写真論 12〜26


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最新更新日 2018.11.2

           写真論 -写真についての覚書-

                              nakagawa shigeo 2011.3.10

     

<アナログとデジタルの間にて-1->2010.6.7

いまやデジタルカメラを使って作品つくり、というのが圧倒的多数でしょうね。
ここ数年、年々、デジタルカメラの性能がアップして、フィルムカメラを越えてきました。
たしか、フィルムの画素数は900万画素とか言っていたと記憶しています。
その画素数を、ごく普通のデジタルカメラの画素数が、越えてしまいました。
ということは、写真を構成する絵面が、性能的にデジタルカメラが上回った。
このように言えるのか、と思っています。

デジタルで作る写真の方法は、これまで展開されてきたフィルムの方法とは違う。
この違うという方法を、いよいよ模索し、新たな展開を実験的に行っていかないといけません。
新たな手法で、新たなツールとして、新たなメディア展開を、していかないといけません。
ぼくは、その意味で、デジタルで撮られた写真の展開方法として、インターネットの介在です。
インターネットを介して、発表されるのが本筋だと考えています。
インターネット上に展開される写真アルバム等が、質、量ともに増大しています。

でも、一方、フィルムで撮影してきた写真。
フィルムを使わないで、写真を制作してきた、それ以前。
ネガを作って、ポジをつくる、写真制作の方法。
ダゲレオタイプのように、一枚完結写真。
それらをまとめて、アナログ、アナログ写真と、ここでは表示しようかと思う。
アナログ写真とデジタル写真、その制作手法転換の過渡期になる現在です。


<アナログとデジタルの間にて-2->

写真とは言わなくて静止画像というのが今流かとおもうが、ここでは写真という言葉を使います。
光が自動的に描いてくれる写真の発明から映画を経て、技術的には、おもいっきり変化してきましたね。
カメラ、感光材料、モノクロからカラーへ、静止画から動画へ。
動画と言っても、つまりは静止画の連続ですが、動画には音が入ります。
アナログとかデジタルとかいう区分も、表面上の機材の問題レベルともいえます。

写真を制作するという本質論は、技術の問題ではなくて、思想の問題だ、と言いましょう。
何を表に現そうとするのか、つまり表現の中味をどうするのか。
こうなると、アナログとかデジタルとか、その区分などを越えたところが、問題ですね。
つまり中味、写された<もの>が持ってくる意味という中味のこと。
なにを意味してるん?なんて聞くあの<意味>に通じるとおもう意味。

いま2010年ですが、アナログとデジタルのかけ引きで、デジタルに軍配があがった。
だから、これからはデジタルのありかたを論ずればよろしい。
なんて単純なことではありません。
つまりアナログとかデジタルとかの区分ではなく、何を撮るか。
何を撮るかって、決まってるじゃん、好きなもの、興味あるもの。


<アナログとデジタルの間にて-3->

写真をつくる原点は、太陽の光を暗い箱にいれ、陰画をつくることにあります。
絵画から写真への移行は、太陽の光で、自動的に絵を描くことにあります。
暗い箱をつくり、外の風景を定着させるべく、暗い箱の奥に、感材を置く。
ピンホールカメラによる写真つくり。
いちばん単純なカメラ・ボックスをつくり、画像を得る試みです。

アナログとデジタルの境界面が、現在だとすれば、アナログのはじめはなんだったのか。
その体験を体感すべき試みのワークショップが開催されました。
京都写真学校のカリキュラムの一環です。
暗い箱は写真装置の必須アイテムです。
菓子箱とか靴箱とか、ボール紙の箱を使って、画像を得る。

陰画紙には、既存のRCペーパーを使いました。
そのペーパーも手作りすることで、原点に戻る。
なにが必要なのかといえば、いま無意識に使っているカメラ装置の再認識。
いつのときも、最前線科学技術に支えられて、作られてきたカメラ装置。
ピンホールカメラとは、その原点にある写真の手法、手触り、手がかり、と言えます。


<表現のはじめ>

人間が自分の思いを、何かに託して、表現しだしたのが、いつのころか。
港千尋氏の「洞窟へ」(せりか書房2001年)のなかに、ネガティヴ・ハンドの記述があります。
ネガティヴ・ハンドとは、コスケール洞窟のなかで見つけられた痕跡。
壁面に人間の手を置いて、レッド・オーカーで隈取られているといいます。
約2万6千年から2万7千年ほど前に、描かれたといいます。

人間の表現とは、何事なのか。
それがいつのころからはじまったのか。
その起源は、なにか。
写真という表現手段を手に入れている現在として、起源に興味あるところ。
興味は、洞窟の壁面に、じぶんの手に塗料を吹きつけ、痕跡を残したということです。

写真にかぎらず、なにか自分の痕跡を残すという行為。
そのことに、興味をもって、表現とは、何か。
この問いかけの一端が、そこにも見られる。
すでに2万6千年も前、旧石器時代において。
いったいなんだろう、写真表現とは、という設問を解く鍵がここにあるのかも。


<写真の表現について-1->

写真ってゆう日本語、この言葉が、いまや別の言葉に置き換えられる。
たとえば、テレビなんかでは、静止画って、言っています。
あるいは、画像、とも言っています。
そうゆうことでいえば、写真、なんて言葉は、古いのかも知れませんね。
とはいいながら、それらは言葉上の問題です。
ここでテーマとする<表現>の内容が、かわるわけではないですね。

表現とは、自分を表すこと。
自分の何を表すのでしょうか。
それに、写真、静止画を使っての表現です。
じぶんの心、思い、感情、などを表すこと。
現在なら、このことが、いちばんピンとくるかも知れません。
自分を表現する、あたりまえの言葉ですが、これが苦手な人間です。

もちろん人間、自分を取り巻いている環境って、時代とともに変化しています。
器材などのハード環境の変化がありますし、生き方への考え方の変化もあります。
いまの時代に、いちばんこころにフィットする内容。
つまり、感動を得られるかどうか。
感動を、共有できるかどうか。
それ、いまどきの、感情レベルでの判断になりますけど。


<写真の表現について-2->

自分のことを、相手に伝える方法としての、言葉があります。
しゃべり言葉としての方法、文字を書いて文章とする方法。
文章を書いて自分の意思を伝える。
想像力を働かせて、フィクションをつくる、つまり詩とか小説とか。
この言葉による文章をつくって表現する手段を、写真に置いてみる。

写真は、目の前にある物体を写して、自分を相手に伝えることです。
文で書けば、これはペンです、なら具体的な物体ペンを撮って、提示します。
さて、これで完結、かんたんですね。
いまどき、カメラの操作なんて、シャッター押せば写っちゃうんですから。
なのに、写真の表現、文章でいえば詩とか小説のこと。

これを、写真でやっちゃおう、ってゆうんだから、ちょっと難しい。
小説によるフィクションなら、、写真によるノンフィクション。
ノンフィクション、真を写すことだから、これはノンフィクションを得意とする。
たしかに、その側面はあるかと思うけど、ここで写真の表現というかぎり。
文章でいうフィクション、作り物、想像力の成果、とするには、難しい。

写真で、つまり具体的なイメージで、なにを語るか。
イメージそのものは、具体的なイメージであることが多い。
写真によるペンは、ペン、より具体的な個別のペン、そのものです。
概念を、というより、個別を、というのに適しています。
この個別をつなげて、概念化していく、文章の逆方法、ですね。


<写真の表現について-3->

ここでは、写真の表現というタイトルにしているんですけどね。
いまや<写真>という言葉が、有効なのかどうかを、考えないといけませんね。
最近なら、これまで写真って呼んでいたものを、静止画って呼んでいます。
その背景は、動画に対置していると思っています。
動画は、静止画の連続で得られるイメージの総合です。

また、写真、つまり<真を写す>という内容の<真>ということ。
真は、真実とか真理とか真意とか、まあ、究極的に不動にしてある事柄。
真とは、そのようなイメージかと思うんですね。
でも、その究極的不動の事柄ってことが、ホントにそうなの。
真実とか真理とか、その言葉が持つ意味内容が変容してきた。

そんな背景もあるとおもわれて、ぼくも便宜的に<写真>って言葉使ってるけど。
静止画、としてとらえて、書くこと、喋ること、<静止画>でいいのかなと。
これって、時代のなかでの、ありかた、語りかた、使いかた、なんでしょうね。
ともあれ、写真という言葉を使いますけど、表現とはなにか、これですよね。
写真の表現、写真表現、写真で表現する、・・・・。

表現するための根底には、内容、コンテンツと言われているもの。
これは、目的に合わせて、といえば妥当かも知れません。
なにを伝えるか、その伝えるべくものを、静止画イメージとして表出する。
この表出させるために、道具をつかう、つまり<カメラ>という道具です。
カメラを使って制作した写真・静止画を、なにを媒体として発信するか。
制作段階から、この媒体までを含めて、写真の表現ですね。


<写真をつくる装置-1->2010.9.13

写真をつくる装置について、考えてみたい。
装置というからには、仕組み、仕掛け、ということを含めて、その全体像です。
ハードウエアとソフトウエアのうち、ハードウエアを軸にして、ソフトウエアを考える。
シフトウエアを軸にしてハードウエアを考える。
軸の置き方によって、論の組み立て方がちがうと思うが、その両者をもって装置です。

さて、写真をつくるハードウエアの中心はカメラ装置。
カメラには、手作りカメラ、ピンホールカメラから、フィルムカメラ、デジタルカメラまで。
カメラには、フィルムまたはデジタル信号を記憶する装置、メモリー。
フィルムサイズにより、大型、中型、小型、と分けるのがいいですね。
それから、カラーなのか、モノクロなのか。

こうしてつくられる写真を、伝達する媒体、メディア装置。
印刷物にする、写真そのものを展示する、ネットにて配信する。
印刷物にするにしても、書籍として出版、カタログの写真、記事中の写真。
メディアの中で、いろいろな使われ方があります。
最近なら、デジタル信号化された画像情報を、インターネットのサイトに載せる。

いろいろなメディアが使える現在です。
でも、それらは、技術革新とともに、使えるようになってきたものです。
ここでは、装置としての歴史を、とらえてみたいと考えています。
発明の最初には、カメラという箱があり、光を定着させる媒体があった。
論は、ここから始めて、現在のデジタル環境にまで及ぼうと考えています。


2011.11.1
写真論と名付けたブログだから、それなりに。
難しく考えすぎていたようです。
だから、ついつい、ごぶさたになってしまうんです。
だから、気軽に、日記風に、書いていこうと思う。

なにより、名声とか認められたいとか、あるじゃないですか。
写真を撮る、写真を発表する、なんてことは、つまり。
これじゃないかと思うんですよ。
コミュニケーションツールとしてのカメラ。
写真を撮って見せあいっこする。

自分が認められたい欲望ってのがあって。
それにむかって、写真を撮る、なんていえば怒るでしょ。
そんなんちゃう、そんなこと思ってないって、反論あるでしょ。
まあ、いろいろ、とらえかた、考え方あるから無理にとはいいません。
でも、なんのために写真を撮るのか、なんて考えたら、こんな話もでてくる。

気軽に、こんな調子で、文章を書いて、おしゃべりしていく。
それのほうが、いまの時代、ネットってゆう媒体には、合ってる。
なんでもイージーに済ましちゃう。
かんたんに、ストレスかけないで、気軽に、なんて。
そうゆう時代の寵児、デジタルカメラの装置ですもの、ね。


誰がいつ、ここでいう写真に、写真という呼び名をつけたのか、ぼくにはわからない。
写真は日本語です。
写真は光の芸術とも言われたりしていました。
そのような写真が、概念的な意味が、ゆらいできているように思えます。

映画館での映画、家庭内で見るテレビ、いずれも動画です。
動画といえども、一枚の写真を連続させたものです。
連続写真、そうゆう言い方も可能かと思う。
しかし、映画、テレビの連続画像は、動画、動く画像です。

動く画像に対して、静止画という呼び名があります。
静かに止まっている画像、これが写真なわけです。
動く画像って動画ですが、これは静止画の連続したもの。
一秒間に24コマ動くといいます。

静止画はストップしている、ある瞬間の画像。
写真って、言い古されているけど、紙に載せられたイメージ。
紙とイメージをあわせた物質を写真という。
モニターにあらわされた画像は、写真とは言わない。

要は、写真とか静止画とか、呼び名はどうでもいいこと。
論の中心ではなくて、枝葉のこと。
とはいえ、でも、文字が違うとイメージが違うように思われる。
こんなことを話題とする写真論、けったいやなぁ、とも思っています。

-22-

ここでは、人間の欲望と写真の質について、考えたいと思います。
人間の手によって描くことなくイメージを定着させる写真。
最初は、だれでも撮れたわけではなく、それなりの技術が必要でした。
工業生産品となるまで、手作りでしたから、大変さは想像できます。

工業生産品となり、静止画の連続で映画が制作されるようになる20世紀。
モノクロ写真からカラー写真へ移行してくる写真。
つまり動画であって自然な色がついていることが求められる。
人間の欲望の結果、いまの映像環境がある、といえます。

たしかに写真、静止画って、簡単、わけなく撮れてしまう。
写真とはこんなものというイメージが定着しています。
意識がそうゆう類の光景を見て、写真にしてしまう。
カメラの性能があがって、それなりに写真になってしまう。

現在、動画環境は、静止画である写真ほどイージーではありません。
しかし現在、インターネットの通信速度とか、その他環境を考えるてみると。
動画を享受するに足りる環境が出来つつあります。
需要は、写真とゆう静止画から、映像とゆう動画に変わっていくのではにか。

でも、動画となると、編集作業とか、少しは処理が複雑になりますね。
メディアのほうでも、動画を募集するようになってきています。
動画投稿サイトが話題になっています。
このように、興味の方向は、静止画である写真から、動画に変わりつつあります。

そうゆう時代だからこそ、静止画である写真に固守するなら。
固守するに足りる論と内容が必要だと思います。
たんにイージーに制作できる写真の表面だけではいけません。
より欲望を満たす道具へと変化していく、その作り手に、です。


-23-

写真、静止画、カメラで制作する画像。
写真の定義をあれこれと考えているんですけど、写真とは。
いまや写真という言葉を使うより、画像、静止画、と呼ぶべきでしょうか。
ぼく自身は、写真という言葉にこだわっているわけではありません。

といいながら相変わらず「写真」という言葉を使って、論を立てる、写真論です。
けっきょく、写真をめぐるぼくたちの環境といえば、カメラ業界。
カメラ屋さんがあって、カメラがあって、現像所があって、パソコンがあって・・・・。
つまりカメラ産業ってゆうか業界があるわけです。

この時代だから、経済を抜きにして、写真を論じることはばかげてる。
ぼくは、消費するカメラ愛好者、いや写真愛好者たち、と言っています。
お金を出して、楽しませてくれる、そうゆう消費物なのです。
なぜそうなのか、なんて詳細に説明するのもむなしい感じです。

消費者たるぼくたちは、カメラ産業を担う業界と好い中なのしょう。
カメラ雑誌、写真コンテスト、コンテストに応募して、賞を得る。
賞を得ることで、名誉となる、それから作家として認めてもらえる。
でも、写真を撮って、作家生活するのは、経済的にかなり難しい。

でも、それでも、写真を撮って、それで何をするの?
なんて問題の解答を考えていて、結局、交友の手段かなぁ。
写真を見せあい、ほめてもらって、自分存在を確認する。
本質的に、そうゆうことなのかも知れない、とも思ったりしてみたり。


-24-

あんまり難しく考えると書けないから、ラフな感じで、日記風に書きます。
ええ、今年は2011年です。
京都写真学校って主宰してやってるんですけど、7年目です。
2004年から、この7年で、写真をめぐる環境が大きく変わったと思います。
なにより、携帯電話による写真制作が、飛躍的に便利ツールになりました。

写真という言葉は残っているけど、もう古いですね。
静止画、画像、そんな言い方、呼び名に変わっていますね。
ともあれ、デジタルカメラ、通信環境、ネット環境が飛躍的に便利になった。
メディアで言えば、出版が、紙の本から電子ブックへ、ですね。
そうなると、静止画から動画に移行するのも時間の問題か、なんて。

170年ほど前(1839年)に写真術が発明されたんです。
その当時には、絵画に似たものが、勝手に描ける装置、カメラでした。
絵画と写真が、平面における中心的な静止イメージ。
それが20世紀ごろになると映画が考案されます。
動く写真、連続写真、動く画、映画です。

映画のフィルムをカメラで使うようになります。
35ミリフィルムなんて、映画用に開発されたもの。
静止画写真は、動画である映画と向きあうことになります。
写真は芸術作品である、なんてことがいえるようになる時代です。
でも、決定的なのはテレビが普及することですね、写真の役割が変化する。

まあ、紙への印刷による出版物があるかぎり、静止画としての写真は残ります。
でも、どうなんでしょう、電子ブック。
これが普及すると、静止画が動画に置き換えられる。
そのとき、静止画、写真は、どこへいくのでしょうね。
どのような内容で、静止画は生きていくのでしょうね。


-25-

写真の現状を考えてみます。
といいながら、写真の現状、なんて書きだすこと自体が現状にそぐわない。
そんな感じにも思えたり、写真って言葉自体が、もう古いなんて思ったり。
写真、つまり静止画をとりまく環境は、どんなものだろう。

以前なら、写真を取り巻く環境が変わった、なんて書き出しで始めたものだ。
でも、いま、変わったっていっても、古い人から見たら変わっているだけ。
新しい人からいえば、いまがあるだけ。
だから、いま、どんな環境なのか、これを考えればいい。

写真、つまり静止画をつくる道具が、誰の手にもある現状です。
画像、イメージを撮れるツールです。
一眼デジカメ、コンパクトデジカメ、携帯電話のカメラ。
もう、簡単に、手軽に、撮影ができる環境です。

コミュニケーションのツールとして、写メール。
手紙に写真プリントを封筒に入れて、切手を貼って、ポストへ。
そんな手順が、写メール、いとも簡単、それがいま。
写真表現の質そのものが、基礎から変わっているようです。

どんなふうに、カメラを使いこなしていけばよいのか。
静止画と動画が撮れるデジタルカメラです。
メモ帳として、電子ブックとして、其処を自分の画像で埋める。
いやはや、アートフォト、芸術写真とは、いったい・・・・。


-26-
2011.3.5

写真の現況を考えてみます。
写真を撮ることって、けっこうイージーな作業です。
カメラを構えて、シャッターを切れば、写真(画像)ができます。
技術的にも、オート機能で、おおむねクリアーできます。
つまり、写真を撮るって、簡単なことなのです。

ぼくはこの、簡単なこと、というキーワードに着目しています。
写真が発明される以前には、平面静止画として、絵画があります。
版画という複製芸術が、そのころにはありました。
写真、フォトグラフは、太陽光が描く芸術です。
でも、画像を得るには、化学知識、それなりの苦労。

でも、いまは、デジタルカメラで、携帯電話で、写真を撮れます。
絵を描く技術がなくても、シャッターを押せば、写真が撮れます。
そういうことで言えば、写真を撮ることは、イージーな遊び道具?。
でも、写真は静止画で、次には動画が控えています。
デジタルカメラには、静止画と動画が撮れるじゃないですか。

写メールが動画メールになるのも時間の問題。
通信技術的には、i-phoneの新機種、いよいよその時代ですね。
そんな背景のなかで、写真、静止画を、どのように扱うのか。
いよいよ、写真が芸術のなかに参入、ということでしょうか。
それもイメージ制作、古典的存在として、絵画の次に現れた、とか。