中川繁夫写真評論集-4-


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最新更新日 2018.11.2

写真評論 by nakagawa shigeo
☆デジタル写真の時代1〜4 ☆フィルム写真の現在1〜3

2004.10.04
デジタル写真の時代-1-

こんにちは!あい写真学校です。

最近の写真の話題は、なんといってもデジタルカメラですね。
もうカメラにフィルムを詰めて写して、写真屋さんに現像頼んでプリント仕上げ。
こんな写真の出来上がりまでのプロセスも、今や過去になりつつありますね。

デジタルカメラで写して自宅のパソコンにつないで画像を取り込む。
プリンターで印刷してもいいし、そのままメールで送ってもいいですね。
インナーネット上でアルバムを作ってどんどん保存じていくことも簡単に出来る。

デジタル写真の時代って、写真の出来上がりプロセスの全部、
自分の手で出来るようになっているんです。
それにコストがかからないですね、なんてったって安く出来ます。

かって写真愛好家は、写真を手作りしてました。
白黒フィルムを自前で現像して、印画紙に焼き付けたものです。
モノクロ写真(ゼラチン・シルバープリント)ですね。
カラーフィルムが全盛になってもハイクラス写真愛好家はモノクロ写真でした。

というのもカラー写真では自家処理がしにくいですから、写真屋さんに処理を頼みます。
すると写真にお金が、けっこうかかります。
そんなこともあって、自家処理でモノクロ写真が主流だったんです。

この流れでいけば、デジタル写真は自家処理が原則ですね。
モノクロじゃなくてカラーですね。
印画紙仕上げではなくて、ホームページでの発表ですね。

デジタルカメラの精度がだんだんと上がってきて、
カメラの価格も相応に安くなってきています。
写真を写す、処理する、発表する、という面では、
デジタルが断然有利となってきました。
フィルム写真に替わるデジタル写真です。

それにカメラ産業界では、家電メーカーがデジカメに参入してきて、
かってあったカメラメーカーやフィルムメーカーというのも混戦もようですね。
業界拡大してきましたけれど、感光材料はもう入りませんから、
金額ベースでの総需要は現象しているんじゃないでしょうかね。

デジタル写真を、産業体のひとつとして見ていきますと、
もはや産業体質そのものが、フィルム写真産業の解体と
デジタル写真産業の生成のドラマです。

シリーズ第一回目は、写真のハード環境についての話題でした。


2004.10.05
デジタル写真の時代-2-

デジタル写真の方向性として現状をみてみますと、
フィルムで制作した写真の在り方の模倣をしています。
フィルムの替わりにデジタル信号とコンピュータ処理をする。
でも出来上がりの姿は、フィルム制作のようにプリント仕上げをします。

これってどっか変ですね。
なにが変かというとデジタル環境を活用していない。
デジタル環境はネットワーク環境です。
回線を使ってネットワークすることなんてフィルムでは出来ないことです。

ということは、デジタル写真っていうのは、それ固有の使い方がある。
そのように捉えて、デジタル写真の可能性を考えることが必要なんです。
とくに写真のことを教える学校というもの、
その枠をデジタルの方に移行させなければならないんです。

ここに「あい写真学校」を設立しておりますが、
デジタルネットワークを十分にこなしていこうという目論見があります。
メディアアートと言われている領域があります。
メディアアートとは、必ずしも映像を主体としたものではありませんが、
その素材として映像を組み入れることが多くあります。
その映像の原点が写真、静止画なんです。

デジタル写真の可能性をかんがえることは、
このアートの形の原点としての捉え方だと思います。
どちらかというとメディアアートはヴァーチャル領域を使っての体感です。

デジタル写真の可能性は、フィルム写真の代わりをすることではないんです。


2004.10.07
デジタル写真の時代-3-

写真という静止画像をつくる道具としてのデジタルカメラ。
このカメラ機能をもった道具に、携帯電話があります。
街角へ出向くと、プリクラがあります。

いずれも若い子らの誰もが体験する領域に写真道具としてあります。
携帯電話の写真メール(写メ)には、プリクラ同様の枠取りが添付できます。
こういったツールを使って、日常生活のもう一環として使いこなします。

写真を撮ることが非日常の空間にあった時代から、
日常の生活空間のなかにどっぷりと入り込んでいるんです。
もう、他者の手を煩わせることなく撮影・即・送信するなんてことができる。
完全に個人間のコミュニケーション・ツールとして存在します。

一方で、ドキュメントやアートとしての写真概念も、
大きく変容しているように思います。
ドキュメントを報道範疇に置けば、ビデオ映像のライブ化です。
この戦闘の戦車部隊に随行した報道カメラマンが、
即、ライブで現場からお茶の間へ映像を送り込んできたじゃないですか。
報道の領域は、ここまできてるんです。

アートとしても、プリクラや写メをつかって作品化する傾向が出てきています。
ネットワーク・アートなんていう方法があみ出されてきて、
ライブ感とヴァーチャル感で、擬似現実の創造から、
非現実世界の創造へと向っています。

コミュニケーションツールとしての写メは、直接にヒトの内部に入り込む。
ヴァーチャル・リアリティそのものを創りあげていきます。
ヒトのエロス・エクスタシー領域で共振するツールとして、
携帯電話の写メは機能していくのではないか、と思っています。

デジタル写真の領域にも、ようやく新しい形が見え隠れし始めているように感じています。


2004.10.08
デジタル写真の時代-4-

デジタル写真が主流になるとき、では、フィルム写真は消滅するのか?
それとも、現状のまま需要は少なくなりますが存続するのか?

答えは、当然「存続します」が、存続のしかたなんですね、要はね。

写真っていうのはハード、ソフトともに産業体をつくっていますから、
需要がなくなれば企業は写真商品の関連生産をやめていきます。
過去30年のメディアでいえば、LPレコードからCDへ替わりましたし、
わたしにも写せますマガジンポンの8ミリ映画はビデオに替わりました。
写真をつくるカメラ産業がちょうどいま、この転換期なんですね。

という風にみていくと、写真を作ることは、もともと大量生産品ではなくて、
カメラ・オブスキュラという、手作り器械から出発してますから、
手作り原点があるんですね。
ですから、手作り原点の方へ、今一度、原点を見直して、
そこからの拡大として、いまの時代に引き寄せてきます。
デジタル写真が、工業製品としてのフィルム写真領域をカバーしますから、
フィルム写真は、工業製品ではない方向を模索します。

つまり伝統工芸品の仲間入り、とはいっても歴史は165年です。
たかだか165年の歴史ではありますけれど、です。
絵画→版画→写真という大きな歴史で言えば、
もうラスコの洞窟以来の長〜い年月です。

ドキュメントであるとか、アートであるとかの区分を超えて、
フィルム写真のフィルムは別の物質をも使いこなしていきながら、
写真術は現物のマテリアルを残す道具として存続していくでしょうね。

そこで、再びテーマの問題が浮上してきます。
何をもってフィルム写真特有・固有のテーマとするのか、これですね。
この問題は、デジタル写真においては、
デジタル固有の可能性を模索するように、
フィルム写真においても、フィルム独自の可能性を、
模索していかなければならない問題なんです。

nakagawa shigeo


2004.10.14
フィルム写真の現在-01-

写真フィルムは工業生産品です。
セルロイド板の平面にゼラチンで固めた銀粒子を塗ったものです。
この平面に光があたると銀粒子が化学変化をおこす。
この光が当たった板をアルカリ液で洗うと、光の当ったところが変化します。
光の当り方が少ないと洗い落とされてしまいます。
こうしてフィルム写真のネガが出来上がります。

セルロイド板の変わりにガラスを使うこともできます。
そうするとガラスネガですね。
ガラスの変わりに紙を使うと紙ネガです。

工業製品として大量生産に入って需要を伸ばしてきたフィルム写真。
35ミリフィルムの原形は映画用のフィルムです。
20世紀に入ると映画産業が興ってきます。
そこに使われたフィルムのサイズがそのまま小型カメラに使われました。
フィルム写真は35ミリサイズが主流になります。

そのうちカラー化が起こってきます。
写真用にネガカラーが開発されます。
オレンジのフィルムベースに画像を定着させるネガカラーフィルム。
カラー時代は、いずれも現像装置ごとの開発でした。
大量生産、大量消費のサイクルを創出してきます。

大掛かりな現像装置から簡易現像装置へと替わってきて、
街のミニラボですね、簡易現像装置が置かれています。
ミニラボ競争時代の1980年以後ですね、ゼロ円プリント。
限りなく簡易廉価になってきたフィルム写真でした。

使い捨てカメラ。
簡易カメラ装置にフィルムが装填されていて現場で写すだけです。
ピント合わせも露出決定も不要です、だれでもそこそこ出来上がる。

ところが世の中はデジタル化の時代になってきました。
カメラもデジタル処理カメラが主流になってきています。
もう写真っていえばデジタル処理写真をさすような時代です。

このような現在点において、フィルム写真を捉えてみようとの試みです。
連載形式で見ていきたいと思います。


2004.10.18
フィルム写真の現在-02-

フィルムによる写真制作の方法が、デジタル写真にとって代わられる。
ここでは、この際に、フィルムを使う写真が、
どのようになっていくのか、がテーマです。

当然、フィルムを使う写真というのは衰退します。
これはテクノロジーの歴史をみれば明らかなことです。

フィルム映画に代わるビデオ映像があります。
現在はまだ、映画館の装置の関係もあって、
デジタルで制作された映像をフィルムに焼き付けます。

写真では、フィルムで撮っても印画紙にプリントアウトします。
つまりもう、現像液処理をしないプリントが主流になりつつあります。
これは、もう、デジタルカメラによるデジタル処理への過渡的処理です。

こういう近未来のフィルム写真は、
もうある種、工芸品、伝統工芸の世界入りですね。
冗談じゃなくて、そのような概念の仲間入りです。

でもフィルム写真が無くなるわけではありませんよね。
伝統手法による写真制作方法ということですね。

フィルム写真が、その原材料に銀を使う、
これは環境汚染を起こします。
ですから、もう開発されてるんですが、
環境汚染を引き起こさない処理になります。

それから耐久性です。
フィルム写真は銀塩写真ともいいますが、
マニュファクチャー・手作りですから、
技法さえあればハード環境は自前制作できます。
それから千年以上の保存可能性を追求します。

発明以来165年の歴史を持つフィルム写真は、
デジタル写真への転換により古典技法の仲間入りですね。

断続的連載予定のこの論は、伝統工芸的、古典技法の仲間入り、
ということを念頭において進めていきたいと考えています。


2004.10.20
フィルム写真の現在-03-

ここでは、フィルム写真と一括して論じておりますが、
その材料についての知識を少し書いておきます。

フィルムとはセルロイド材料を使います。
このセルロイド材料を使わないフィルムに代わる材料もあるんです。
セルロイドは支持体、つまり銀粒子を塗っておく物質です。
それから銀粒子を塗る、って書きましたけれど、銀だけでは塗れないです。
銀粒子をゼラチンと混ぜます。
このフィルム、厳密にはモノクロームフィルム(白黒フィルム)のことです。

このフィルムと同様に印画紙ですね。
写真の画像をのせる、というか定着させる紙です。
モノクロ写真(ブラック&ホワイト)の場合は、フィルムと同様です。
ゼラチンに銀粒子に混ぜて紙に塗ります。
このような材料ですので、呼び名は、ゼラチンシルバープリントです。

写真の展覧会なんぞにいきますと、そのように表示してあります。
この材料を使ったのが多いですが、
発明の最初からあったのではないんです。
初期のころは、銀でなくてアスファルトの材料、
それとか鶏卵とかありますね。
セルロイドの代わりには、紙とか、銅版とか、ガラス版を使いましたね。
乾板、湿板、そんなこんなが、いろいろありました。

ここでいわんとしていることは、
工業製品である銀粒子フィルム&印画紙ではなくて、
マニュファクチャー、手作りフィルム&印画紙、そのことなんです。
その、手作りフィルム&印画紙、この方向への回帰ですね。

このように見てきますと、次は手作り」カメラ。
高級一眼レフのフィルムカメラから、手作りへの回帰です。
最近、美術館や写真学校のワークショップで、
ピンホール・カメラで写真をつくる講習会がまま開催されてきています。
こういう風潮ですね、手作りカメラに手作りフィルム&印画紙を使う写真。

1826年にニエプスという人が、光を直接定着させて以来、178年。
2004年の現在位置は、この178年の間に試みられた写真制作の技法・方法が、
過去、近過去という時間軸ではなくて、等価になったことです。
作家がどのような技法を使うかというのは、もう自由です。

いよいよ、そういう時代に入ってきたな〜!っていうのがコメントです。

nakagawa shigeo