見えたものに言葉を添えて、理解します。
その理解すべく言葉を、排除しちゃうんですから。

言葉と写真、これは対立します。
言葉と写真、どちらが基底であって優位なのか。
このように対立項でみると、言葉が基底にあるから優位。
つまり言葉が写真を囲んでいて、その写真を理解させてくれる。
なにが写っているのか、その写った写真はなんなのか。
いろいろ考えるんですね。
この考えるということは言葉そのものです。

写真という静止画を、言葉から解き放つとどうなるか。
ここなんですよ、いま、言葉で考えてる、これを解き放つ。
解き放つ対立項は、感情がうごく、情が動くかどうか。
写真という静止画、最初に目に触れたときのインパクト。
感情が動いちゃう、そのこと、直観的に、です。
なにか、この論じたい、ナンセンスな感じもしますが。
言葉ではない感情が受け止める、写真という静止画。


<写真を学ぶ場のこと>1

かなり大きな本屋さんへいってみました。
カメラ雑誌のコーナーへいくとカメラの雑誌がありました。
読み本風な写真雑誌、お勉強するための写真雑誌。
ぼくも最初の頃そうでしたが、雑誌は身近な存在です。
写真を学ぶ、写真のことを学ぶ先生は、写真雑誌でした。
ぼくの初心者のころは、1970年代です。
カメラ毎日、アサヒカメラ、日本カメラ、そのほか。

本屋さんへいくと、写真のことを解説している雑誌コーナーへ。
いっぱい、情報が詰まっていて、買って帰ってむさぼり読んだ。
カメラのこと、レンズのこと、撮り方とかコンテストとか。
コンテストなんか、めっちゃ参考にしました。
どんなカメラ使って、どんなレンズ使って、それから。
まあ、初心者、だれも教えてくれる人いなかったから。

本屋さんのカメラ雑誌コーナーをみると、光景は似たり。
昔からのカメラ雑誌、たぶんこれは高齢者が読んでる?
それからカメラ日和とか女子カメラとか、これは若年者?
ぼくが載ったことがある月刊カメラマンって雑誌もありますね。
いつの時も、写真雑誌は、写真の勉強をする教科書ですね。
それからもう30年以上も過ぎてしまったぼくの今です。

あんまし雑誌から知識吸収すると偏った知識しか得られないよ。
それは、自分の興味あるところを読みから、でしょうかね。
雑誌情報は、基本と応用の違いが分かりにくいですね。
なにより、ひとりよがりになってしまう可能性があります。
いまもむかしも、写真を学ぶ場って、写真雑誌ですけど。
そこには、落とし穴もあるってこと、申しておきます、ね。


<写真を学ぶ場のこと>2

もう20年も前になるんですが、図書館ができた。
写真集を集めた専門図書館、写真図書館。
これは1992年、大阪市内のマンションの一室でした。
現在、この写真図書館の発展系が宝塚メディア図書館。
その頃って、写真を勉強する場ができてきたけど資料がない。
なるべくたくさんの写真を見れて、勉強できる場がほしい。

最近ならネットで、写真をいっぱい見ることができます。
ほんとにいっぱい、18禁から芸術写真まで見ることができます。
でも、その目に触れた写真の、意味とか価値とか。
まあ、そんなこと考えなくっても楽しませてくれたらいい。
そんなことを思っているうちはいいんですけど。
写真の作家してみようかなぁ、とか作家志向が芽生えてくるとです。

写真を撮って、見せる側に立とうとすると、必要になってくるもの。
それは知識、写真をつくる技術とか、そほ背後の考え方とか。
写真を成立させる周辺の知識を知る必要がでてきます。
そんなとき、図書館で過去の写真集をひもといてみる。
そこには写真を学ぶ講座があるから、受講してみる。
つまり写真学校で学ぶ。

大学、専門学校、それから学校法人じゃないけど、学校。
宝塚メディア図書館には、写真表現大学が併設されています。
京都には、京都写真学校があります。
その他にも、カルチャー講座がたくさんあります。
先に書いた本屋さんがひとつめの学ぶ場だとすると。
写真を学ぶ場のふたつめは、学校ですかね。


<写真を学ぶ場のこと>3

写真のことを専門、総合的に学ぶとしたら、学校。
芸術系大学にある写真学科とか、写真専門学校とかです。
でも、ちょっとした動機で写真に興味を持った。
興味を持ったけど、もっと知りたい欲求が出てきて、でも奥が深そう。
なんて思ったとき、どうしたらいいのか。
高いお金を払って大学や専門学校で学ぶほどには、思わない。

そうそう、巷には写真のサークルがたくさんあります。
カメラクラブとか写真クラブっていう同好者の集まりです。
仲良しクラブ的なグループから研究グループまでいろいろ。
写真に関する話題に、花を咲かせる写真クラブ、同好会です。
そんな場所へいって、仲間になって、学ぶ方法もあります。
好きもの同志だから、なにかと勉強になると思います。

毎月一回、集まって例会を開いていますね。
それに撮影会と称して毎月のごとく小旅行していますね。
年に一回、グループの写真展を開いていますね。
この形式で運営されるクラブは、かなり昔からあります。
むしろひところ昔は、この場が勉強する場となっていましたね。
いまも、この種の写真クラブは、たくさんあります。

カメラクラブへ入会するには、どうすればよいのか。
街にあるギャラリーの写真展を見に行けばよろしい。
そこで、会員を募集していないかをさぐればよろしい。
仲間がいるって、けっこう楽しいものですよね。
囲碁とか、絵手紙とか、そんなグループ同様、写真です。
いまどき、写真は、だれでも撮れるカメラが使えます。

撮ったそのときから作品を生み出した気持ちになれます。
仲間で、いろいろ批評しながら、作家になった気分です。
なによりそこでは、楽しめばいいと思います。
苦悩だとか、苦痛だとか、そんなものはいりません。
それが、今の時代の、今の写真を愛好するスタイルかも。
ひとりでやっていても面白くない写真の世界ですからね。


<イメージの舞台>1

ここで写真って字を書いて、しゃしんと読んで、つまり写真なんですけど。
最近、この写真のことを、静止画と言っているじゃないですか。
デジタル信号で作られる外の光景を定着したイメージについてです。
ぼくの私観では、デジタル画像制作の先鞭は、動画からでした。
ビデオ画像の収録が、アナログからデジタルに変わってきたんです。
なので、この流れからみると、動画に対して静止画という名称です。

さてさて、でもやっぱり静止画のことを「写真」と呼ぶとすれば、です。
写真と静止画は、イコールでいいのか、という問題提起です。
写真という言葉が匂わすイメージなんです、つまり。
静止画と写真は違うんだよ、って言いたいわけです。
両者は、どこがどう違うのか、これを列記していけばいい。
写真って、やっぱりフィルム、陰画が目に見えるもの?
銀塩をつかった印画紙で焼かれた、いわゆる写真。

デシタルカメラで撮られたデジタル写真。
この場合、ここで写真って名称を使うのがいいのかどうか。
デジタル静止画って呼ぶのが、妥当なような気がします。
イメージの舞台上では、写真は手触り感あふれる奥深いもの。
デジタルは、かなりイージーなイメージがして浅はかなもの。
この分け方って、まったく、その通りだ、なんて言えないですけど。

昔のフィルムを使う写真が深くて、デジタルは浅い。
そんなことはないとは思うけど、そう思ってる人もいるみたい。
ぼくは、写真っていうものは、手作りそのものってイメージなんです。
デジタルっていうのは、まったく最先端技術を使って制作のイメージ。
どっちでもいいとはいいながら、気になるじゃないですか。
写真が置かれて在る姿が、手作りイメージなのだと、再度。
まもなくフィルムもなくなることだし、というのが原点です。


<イメージの舞台>2

デジタルカメラで撮られたのが静止画でフィルムカメラで撮られたのが写真。
静止画と写真を区分するのに、こんなばかなことは申しません。
デジカメで撮って、プリンターでプリントアウトしても、写真。
フィルムカメラで撮って、薬品使ってプリントしても、静止画。
こんなふうに言ってると、何がなんだか、混乱してきますけど。
そこで、もういっかい、静止画と写真、どこがどう違うのか。
ぼくの答えは、呼び名が違っても、同じものを指しているんですよぉ。

実際、静止画は動画に対して、テレビ番組なんかでよく使われています。
でも、視聴者に応募を呼びかけるときは、写真、と言っていますね。
視聴者からの写真、このように言っていると思う。
もともと写真って、翻訳語で、元はフォトグラフィーですかね。
ますますややこしくなってくるけど、みんな中味は同じだとします。
まあ、イメージ的には、写真といった方が、芸術っぽい。
静止画っていったら、なんかしら安けない。

だから、今一度、同じだといいながら、違うと言いましょう。
なにが違うか、オリジナルプリント、値段がつくプリント。
最近は、べらぼうに高いプリントがあって、何千万円とか?
有名作家のビンテージプリント、なんて言う、希少価値。
これなんか、写真って呼ばないと、示しがつかないイメージ。
まあ、ず〜っと写真って呼んできたから、写真で通ってるけど。
時代とともに、静止画って呼び名が主流になるかも。

そうだね、オリジナルプリント、これを写真と呼べばいいかも。
オリジナルプリント、これも説明しないと、あきませんね。
なにをもってオリジナルプリントと呼ぶか、ですね。
プリントされた画像は、写真であって、オリジナルプリント。
おおむね紙の上に画像が定着されたプリントのこと。
でも、ちゃうんですよ、オリジナルプリント。
定義があるんです、それはお金に変えるための、価値づけ。


<イメージの舞台>3

デジタルカメラで撮った画像を再現させるのにモニターを使う。
パソコンの画面、テレビの画面、それら紙ではない平面を使う。
ぼくの現在の基本認識は、フィルムで撮った写真は紙に定着させる。
デジタルで撮った写真は、パソコンおよびテレビのモニターを使う。
この基本にしたがって、ぼくは、ギャラリーで、写真発表を行った。
フォトフレームの画面で、静止画を連続させての、スライドショー。

最近のテレビは薄型になってきています。
厚さ10ミリ、つまり1センチ程度にまで薄くなってきています。
オリジナルプリントを収めた額装、この厚さは10ミリ以上か。
フィルムで撮って、印画紙に焼き付けて、額装する。
これがオリジナルプリントの展示方法です。
それに類推するデジタルでは、薄型壁掛けテレビ画面です。

オリジナルプリント、かって数万円もしたカラープリントがありました。
その、あの、デジタル・オリジナルプリントは、テレビ画面。
想定してみてください、ギャラリーの壁面に、モニターが掛かる。
その液晶モニター、画像が映る、写真が映る。
展覧会の展示の仕方も、このように変わっていくのです。
もう紙に焼いてなんて時代じゃないですね。

呼び名としては、写真でも静止画でも画像でもいいんですけど。
見せ方としてはデジタル液晶画面で見せる。
保存はデジタルで保存だし見るのはモニターで見る。
フィルムカメラで撮った写真は紙を媒体として見る。
デジタルカメラで撮った写真はモニターを介して見る。
いよいよそんな時期に来ていると思っているんですよ。


<イメージの舞台>4

写真ってゆうのはイメージ表現の方法なんです。
このイメージを、どうゆう方法で制作するのか。
ここに、大きく分けて、フィルムとデジタルがあります。
このフィルムを使う方法は、ネガ(陰画)を作りポジ(陽画)を作る。
このポジ(陽画)が、一般的にいう写真ですね。
ネガポジ一枚のダゲレオタイプってのがあります。
フランスで発明された写真は、じつはこれ、ダゲレオタイプ。

ネガのことをフィルムって言ってますけど、これは材質のこと。
ネガ・陰画を作って画像を定着させるのに、紙を使うことも出来ます。
紙ネガって呼んでいますかね、タルボットが制作の写真は、これでした。
それから、材料についてですが、感光材料、光に反応する材料。
おおむね銀粒子を使うと銀塩写真、これを使わないのが非銀塩写真。
非銀塩写真のつくり方、薬品とか、いろいろ多種多様、です。
この領域で制作する写真を、ネガポジ方式と呼ぼうと思います。

京都写真学校のカリキュラムでは、このネガポジ方式を実験します。
手作り写真です。
カメラは、ピンホールカメラを作ります。
ネガは、ただいまカリキュラムに取り入れるべく実験中。
手作り銀塩写真、ハンドメイド・ゼラチンシルバー・プリント。
および手作り非銀塩写真、サイアノ・タイプ・プリントとか。
フィルム写真が工業製品写真なら、ハンドメイド、手作り写真です。

これから先、いつの頃にか、フィルム生産が中止になる可能性あり。
歴史は、確実に、新しいバージョンへと進んできています。
つまりデジタル写真、デジタル信号をプリントアウトする。
手作り写真は、アナログ、ハンドメイド、古典技法になります。
来たるべき古典技法、手作り写真の時代のために。
いま、制作の方法をパックにしたカリキュラムを開発中です。
オリジナル・プリントとは、この作品をいう、なんてことになるかも。


<イメージの舞台>5

写真術、つまり写真イメージを作ることが発明されるのが1840年ごろです。
それから170年余りが経った現在、写真イメージを作る方法はデジタル。
カメラという暗箱があって、光に反応する薬品があって、紙とかに定着する。
この方式がごく最近まで続いていて、現在もまだ残存しています。
でも、大きくはデジタル方式によって、写真イメージが定着される。
見る方法も、紙にプリントの他、液晶モニターにてイメージを構成させる。

フィルムと現像薬品をベースにした写真つくりから、電子信号の集積へ。
デジタル技術によって、写真を作り出す方法が、変化したわけです。
そこで最近、手作りで、アナログで、写真イメージを作ろうとの機運。
かって発明された当時には、画像を定着させるべく、道具からの開発です。
その道具を使って、その応用も含め、再現しようとの発想です。
手作り写真、絵画、版画の次に来る「手作り」写真の概念です。

絵画と版画が、芸術の範疇だとすると、手作り写真も芸術の範疇です。
デジタル写真が芸術ではないなどという訳ではありませんが。
手作り写真は、明らかに芸術の範疇に入る。
もちろん、芸術とは何か、という命題があります。
芸術の範疇自体が拡大し、大きく様変わりしているように見えます。
明確な論理立てはまだ、定義されてはいませんが、です。

写真は芸術か否か、と問われてきて、様々な意見があったと思います。
撮られた被写体、その被写体をめぐって、芸術か否か、です。
でも、被写体についての議論は置くとして、制作の方法について。
手作り写真、これは芸術の範疇に入る手法として認知しています。
としても、芸術とは何か。
いよいよ、そのことを問われるときが、いま、再び、来ています。


<アナログとデジタル>1

京都で写真学校を運営しています。
今年で8年目、2005年4月開校しました。
そのころにはすでにデジタル化が進んでいました。
フィルムを使っていた時代からデジタルを使う時代へ。
その過渡期が、その前後から本格化してきていました。

プロの仕事現場では、ほとんどデジタル化されていました。
アマチュアというか、趣味でというか、このレベル。
ここでは、まだまだフィルムが強かった時期です。
それからまだ正味7年が過ぎた現在2012年です。
カメラはほぼデジタルカメラに移行しています。

おおきな時代変革、情報処理のデジタル化。
その末端、アマチュアのカメラマンもデジタル化。
いつの時代にも、末端の人の意識は、変化が遅れます。
カメラにおいてもフィルムからデジタルへ、が遅れます。
でも、いまや、もう、フィルムの人、悩んでいますね。

カメラっていうか、写真を作る機材についてです。
機材はいつも時代の最先端の技術を使ってきました。
その機材が普及して、それが時代の主流となります。
今更ながら、写真制作の現場は、デジタルカメラです。
といいながら一方で、手作り写真が、見直されています。


<アナログとデジタル>2

最近、キャノンのデジタルカメラ、G1Xを買いました。
フィルムカメラでは、ニコンF2を使っていました。
これは単焦点レンズでフィルム一本で36枚撮れました。
デジタルカメラになって5台目、いつも最新を使う。
どんどんバージョンアップしているんですね。

私の場合、デジカメではフィルムにして25本分ほど。
約1時間分ほどの動画が撮れる。
動画のクオリティーはハイビジョンだとか。
小さなデジカメ一台で、けっこうなことができる。
フィルム時代には想像すら出来なかったようなことが。

時代って言い方をするなら、時代に即したカメラがある。
大型から小型へ、ライカからニコンへ、フィルムからデジタルへ。
カメラってその時代の最前線技術を搭載してきました。
デジタルカメラで、静止画と動画が撮れて、後処理が簡単。
かって大きなカバンを肩にかけていたのが、いまやポケットに。

これからもまだまだ発展していくデジタルカメラ性能。
それらカメラ性能に見合った表現の方法が編み出される。
決して古い昔を捨てるのではないけれど、昔は昔として。
手作り写真ってゆうアナログな手法がクローズアップです。
写真術発明1839年以来170年余りの写真の歴史です。
いま、デジタルカメラは、大きな屈折点だと認識します。


<デジタルカメラとインターネット>1

写真を撮る、静止画を作る、デジタルカメラを使う。
デジタルカメラはかってのフィルムをデジタルに置き換えたもの。
制作のプロセスはフィルムからデジタルに変わりました。
でも、写真のなかみについては、変わっていません。
目に見える静止したイメージ(像)を平面に定着させる。
印画紙という紙であれ液晶とかのモニターであれ、平面の静止画。

ところが、撮られて処理されたあとの画像の見せ方について。
写真として世に現れるのが19世紀中ごろ1839年のことです。
それから足かけ170年あまり、科学技術は変化してきました。
写真をつくるカメラは、科学の先端技術を詰め込まれた製品です。
カメラ、フィルム、露出計、自動露出、オート巻き上げ、等々。
それに現像処理する現像薬品とか、引き伸ばし機とか。

それがいまやデジタル処理、デジタルカメラを使います。
製造される立場では、これは工学製品であり電気製品でしょう。
世の中、通信手段はスマートフォンの時代、カメラはその端末です。
デジタルカメラに撮られた画像を処理するのにパソコンを使う。
もちろん画像処理するソフトウエアがあるわけです。
フィルムを現像処理するプロセスのように、デジタル処理です。

こうして生成された画像を他者に見せるために、ネットを使う。
ネットを使うことは、インターネットを介して、ソフトを使って。
いま、この文章は、パソコンのワープロ機能をつかっています。
インターネットにつなぐためにぼくはNTT西日本の光回線です。
プロバイザーはNEC系のビッグローブ、この回路を使って。
ブログ、これは269gという無料ブログの一角です。

この文章と静止画をのせて、不特定多数のなかに投稿します。
そのあとの出来事は、ぼくには詳しくはわかりません。
ソーシャルメディアといわれるツイッターにフェースブックに。
リンクしてこの記事の投稿を知らせます。
メディアの現状は、ネット社会になっていて、そこが発表場所。
かってなら、ギャラリーとかの壁面だったのが、いまやネットです。


<デジタルカメラとインターネット>2

デジタルカメラで撮った静止画を、そのままインターネットにのせる。
スマホのカメラ、携帯のカメラ、デジタルのカメラ、進化しています。
パソコンがなくて、スマートフォンがひところのパソコンの代わり。
写真というより静止画の、ネットへの展開です。
何を撮ってアップするのかは、さておいて、すごい環境です。
だれもがカメラ機能をつかって、コミュニケーションする。

今代表的なSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)はfacebook。
その機能たるや、言葉では言い切れないほどの、使い方があるようです。
ぼくはもっぱら、パソコンで、ブログに記事を書いて、転送します。
転送というより提携していて、記事を書けば自動的にリンクします。
この文章は、269gというブログを使って、記事を書いています。
読んでくださってる方は、パソコンかスマホにつながっている人。

ネットにつながっている人には、論より証拠、言うまでもないこと。
ところが、ぼくの世代は団塊の世代といって、いま60才半ばです。
どれくらいの率で、ネット環境を享受されているのだろうか。
新しいメディアといっているネット世界が、もう当たり前の世の中。
写真を扱う論においても、出発は現在のメディアが基盤になります。
写真学校を運営していますが、このことを肝に銘じておかなければ。

いつの時代も、新しいことと古いこととが共存しています。
こうした論を立てるためには、どこに軸足を置くのか。
この置き方によって、論の方向が変わってくると思うんです。
見る前に跳べ、なんて名言があるんですけど、前向きでありたい。
今という最前線の環境に依拠した論を立てなければいけない。
なんか、この項は、心構えみたいな論になりました、はい。