2004.06.30
写真と社会
写真がこれまで存立してきた165年(1839年発明)のあいだ、
いつも話題となってきたのが「写真の社会的存在」というテーマです。
ここでいう「社会」とは何をさすかというと「人間を中心とした人間関係の全て」です。
とくに、ドキュメントまたはドキュメンタリーって言われている
写真の手法に限定して写真と社会との関係をみてみるとですね、
(ここでは総論ですから、ことの細部はいまは入れません。)
20世紀社会の大きな出来事っていうと、
第一次、第二次世界大戦の出来事が20世紀の前半です。
米ソ冷戦構造を受けた国際社会構造から起こる出来事が20世紀後半です。
それから20世紀の終わり近く1989年のベルリンの壁崩壊以後の国際社会の出来事。
これがいま2004年6月末日の今日の大きな出来事の結果の枠組みですね。
ここでね、現在の大きな出来事を伝えるメディアというのはTV映像ですよね。
でもね、まだTVが主流でなかったころの1950年代から60年代までの映像イメージは主に写真でした。
アメリカではグラフ雑誌(LIFEが有名)には写真がいっぱい掲載されていて、
社会に大きく世論形成を仕掛けていたんです。
そうしたら60年代以降、現在まで、写真の役割はなくなったのかというと、
決してそうではないと思っています。
ただ、即物的な現場報告はもうTV映像になりましたね、というのがホンネです。
この国が高度成長を始める1960年代以降ですね、
どういうことが起こるかというと商業ベースでいうと、
ファッション雑誌の盛隆とか旅行ブームとかですね、
お金が多様に社会の中にまわり出す背景に、
写真の役割がけっこう多くあったんだと思っています。
社会が人間の欲望を刺激してきて、人々は現在と未来に夢をいだいてきます。
衣服を買ったり、旅行したり、いやはや日常生活に必要な食べ物の購入において・・・
豊かな生活を満喫させてくれるように思ってしまうその背景に写真があった。
そうなんですよ、雑誌には写真がいっぱい詰まっていて、その写真を見て、
わたしたちは消費する気持を刺激されて、その写真のイメージに引き込まれていきます。
ちょっと、こんな経験ありませんか?
旅行に行って観てみたい場所とかっていうのは、写真で観た場所、だってこと。
それに旅行先で見た光景が、あ、写真に写ってた場所や!!っていう感動です。
こんなふうに社会での写真の役割って内容こそ、
その時代によって変化してきていますが、
社会の合意というかコンセンサスというか支持っていうか、
言い方いろいろあると思いますが、
世論を作っていくのに大きな役割を果たしているんですね。
今日は、写真というものが社会的存在である、ということについてのお話でした。
写真を撮る人と社会との関係ということは、全くオミットしています。
あしからずご了承ください(笑)
そのうち、そのうち、作家と社会なんてことにも及んでいきますからね^o^:
2004.06.29
写真と文章
写真を語るのにわたしは言語、言葉、文章を使っています。
まさにいま、ここでやってることが、そのことなんです。
今日は「写真と文章」とタイトルしましたが、
「写真と言語」でもいいし「イメージと言説」でもいいんですよ。
「写真と文学」としてもいいわけなんですが、ここでは写真と文章です。
写真は「イメージ言語」なんていう言い方もされているんですけれどね。
ここでは写真の見方、捉え方という写真を語る語り口ではなくて、
写真というイメージと言語というものの関係を簡単に枠つけます。
写真に写った「愛犬」はそのものずばり「愛犬」なるものの姿が写真としてあります。
これを言葉で「愛犬」を伝えようとすると、なかなか大変ですね。
相手が私の愛犬を知っていてくれればイメージできますからことは簡単ですが、
そうでない場合っていうのは、いっぱい修飾語をつけて説明しなければいけないし、
そうしても実在の愛犬または写真に写った愛犬を語りつくすことって困難です。
これ、あたりまえのことなんですが、写真と文章の決定的な違いなんです。
言語や文の分析でメッセージとかコードという言葉を使いますが、
写真の場合「コードのないメッセージ」なんてバルトって言う人はいいました。
写真って直接性なんですね、
なによりも現物が本物ではないですが、その現物の形で確認できる。
そういう代物なんです、写真っていうのはね。
文章っていうのは、読んで(読ませて)イメージ化する代物ですね。
現物を目の前において会話するのなら、写真を前において会話する、と同じ構図ですが、
現物のないところで文章を読むときって、これはイメージをつくる空想領域でやりとりする。
写真に先行する言語、というのが現状の認識かな、と思っています。
コミュニケーションのなかに言語作用があって、
そのうえに写真でのコミュニケーションが成立する。
でもね、言語優先から、写真含む映像が言語と並列になるだけでなく、
映像だけでこころを繋ぐコミュニケーションが成立する・・・・
未来に向けてはその方向なんですね。
わたしはデジタル写真の将来的展開としてこの可能性を大きく開いたと、
このように仮説しているんです。
デジタル写真とデジタルネットワーク環境ですね、
これらハード環境が融合していくことで、中味(コンテンツ)が発信されていく、
そこにヴァーチャルではありますがコミュニケーションが成立する。
文学作品が読むことでイメージを醸成させて感動を起きさせるように、
写真がヴァーチャルネットワーク環境のなかで人のこころに感動を起こさせる。
そのような可能性を仮説しています。
わかったようなわからないようなお話ですがね(笑)
2004.06.28
写真と絵画
写真のかたちが絵画と酷似しているがゆえ、写真と絵画の関係をさぐる話は多くあります。
写真の発明以後、形式が平面であるがゆえ、写真は絵画と比較して語られてきました。
写真を絵画の下絵として(スケッチの換わり)の目的で撮っていたアジェ(20C前期)
写真を絵画に近づけようとして模索したピクトリアリズム(19C後期)
それから1世紀以上の時間経過があったいま、
あらためて写真と絵画の類似性ゆえ、絵画の追随をしている傾向もあります。
光が勝手に描いてくれる絵画としての写真
花の季節に神社仏閣を詣でるとそこにカメラを携えた人が多くいます。
そのそばに画布をしつらえて絵を描いている人が多くいます。
カメラの時間と絵画の時間を考えてみると
カメラは多くて1秒、絵画は・・・時間、という差
カメラは軽い絵画装置なんかな〜なんて思ってしまいます。
もちろん写真が成してきた役割はもっと多くの系をつくっています。
ドキュメント、報道、瞬間記録、等々さまざまな分野で有効かつ必要に使われています。
また芸術?作品としても多くの潮流をつくってきました。
でも一方で写真を社会的有用性の観点から見るだけでなくて、
人間の創造物としての写真作品のあり方を見るとき、
ステーグリッツ以後、そこに独自の制作方法が導かれてきたことがあります。
人間の内面を描き出す装置としての写真(カメラワーク)です。
デジタル処理の時代に入った写真!
フィルム160年余の年月を経過していま、
あたらしい時代に入っています。
160年余前には、絵画のような「光が描く絵画」として登場した写真でした。
いまフィルム写真のような「デジタルをベースにした写真」が登場したデジタル写真です。
さてさてどうなんでしょうね、単にメモリの形式が変わっただけ?なのか、
それとも全く新しい領域だけどフィルム写真と併走している時期?なのか。
このあたりの考証考察がいま必要とされていることなのかも知れないですね。
写真を考える上で解くべく問題を提起しておきますね(笑)
2004.06.26
写真と映像
写真の発明が1839年ですね。
それから半世紀のちの19世紀末に映画が作られる。
そこから写真術の発展系として映画が誕生してきます。
ここで「写真」は静止画で、「映画」は静止画の連続したもの(動画)として捉えます。
静止画と動画という区分でいいですね。
このことが基本です。
人間の欲望という側面から観ると、
静止画より動画のほうが動く現実に即していますから、
動画のほうにリアリティを感じるようになりますね。
古いメディアがが新しいメディアに淘汰される。
とは言いながらも静止画である写真が存続しています。
写真も映像(ビデオ映像含む)も並立しています。
社会の商業システムでは、印刷媒体と電波媒体のふたつの系がありますから、
並立は当然といえば当然なんですが・・・
個人ユースとしての写真と映像という観点から見てみます。
どちらも工業製品としてのカメラとメモリ(フィルム含む)を使います。
個人の利用の仕方については産業体からの供給によって選択する。
そこに写真カメラとビデオカメラが並立してあります。
いまなお写真カメラが衰退しない状況です。
単に経済システムの生産と消費という図式のなかでの解析だけでは測れない、
写真需要の秘密が「写真」というものにあるのだろうと思います。
このことを解き明かしていくことが必要だと思っています。
システムとしての美術館や映画館やお茶の間TVスタジオのあり方だけではないもの。
人間の欲望の根源を探り出す方向での解析が求められてきていると思っています。
この「人間の欲望」という観点からの認識が「写真」に求められるとき、
写真の学習はようやく社会性をもつことになりますね。
つまり写真のことを考えるのには、
写真以外のことを知って写真に照射しなおすという視点です。
もちろんこれは映像をテーマに考えるときの視点でもありますけれどね。
2004.06.25
写真を展示する場所
写真が紙(印画紙)の上に定着された擬似イメージだということで壁面に飾られる。
ギャラリーやミュージアムの壁面に展示される。
これが一般的な写真の展示方法でした。
いまの時期、あえて過去形で書くしかない現状なのかも知れないですね。
デジタル写真の時代だからネットワーク上で発表するというのも手だと思います。
とはいえ写真を撮る人が発表する場として、まだまだギャラリー優先ですね。
具体的な数値を基に分析してるわけではなく雑感ですけどね。
といいながらもホームページにも作品いっぱい発表されています。
たしかにギャラリーでの展示というとそれなりにセレクトしますから、
それなりに見栄えする写真となっているようです。
ホームページに発表される写真は家庭のアルバム帖といったところかも知れません。
善し悪しべつにして、いまはこのふたつの展示する場所があることの確認です。
美術館を頂点とする場というのは作品収納の場として歴史がありますし、
それだけで価値を構成する仕組みを創っているんですが、
この価値の突き崩しっていうのがまもなく現れてくるのではないか、という予感がします。
つまり写真の価値という意味の見直しですね。
大きくは1960年代に立ち現れた価値軸変更の時代のように・・・
いまあらためて写真の価値軸変動の時代に入ったという感じです。
この現象は写真に限ったことではないですね。
1968年問題という言い方でわたしは見ておりますが、
社会制度のありかた論が活発になってきている背景をもって、
当然、写真のありかた論に及んでしかるべき時期がきている。
ちょうど新しい展示場所としてのデジタルネットワークが写真において意識されるように、
写真を撮る人と撮られる対象の位置関係もわたしの内部に向かうことがいっそう顕著になっています。
きっと、写真の社会的存在の位置が微妙にずれてきているんですよね。
2004.06.24
写真の歴史-01-通史
写真学校のカリキュラムを作っていてこのサイトに記事をアップしています。
毎日少しづつ書きためながらテキストにまとめていこうと思っています。
これらのシリーズはいずれも草稿段階です。
今日からは写真の歴史を登場させることになります。
いくつかの単位が出来てきています。
デジタル写真領域、フィルム写真領域、写真の現在的意味という枠が提示されています。
写真の歴史シリーズは、断続的に書き記していきます。
通史としての写真史。
写真の歴史をどのように捉えるかということですが、
いくつもの系の捉え方があります。
(1)には、道具としての発達史、
つまり発明当初のカメラオブスキュラから一眼レフカメラまで、
また手作りカメラから工業生産へというように、
時代の科学工業との並列でみる写真史。
(2)には、写真の捉え方として、アートとしての系とドキュメントとしての系として、
発明当初からの絵画的指向(ピクトリアリズム)から、
20世紀初頭のステーグリッツを起点として、ジャーナリズムとしての写真などを、
大きな流れを捉えていく写真史。
この系には、ポートレートやファッション等の商業系をも含め社会学的な写真史。
(3)には、写真と人間という視点の系から捉える写真史です。
この系は「私」という撮影者の私性の視点から生み出された写真を捉える捉え方。
それぞれの時代区分のなかでの社会的背景(思想)を軸に捉えます。
「私性」の問題は、この思想動向を抜きにして捉えられないように思いますが、
外に向かっていたカメラが次第に個の内へ向かってく系として捉えることができると思います。
このようないくつかの視点から写真の歴史を紐解いて新たな織物に仕上げていく作業が、
フィルム写真の時代160年余とデジタル写真の時代開始のいま、求められているんだと思います。
特に(2)(3)の視点に重点をおいて捉えることで、
現代の写真の位置とこれからの写真が向かう方向を探っていきたいと思っています。
2004.06.23
写真は芸術?
さあ、写真という言葉と芸術っていう言葉とが並んで?ですね。
それぞれに確定した定義ってものがあるのかな〜と見渡したところ、ありませんね〜
明確な「芸術」という定義もいまどうなんでしょか、やっぱり不明ですね、実感です。
ここで経済システムの中での「写真と芸術」のあり方から、
「写真は芸術?」っていうことを捉えていければな〜と思います。
写真が消費対象になり、芸術が擬似貨幣対象になることで、
経済システムに組み込まれるとしたら、写真が売買されることで芸術作品になれる!?
写真が美術館にコレクションされ、オリジナルプリントという考えが出てくるのは、
けっこう新しいことです、わが国ではだいたい1980年前後だと認識してます。
四半世紀25年ほどですね、経済構造的には高度成長期です。
ここでは写真の本質?とか芸術の本質?とかの議論でなしに、
商品として捉えてみるなかでのあり方を想定しています、念のため。
平面作品の芸術作品化をみる(美術館がコレクションする)と絵画があって、
その次に複製可能な版画があって、その次に写真という流れになります。
わが国の美術館で写真のコレクションがはじまるのは1980年代後半です。
(米国での流れが遅れて定着するパターン)
写真専門美術館ができるのは1990年代です。
一方美術界でも変化がおこってきます。
美術家がカメラ装置を使って作品を作り始め1970年代に表面にでてきます。
美術の側からの写真へのアプローチ、写真の側からの美術へのアプローチ。
こういう流れが1980年代に顕著になってきたように解釈しています。
そして現在、写真は芸術かどうかなんて議論そっちのけで、写真が撮られていますね。
どんどん雑誌メディアやwebメディアのなかに浸透していますね。
さて、こういう観点にたってみて、タイトルにした「写真は芸術?」っていうこと自体、
まだ有効なことなのか、すでに無効な議論なのか、という議論からはじめないとね、
いけない時代にさしかかってきてるのかな〜なんて思っています(笑)
2004.06.22
露出あわせも写真の基礎
写真撮影時の基礎になることがいくつかあります。
ピントを合わせる話はこの前したので今日は露出の話です。
露出って光の量をコントロールすることなんですけれど、
最近のカメラって全自動だから何も悩むことないんですね。
カメラのなかのコンピュータが全部計算してくれて適正値を出してくれる。
そのとおりなんですが、でも写真を撮ってそれなりに見ると
ちょっと思ったのと出来上がりが違うな〜って思ったことありませんか?
人物の顔が暗くなってしまったり黒いはずが灰色になったり・・・・
露出の適正値というのは、
写したいと思った被写体に最適値を与えてあげること
フィルムとかCCDの能力を最高に発揮させてあげること
ここから導き出されることは、
写したい被写体(部分)に対して最高の能力を発揮させること、ということです。
そうするとカメラが判断する適正値が、撮影者が判断する適正値とは限らない。
こういう論法になりますね。
そこで露出の補正ということが必要になってくるんですね。
露出あわせ、ということはこの補正をおこなう要領を知るということですかね。
たしかに沢山写真を撮ることで実践的に感覚でわかってくることもあります。
この場合はちょっとプラスへあるいはマイナスへ、というふうにです。
大雑把な話ですが、ちょっとアドバイス的にいうと、
背景が明るいときはプラス補正、暗いときはマイナス補正。
案外このこと、わかってるようでわかってない人が多いように思うので
ここでさわりのとこだけ申し添えておきます。
2004.06.21
写真の定義
いまさらなにが写真なのっていう向きも多いなかで、写真って何?って問うこと。
写真の定義なんてあまり見かけないでしょ〜
定義するまでもなく見たら写真だってわかる代物だもんね(笑)
でもあらためて写真の定義をするとなるとけっこうややこしいんです。
それではここで試しにやってみましょうか。
写真ってカメラという道具をつかって作る一枚の絵のようなもの。
絵のようなものだけど「光」が自動的に描き出すもの。
これって正解ですか?どうなんでしょうね。
とするとよく似たものにコンピュータグラフィックス、
俗に「CG」っていってるあの代物のことです。
そりゃCGにもいろいろありますけれど、
まった光学機器のカメラを使わなくてコンピュータの中で基絵からつくる。
こうして出来上がって紙にプリントアウトしてくると、
これはあたかも写真のような姿になっていますよ〜
実写の写真を取り込んで加工しているCGもあれば
同様にして写真を加工して「写真」っていうときもありますよ〜
こうなってくるとですね
写真とコンピュータグラフィックの境界線は何処なんでしょうかね。
かってあったと思われる写真の定義がぐらついていませんか?
そんなことどうでもいいんや〜写真は写真なんやから〜ね〜
といって済ますこともありですが、そうとばかりもいってられない時代ですよね。
やっぱり理屈として定義しておかないといけませんよね〜
結論はでません、ボクが定義したって学者先生ではないですから(笑)
広辞苑にはどのように表記していくんでしょうね??
だれか学識経験者って言われているヒトさんよろしくお願いしますね。
2004.06.20
写真の中味
写真を愛好する人たちが大勢います。
写真ってなによりもとっつき易いしバックアップ体制も完備されていますしね。
写真を撮るという目的をもつだけで旅行の中味も豊かになるようだし、
子供の成長記録だとかで家族が歩んできた足跡をアルバムに残しますから、
現代人にはなにかと重宝なツールだと思っています。
そういった愛好家たちの層に支えられて作家と名乗る人たちが存在します。
人間の欲求のなかの自己実現を果たしてくれるツールとしての写真。
そのような営みとしての写真制作作業の中味、
つまり写真に撮られる被写体の中味といえばいいでしょうか。
この中味をどうするのか?という問題に直面したとき、
カメラを持ったひとは、写真というものが社会的存在としてあることに気づくのです。
さて、何を撮ろうかな〜〜、って詮索して何かを撮り始めます。
大きな物語としての戦争の現場や小さな物語としての私とあなたがいる現場。
写真には160年余りの歴史がありますが、いつもその中味をどうするのかが、
その時代時代のテーマとなってきたように把握しています。
現代はよりいっそう写真の大衆化時代です。
携帯電話の普及数以上にカメラ台数はあるわけです。
「写メール」時代なわけです。
プリクラ、写メールといった写真のある日常のなかにこそ、
写真の中味が生成しているように感じますね。
概念でいえば「小さな物語」なんですね。
写真の主たる中味はこの小さな物語のなかそのものなのかも知れませんね。
生活スタイルそのものが多様化しているとはいえ、平均フラット化してます。
そこでこの時代に有効な存在感っていうのが「私とあなた」のリアリティ関係。
そんな視点で写真テーマの動向をみていくことから何を見るか、が課題なのかも知れないですね。
その根底に「記憶」と「記録」ということの意味再構成があるように思っています。
2004.06.19
写真の理論
ある展覧会の会場でルーマニア育ちで留学中の人とこんな話を交わしました。
・写真の理論ってロラン・バルトがありますよね
・そうそうロラン・バルトの「明るい部屋」でしたね
・実際、理論を勉強しても役にたたないです
・そうですね〜写真の理論って写真のことでしょ?
・だいたい写真の中味って写真以外のものだから写真のこと考えていても役にたちませんね
・そうかも知れませんね
・ロラン・バルトさんだって、たまたま写真というモノを出してるけど語る背景は別理論でしょ
・それにそれってもう20年以上まえの理論というか分析でしょ?時代かわってるよね
・そうだね、世界の構造が変わったですよね
・ルーマニアも変わったでしょ?体制の根底そのものが・・・
・だとしたら、いまの世界の構造にたった写真の理論ってのが必用なのかもね
なんか訳のわかったような判らないようなお話ですが
写真のことを考えるのにどうしたらいいんでしょうかね?ってよく訊かれます。
そんなとき、写真を見ていても技術のことしか出てこないです、
写真を捉えるのは、その時々の哲学的風潮とか、経済的風潮とか〜
社会の風潮を分析する学問の援用をうけてしか成立しないのではないですか〜
こんな答えを用意しています。
わかったような判らないようなお話なんですが
写真ってなんか学者先生から継子扱いされてるみたいなんですね
そんな感じをうけています。
社会の動向と風潮ですね、
現在だったらローカル化とかルーラル化の流れがありますから
この枠組みのなかで写真というものを捉えてみるのも方法かも知れないんです。
新しい写真学校では、こんなふうに提案しようと思っています。
2004.06.17
写真のテーマが向かうもの
写真のことについて考えていくとハードウエアとソフトウエアのことに二分されます。
ここではソフトウエア、写真のテーマについて少し考えたいんです。
写真のテーマが個人の内面を照射してそこから感情を交えたイメージをつくる。
こんな風な方向にきているような気がしています。
いまは、撮られた写真に大きな物語を感じさせるかどうかは置くとしてですね。
非常に個人的な体験を中心として写真が撮られてきているように見受けるんです。
個人の内面が置き去りにされている時代って言えばよいのでしょうか?
ふっと気がつけば私は孤独、なんてことありますよね。
特に最近の傾向として自分自身を考えるということがあるようです。
しかし自分自身を考えるなんていう枠組みが希薄な社会のようです。
そこで悩んでしまう人たちが多いと思うんです。
自分を告白したい衝動に駆られる!
ネット上の個人ホームページの匿名記事が告白に満ちていると思いませんか?
内なる衝動を匿名のままだったらさらけ出せる!
この自己表出の形式には次のようなものがあります。
日記体文学という形式をとったり写真・映像という形式をとったりです。
かってはノートに日記を書くという行為が詩作や小説につながっていったのですが、
いまの時代はパソコンツールで日記ホームページが簡単に作れてしまうので、
一定の形式を踏まないと出来なかった作品レベル以前の文章や写真が公表される。
こんな時代なんかな〜って思っています。
そうだとしたら発表の場が一気に拡大しているわけですから、
ここでは写真。写真のテーマが個人のプライベートな露出に向かってきたことも理解できます。
こういうデジタルネットワークの時代の写真のテーマが「私」そのものであることは、
ハードウエア側面からの援護で一気に顕著になってきたようにも思います。
学校カリキュラムとして、この現象を精確にとらえていくことが必要だと考えています。