2004.06.11
写真学校のプログラム
新しい写真学校のプログラムをつくっています。
デジタル時代の学校というコンセプトからしてフィルムとデジタルの両面から
写真という表現手段をどのようにして使いこなしていくのかというのが主眼です
写真を自己表現の手段として捉えていくなかで考えると
技術習得プログラムと思想獲得プログラムのふたつの領域があります
技術習得を主体においた写真学校から脱却していくプログラム開発が必要なんですね
写真の背後にあるものを考え捉えて自分の生き方にまで遡上させること
パーソナルメディアとなった写真術が自分と対話する手段であること
こんな命題的なことを想定しながらプログラムをつくっています
学校の教科プログラムっていうのは実践が伴ってきて実態化します
写真っていうものが映像・イメージを作り出す装置の原点なのに
文学や音楽のようには正規の学校では教えていませんよね
デジカメブームで個人ユーザーが爆発的に増えていて
街角のプリクラボックスが大繁盛していて
これらはもう大きな文化の領域を形成しているのですよね
こんな時代に写真を学ぶ学校が模索しなければならないことは
時代の奥深くに潜在している欲望の中味を表に出してあげることができる
そのことが必要なんだということに気づくプログラムだと考えています
写真表現の現在っていう評論タイトルはもう定番になってしまいましたが
必要なことは社会の構造をどう分析して現在というものを捉えるのかという命題に
写真制作の技術と思想の両面からどうアプローチさせるかなんですね
2004.06.09
ピントあわせは写真の基礎
写真の勉強で基礎となるものは何かな〜って思っています。
そんなとき、自己流で写真を撮ってた人が写真を見てほしいって来ました。
ピントが合ってないんです。
なんでもそうですが「ピントはずれ」ってこといいますよね。
カメラの技術でいうと「ピント」が合わないってことは基礎が出来てないってことですね。
でもね、最近のカメラって全自動でしょ、ピント合わせも自動なんですね。
とっても楽チン、誰でも写真が写せる(あたりまえ!)写ルンです。
ここにちょっとした落とし穴があるんかもな〜って思いだしています。
写真に興味が出てきて、作画意識が出てきて、そこで使いこなそうとすると、
全自動ってのがちょっと邪魔になるんですね。
もちろんカメラには手動でできるようになってるんですが、
でお、ピント合わせに苦労するらしいですね。
わたしは完全手動の時代に写真撮り出したしもう昔のことだから忘れてますけど、
最近は、便利なんだけど不便もあるってことなんですね。
だったら昔は全て不便だったじゃないですか、進歩したんですよ!
っていう見方もうなずけるのですが、便利すぎて不便。
ピント合わせはハード面だけではないです。
何を撮るのか、っていうテーマ設定のところでもピント合わせが必要なんですね。
カメラってレンズを向けてシャッターきれば写っちゃうからね〜
で、少し欲が出てきて写真でもって作品化しようと思うと、困ってしまうんですね。
テーマがあるようで見つからない。
何にピントを合わせるのかということが見いだせないうようなのですね。
困ったな〜〜って顔して、花でも写すか〜子供でも写すか〜・・・
写真の現在と未来を見ていくのに過去の歴史は必要か不要かということです。
そして歴史を見る視点ってのも求められますから、写真ってちょっと手ごわいですね。
そう考えていくとだんだん勉強する場所がないことに気づいてきませんか?
気づいてきた人は集まろう!!
学校をつくっていきましょ〜〜!
気づきの写真学校なんていうのもいいかもしれないな〜って思っています。
2004.06.08
つまりお金ではない・・・
写真学校フォトハウス京都の考え方
なんでもそうなんですが、なにか全てお金しだいってことが今の世の中ありますよね。
金さえあればこの世では〜〜なんていうのは満更ウソではないですね、なんでも出来ちゃうですね。
お金をだせば写真の専門学校や芸術系大学で写真のお勉強ができます。
そりゃタダでは教えてくれません。
このお金が動いてそこに教え教えられることが出来る関係っていうのを、教育産業っていうんだそうです。
確かに設備が必要だし、建物も必要だし、教えてくれるひとの生活費が必要だし、
って考えていくとお金の要ることばっかりです。
経済活動の一端を担っているんですからどうしようもないシステムなんですね。
でも、この経済活動を成立させないところで写真を教えたり写真をあげたり出来ないだろうか?
っていうのがそもそもの根底にあるんです。
教育がなんのために施されるのか、っていうと生産を上げるためなんですね。
社会に出て行くという言い方しますが、教育を受けて仕事に就くわけです。
そうしてこの世の中の仕組みに参入していくのですね。
ここで、いろいろと問題がでてくるんです。
まず世の中の流れの中でですが、容認できないことが沢山あります。
出世という考え方があります。何をもって出世したと認定するかといえば、
会社で仕事するときには社長以下部長だとか課長だとか・・・・
俗に上下の関係ってあるんです。その上の方に就いていくことが出世。
大きな会社、小さな会社あるけど、俗に大きな会社の方が上、人間の欲望って上昇志向ですね。
競争心ってのも必要ですね。
戦争があります。絶対嫌や〜〜っていっても無くなってないですね。
兵器作ってる会社って戦争が起こったら儲かる仕組みなんでしょ?
こんなんずる〜い、っていってみても、そういう仕組みだからどうしようもないんですよね、個人的にはね。
そういう価値の軸の上ではない、そうではない価値の軸ってないんでしょうかね。
その価値軸にせめて反抗する程度のことしかできないのかも知れませんが、
もう一つ別の価値軸を作ろうと思っているんです。
この「あい写真学校」「写真ワークショップ京都」いずれも経費ゼロにはならないですが、低く抑えています。
自分が作ったもので学費の代わりにする物納でもよいことにしています。
地域通貨っていうシステムが試みられ始めていますね。
そのシステムに基本的に同感するんです。
その実践としての試みが「あい写真学校」の学費納入のシステムなんです。
教えてあげる労力っていうのを貨幣価値判断から除外する、
あるいは排除するってことの試みなんです。
だからお金が全てに優先する!なんて考えの人はなじまないですね。
そういう人は沢山お金を支払って卒業証書ってのをもらったらいいんです。
そ〜ゆう価値観じゃないところで、ものを考えたり作ったりする仕組みを創りたいと思っているんです。
2004.06.07
写真の範囲
写真の範囲ってどういうこと?
そうなんですね、何をもって写真とするのか、っていう区分けの問題なんです。
かってカメラ装置とフィルムが創りなすものを写真っていってました。
でも現在はカメラ装置とフィルムが無いところで写真に似たものが創られる。
たとえばコンピューターグラフィックス、これって写真の仲間に入れてはいけませんか?
物理・化学処理によって作り出されたものが写真だとしたら、
デジタル写真ってのは化学処理しないですね。
現像のための薬品使わないではないですか。
暗い部屋(暗箱)から明るい部屋(コンピュータ)の方へ、
処理の方法が変わってきたじゃないですか。
カメラ、フィルム、薬品、コンピュータ、デジタルデータ・・・
いま朦朧としながらも写真って呼んでる範囲におけるハード装置です。
べつにどうでもいいことなんかも知れません。
明確にしないほうがいいんかもしれませんね。
いま、世の中って混沌だし混沌のままで表面すべっていったらいいんかもね(笑)
これまでの分類方法では現実に即さないようですから、
あえてこうして発言してるってわけです。
つまり写真学校っていってるんですけど、
なにを学んだり研究したりする学校なんですか?
っていう素朴な疑問があるんです。
これを解明していかないとやっぱりやっていけないでしょ〜(笑)
これもカリキュラムに入れないといかんのやな〜って思ってます。
2004.06.06
デジタル写真
デジタルカメラ開発にかける日本企業の番組がTVで放映されていました。
たしかにカメラ生産の技術水準が世界をリードしていることは事実のようです。
ところでソフトウエア、コンテンツの生産はどのような現状なのでしょう。
共同体の文化度が高いと雑誌や出版物に多く利用されるし
カメラマンの写真展もあちこちで開催されています。
インターネットのページを覗いてみてもし主流は写真イメージです
そのうち動画が中心となると思いますが、
個人がたしなむには写真が簡便でなじみやすいです。
写真表現がヴィジュアルアートの一角にあると認定すると
上記の話ではちょっと対応できにくい代物となってきます。
そこでは写真の生産と消費の側面からの視点ではなくて
人間のこころの問題として写真を捉える視点が求められると思っています。
情報化の時代はこころとこころが直接に結びついてく時代だと思っています。
新しい社会制度としてのインターネット時代を迎えているデジタル環境のなかの写真!
そんな時代のなかでの写真の在処を探し出していくことが
新しい学校には求められているのだと考えています。
その磁場にはなにが起こってくるのでしょうね〜
2004.06.05
いま写真がおもしろい!!
デジタルカメラで気の向くままに撮って見てまた撮って見て、
そこに友だちや大切な人がいればもっとおもしろい気持ちになるよね。
写真ってコミュニケーションのツールなんです。
でも、どうしたら上手になるのかわからないと悩み始めたひとへ贈ります。
写真はあなたの心です。心を表現するには表現する技術が必要です。
ところで「心」とはいったいなに?どんなものなのでしょうか。
いま、写真の心をめぐって、熱い議論が交わされつつあります。
あい写真学校では時代の本質を見つめ体感するためのカリキュラムを中心にした、
感じられる写真の創り方を勉強します。
写真がなぜ面白く感じられるのかというのは、直接人間の、
つまりあなたの心の奥深くに眠っている神秘さとか感動を起こす感覚とかが、
目覚めてくるからだといいます。
写真というのは撮影技術をマスターしたからってわかるものではないです。
ますますわからなくなってくるのが、誰もが体験することではないですか?
なぜ、そうなるのかといえば、写真を撮ることで何かを表現することなんですが、
それが自分の生きてるってことに直結していて、生きているっていう快感なんです。
でもその意味を見きわめることって、実はなかなか大変なことです。
これまで偉大な芸術家って呼ばれている人たちが創造力をかきたてられた源泉は、
苦悩の奥深くにある快感を求めてきたのです。それがひとを感動させるのです。
写真を始めたあなたはね。つまりすでにその入り口に立っているってことなんです。
祈るということではなくて、あなた自らがいのちの恵みを受けに前へ進み出る、
というのが写真の行為そのものなのです。
写真が面白いと感じられるのは、前へ進み出ることにつながっているからです。
でも、やればやるほど何を撮ったらいいのか、どうしたらいいのかわからなくなるのも事実なのです。
ですから、その解決の糸口をほかのところから導いてこなければいけない。
自分に対して他者の存在があって、そこに境界があって、
この境界を越えていくコミュニケーションの方向、自分の心を開いていくということなのですね。
そのための学習をすることが必要なのです。
写真を撮って人に見せたい、見てもらいたい、っていう欲求は、
このコミュニケーションを求めていることなのです。
ですから、あなたが撮った写真を支えているルールというか意味というか、
そういうものを自分で考えていかないと相手は感じてくれない。
写真を勉強するってことは、そういう感じをあふれさせるということなのですが
、どうもこれまでの写真学校では技術的なことは教えてもらえるけれども、
喜ぶ快感はあまり教えてくれなかった。
むしろ写真を創っていくことは苦しいことなんだ、と教えてきたのです。
時代環境が変わってきて、新しい生き方っていうのは、
この快感を快感として認めてあげることで、これを求めていくことです。
新しい写真の勉強というのは、そんな新しい時代の向こうにいくためのこころ、
気持ちをつむぎだしていくことです。
そういう新しいタイプの写真家を育てたいと思っているんです。
写真学校フォトハウス京都の考え方の一端でした。
2004.06.03
写真の限界
写真のことを考える枠組み作りが、写真学校フォトハウス京都の仕事です。
そこで今日は「拡大する写真の現場」から写真の限界をとらえてみます。
写真ってけっきょく物質としてあるものしか写らないんです。
すごく当然当たり前のことなんですがそ〜ゆうことなんです。
だから写真の限界ってのは物質でないものは写せないってことです。
物質としてあるものは写真にすることができる。
宇宙の写真があります。
コンピューター処理して目に見える宇宙の姿の写真があります。
人体内部のミクロな物質を撮った写真があります。
遺伝子とかの写真です。
そうなんですね、写真に撮られるものってマクロからミクロまで
科学技術開発のおかげでもう際限なく拡大深化しているんですね。
1852年にパリで出版されたマキシム・デュ=カンが撮ったエジプトの写真からはじまって
写真は遠くのものを近くへ引き寄せる役割をになってきたんです。
旅行記や冒険物語として多くの記録を残してきたんです。
いつもその時々の写真の限界に挑みつつここまでやってきたんですね。
宇宙深部や人体内部の深〜いところまで写真に撮られてきたんです。
でも見えるものしか写らないという原則は崩せないです。
これが写真の限界なんですね。
でもでもでもですね、写真は見えないものを見せようとしてきたじゃないですか!
表現っていうのは見えるものの背後にある見えないものを見せることじゃないですか?
なんか、ややこしくなってきたな〜(笑)
このややこしいところを検証していくのが、
新しい写真学校の役割のひとつかな〜
そんなふうにも思っています。
2004.06.02
写真を学ぶキーワード
写真ってどんなものなんですか、
って問われて明快に答えって出てきますか?
真実を写すもんなんや、って言ったって
そんなこといったら余計に複雑極まりないですしね。
でも写真って不思議なものです。
考えれば考えるほどわからなくなってくるように思っています。
そこで写真ってのは器であってその中味は他の体系に依存する。
このように括ってみるとおぼろげながら見えてくるものがあります。
現代社会を論理付ける枠組みそのものを
具現化したものが中味ではないか?って思うんです。
そこで現代社会の話題となるキーワードをだしてみました。
1、生命、こころの科学的解明と非科学領域
2、自然、地球、宇宙の捉え方
3、人間の欲求、欲望、情動のありかと社会制度
4、政治、経済、芸術、宗教の再融合化
非常にアバウトなものですが、こんな区分を仮説してみて
それらについて自分が捉える位置というのを明確にしていくこと
そこからどのようにイメージ化していくのか、
っていうのがキーワードになるように思うんです。
いまの時代、そんなん理屈と違うよ、っていう風潮もありますが
そんな風潮の中でこそ問題を明らかにしていく必要があると思うんです。
写真を学ぶ写真学校の基本的スタンスをこのように求めています。
2004.06.01
フィルム写真は残れるか
デジタル写真の時代になって、コマーシャルやエディトリアルの仕事も、
デジタルカメラを使うようになってきてます。
写真を仕事にするにせよしないにせよ、デジタル化へまっしぐらに進んでる現状です。
こういう現状にもかかわらずフィルムで写真を制作する人たちもいます。
フィルムにはフィルムの魅力がある!
確かに現状では粒子、色調など印画紙を使う限りフィルムの方がよい。
でもこれもデジタル技術の進化でフィルムを淘汰していきますよね?
フィルム写真が今後も残るとすれば、
それはフィルムしかできない領域を確保していかなければいけないんです。
写真が美術(アート)の一角を占めるようになって久しいですが
工業製品としての銀塩やカラー処理工程での残存というより
フィルムを使ってより手作り化していく方向での残存を想定しています。
作品制作者(作家)は銀塩だけではなく非銀塩の写真世界も含めて、
その技法や材料を吟味していくことを考えていかなければいけないと考えています。
つまり手作りの、かってあった技法を掘り起こしていく作業が求められるのです。
それともう一方の技術ではなく「写真が扱うテーマ」の問題があります。
フィルムがフィルム固有の向かうテーマとは何か、
ということを導きだしていかないと意味がないです。
フィルムとデジタルというふたつの媒体をどう使うのかというのが
当面の課題になりそうですね。
2004.05.25
写真のネットワーク
いま、ここで考えようとしている「写真のネットワーク」とは、
新しい時代の人間の生き方を探っていくための開かれたネットワークのことです。
現在、学問上の分野で、生産と消費生活の領域で、
これまであった社会システムや考え方では解決できないことが、
あらわになってきているように思います。
このことは、世界の構造(国家と国家の関係のありよう)や世界経済システムの変化により、
個々の人間のあり方も急激に変化していかなければならないように思えています。
この変化はグローバル化する世界構造において、いろいろと問題点がクローズアップされています。
私たちの周辺を見てみても、精神世界や宗教関連の出版物があふれ出していることや、
自然と親しむ方向(ルーラル化)への情報がテレビ番組や雑誌などの特集が
多くみられるようになったことがあります。
これは近代以前に人間社会が培ってきた文化環境を取り戻す試みとして、
その現在的な問題を解決していくことを暗示しているように見受けられます。
私たちはこの情勢の変化を的確にとらえて、
新たな人間関係のネットワークをつくっていく必要があるのではないかと思っています。
各生産分野(特にここでは写真生産分野を中心として)の専門領域においても、
このままでは人間不在ともいえる新しい商品開発の研究のみが先行していくようにも感じています。
写真の分野では、モノクロ写真からカラー写真へ、現在はデジタル写真へと移行しています。
そして、いつもその周りには消費者としての私たちが存在しています。
あるシステムが商品化されることで完成したものとみなすとすれば、
フイルムをベースにしたカメラと写真処理はすでに完成品であって、
私たちは消費者の域をでることができなくなってしまったのです。
デジタルカメラはすでに商品化されて機材としては完成しました。
今後は部分的改良が加えられてそのつど需要を喚起してきます。
でもそのソフトウエアである写真表現の形はまだ始まったばかりです。
現在はフイルム写真からの置き換え過程です。
20年ほど前にレコード板からCDへ移行したようにです。
世界が統一(グローバル化)されていく構図に対して、
どのようにして一人ひとりの人間としての希望の実現を試みていくのか、
ということが求められているのです。
こうした視点から見てみると、いろいろと現れてくる新しい仕組みに対して
それぞれが意識的に対処していくことが求められていると思います。
これらのことを具体的に実現していくためには、
いまある商品としての価値観から意味を組み替えるべく新しい考え方の体系を模索しながら、
新しい世界観をつくっていける個人と個人のネットワークが必要だと思っています。
これから先、私たちが具体的にやらなければならないことは、
写真を撮り、写真を創るということを中心としながらも、
現代のいろいろな問題を考えながら表現の形にしていくことだと思います。
自由に発想し新しい時代を創っていくためには、
具体的な方法を取得する場を創り出すことが必要で、
写真ワークショップ京都のネットワークはそのような場になればいいなと考えるところです。
価値や意味をとらえる思想の領域から生産と流通と消費の領域までを含む、
私たち自身の一体化した新しいシステムを創り出していくことが必要になっていると思います。
この写真ワークショップ京都もすでにある価値観や意味するもののなかにありますが、
また、デジタルネットワークという商業システムを使っていくことになるのですが、
紙一重のところでそこからの脱却を図ってそれぞれが独自のメディア展開を
していけるようにしていきたいと思っています。
写真のネットワークとは、ぼくたちが新しいメディアに使われるのではなくて、
これを私たちのために使いこなしていくことに尽きると思います。
具体的なネットワークの創り方は別項にて提案していきます。大きくいえば、
デジタル環境を使ってのネットワークシステム作りということです。
2004.05.24
写真教育のはなし
写真って小学校や中学校で教えないんですね
写真つまり映像文化の根幹にある表現媒体なんだと思いますが
学校の基本教育のかたちは文字文化が全てのようにも見えます
20世紀の時代は写真、映画、テレビというように映像を主体に進んできたと思うんですけど
人間の生成過程にけっこう大きな影響を及ぼしてきたメディアだと思うんですけど
学校で教えてないですよ
写真が発明されてどれくらいの年月がたっているか知ってる?って聞いてみて
たいがいはきょとんとしてしまって、さあね〜どれくらいなんやろ〜戸惑ってしまうね
これが現実の認識度合いです
べつにこんなことどうでもいいことや、って言ってしまえばどうでもいいことかも知れませんけど
カメラを持つこと写真を撮ることが英会話すること以上に現代生活に入り込んでるのに
どうもいけませんね〜
でもでも最近は写真の美術館もできてきたし展覧会も頻繁に開催されてるし、
表面にはだいぶん現れてきたな〜〜
でも見せてもらう側にしてみれば解釈の尺度がないもんだから
どのように解釈したらいいのかわからないんです
だって学校で教えてないんですから
いやはやこんなこと必要ないんかも知れませんね
写真って消費されればいいものであって学問の体系に組み込む必要なんてないのかもね
でも大学の社会学部あたりで文化論の論文書くときに困ってる学生もあるんですよね(笑)
2004.05.23
デジタルカメラ
写真好き好きの知り合いと話していて、当然のようにデジカメ買った話になりました。
一眼レフデジタルカメラで700万画素のをやっと買った(けっこう高価)っていってました。
それからハードウエアーのはなしが、つまりデジカメの性能についての講釈があって
フィルムカメラとデジタルカメラの比較検討(あくまでカメラの話)の講釈があって
まあね、最新機材をもったことの自慢話ってわけです(笑)
そういえば私のデジカメはキャノンの500万画素、昨年10月に購入しました。
けっこう使い勝手いいです、小型だし、素人さんのように見てもらえるしいいですね^o^
こういう話ってけっこう主流なんですよね消費者業界ではね
でもちょっと違うんじゃない?って申したいわけ
それは道具のはなしであって何をつくるの?ってことに話がおよばないとね、って思うんです。
それは料理人が包丁の話をするのとおなじだよ
絵描きさんが筆と絵の具の話吟味するのとおなじだよ
そういう話題も当然必要だけど肝心なのは中味の問題でしょ?
形骸化してるな〜肝心なのは中味をどうするのか、ってことですよね
この中味をどうする?ってことを話したいんです。
「写真ワークショップ」っていうのは、この中味をどうする?ってことを話する場なんです。
そのように組み立てていくんです。
ハードウエアー・デジタルカメラの使いこなしは当然だけど
それだけじゃないいんですよ、というところから始めないといけないみたいですね。
これは入り口です。
2004.5.21
デジタル写真の時代
写真って映像文化の原点の形だと思うのですが
いま、フィルム時代からデジタル時代に移ってきています。
写真のデジタル領域では、デジタルカメラとパソコンとインターネットがあります。
明らかにこれまでの写真の社会的存在の形式が変わったと認定できると思います。
写真に撮られる内容は置くとしても、処理方法と発表形態が一変してるんです。
このような場所からみるとネット上で多くの写真が発表されています。
カメラメーカーはそれぞれに個人が写真アルバムをもてるようにしています。
個人がそれぞれにホームページをもつことが当たり前になりましたし
そこには自分で撮った写真が多く掲載されています。
これまでのフィルムベースの写真の制作プロセスと発表形態がよいのか
それともデジタル領域での制作プロセスと発表形態がよいのか
文化の過渡期にあってあたらしいデジタル領域は
従前のフィルム写真の方に回帰しようとしているようにも見受けられるます。
これは価値の軸をどこに置くのかということなんですが、
わたしたちの写真経験160年余はフィルムベースだったから
その領域で培われたノウハウに価値軸を見ているんですね、きっとね。
デジタル写真にはデジタル写真固有の場があるはずです。
その場所を作り出していくことが新しい写真学校には求められていると思います。
写真の内容が求めていくテーマにおいても
デジタル時代だからこそのテーマが導かれてくるものと思います。
写真がギャラリーやミュージアムの壁面を飾っていた形態から
バーチャル空間へ解き放たれていくとき
そこに新たなコミュニケーションの形が生成してくるものと思います。
この新たなコミュニケーションの形にこそ注視していくことが大切だと思います。
写真学校フォトハウス京都の求めるカリキュラムはこのあたりにありそうです。
2004.5.20
新しい写真の学校創り
新しい枠組みで写真学校を創っていくことを提案しています。
1984年に活動を開始したフォトハウス京都。
その当時はフィルム写真全盛でしたので「ゾーンシステム講座」をベースに開講していました。
その勉強方式はワークショップ、宿泊合宿の形態をとっていました。
その後の20年という年月のなかで、
写真を専門に扱う美術館が出来たり写真専門ギャラリーが出来たりしてきました。
そしていま、写真はデジタル時代に入ってきました。
「写真学校フォトハウス京都」はそういう時代背景のなかで、
商業資本(学校産業をふくむ)のなかで、インディペンデントな学校を創りたいとの要望で、
想いのあるひとが集まって創っていく学校を想定しています。
いまどきこんな学校があってもいいんではないですか?
2004.5.18
デジタル写真のはなし
デジタル写真が主流になってきました。もうフィルムの時代は終わった、って感じです。
どこの家庭にもカメラがあって、子供の成長記録とかペットの写真とかを撮って、
そのフィルムを写真屋さんに外注していた時代から、手元のPCに取り込んで処理できる時代になってきました。
そのうちの何人かは写真を自己表現の手段として使いたい欲求が芽生えてきます。
そこで待ち受けているのが商売やさん、カメラと写真産業はおおきなマーケットです。
ひところはビデオに移行していた消費者がデジタルカメラを使いはじめました。
もう家電製品ですね。
そこでカメラの形が高級イメージのある一眼レフ型に移行し始めているようですね。
価格もけっこう高くなっていきます。
消費者としても高級カメラを持つと自分も高級写真が撮れるような思いが出てきます。
そんなんじゃないんよな〜ってところからの出発。
写真って何ナノかな〜
ふっとそんな思いが立ち上ってきたときに商業の枠ではなしに
写真というものを考え捉えていくフレームが必要なのですね。
そのことを基本軸において写真を考え学ぶ場所「学校」が必要なわけです。
2004.5.17
デジタル時代の写真
写真の学校をつくる計画の中でなにが中心かといいますと、
デジタル時代の写真表現とはどういうものだろうか、ということです。
写真術が発明されたのが1839年です。
それから160年余りが経つなかで
映画が生み出され、テレビが生み出されてきました。
いまデジタル時代に写真が一番古いメディアとなった感がありますが
これはフィルムの時代における捉え方だと思っています。
静止画像としてのデジタル写真は、おそらくフィルムとは違うものです。
その違うものだ、ということを軸に考えをめぐらせていくこと。
これが必要な視点ではないかと思うのです。
写真が発明当初の英国でタルボットという人が
「自然の鉛筆」という写真集を編みます。
そこには写真の効用というか利用方法が書き述べられています。
いまあらためてそのことを思うと、フィルムとデジタルは似て非なるのも、
そういう論の立て方もあるのではないかと思われるのです。
新しい表現の方法がどんなものかの想定はこれからの作業です。
ネット上では「あい写真学校」を、
実地では「写真学校・写真ワークショップ京都」を、
その相互共通カリキュラムをこれから組み立てていきたいと思っています。