写真学校開校の一連の仕事として、
写真学校のコンセプトを紡ぎ出そうとの試みをしています。
さまざまな角度から「写真の現在」というものを確認していく過程で、
写真の近未来のあり方が想定できるのではないか、という思いです。
その一角に、写真の歴史をどのように捉えて、
これから先に生かすのかという作業があります。
この作業の重要さというのは、
写真表現の近未来のあり方を想定することです。
写真の学校にとって、必然的に最重要課題なのです。
学校のカリキュラムというものは、
事実を列記するだけでは立ち行かないと考えています。
事実の列記と同時に、そこから見え隠れする近未来を指し示すこと。
学校にはこのコンセプトが必要なのです。
もちろん歴史を紐解くだけではありません。
写真表現が技術論ではなくてヒト個人の自立のためのツールとなるとき、
ヒト個人が刺すべき理解・認識の過程は、写真以外の分野への解析に向います。
現代思潮への理解とアレンジメントが必要になります。
そのうえで写真を創造するということは、
テーマとする全体イメージをどのように描くかという、描き方です。
そこに歴史をふまえての発想が必要になってくるのです。
「あい写真学校&写真ワークショップ京都」の教育プログラムは、
こうした視点と実践のなかから育まれてくるものと思っています。
現在ある中心的な指向とは別の位相において、それは成熟していくはずです。
写真の専門教育を受けていなくてプロカメラマンを目指してるヒトへ
ここで少し、写真の仕事現場と写真業界の話しをします。
写真を撮ることでお金をもらう。
こんな世界があることは、みなさん知っていることと思いますけど、
では、どうしたらそんな風になれるのかな、と思っていませんか。
写真を撮ることでお金になる、
つまり働くということが現状ではあまりないことを知ったうえで、
プロ写真の現場ってどんなところがあるのだろうか。
あなたが日々過ごしている中で、様々な写真があることに気づくと思います。
本屋さんへいけば雑誌には写真がいっぱい詰まっている。
雑誌にもいろいろあってファッション、モーター、トラベル、クッキング・・・。
新聞を見れば要所要所に写真があるでしょ。
取材写真といって雑誌に必要な記事の写真を撮ること、
広告のポスターの写真を撮ること、
こんな現場で写真を撮ることを想像するかも知れないけれど、
それだけではないんです。
結婚式の記念写真、七五三や成人の記念写真、そんな仕事もありますね。
写真っていうのは静止画像ですので、主に紙媒体(雑誌や新聞)の仕事になりますが、
フリーで仕事として写真撮影を請け負う方法や、フォトスタジオを開設して広告、
つまりコマーシャルの仕事を請け負う方法などがあります。
そこでカメラマンとしてやっていくのに必要なことはなにかというと、
高度な技術力と専門分野の知識が必要になりますね。
それと一般常識とマネージメント。
仕事先の分野で言えば出版系、スタジオ系、ジャーナリズム系と区分けしましょうか。
出版系では雑誌の写真撮影ですね。
先にもちょっとふれてますが、
料理、ファッション、旅行、モーター、スポーツ、自然風景、等々ですね。
あなたがどの分野の専門家であるのかです。
専門分野の専門知識が必要ですよね。
スタジオ系では主にコマーシャル、カタログ掲載写真(ブツドリっていってます)、
記念写真(フォトスタジオって看板あがってる)の仕事があって、
技術力がつけばそれなりの仕事になります。
ジャーナリズム系といったら報道カメラマン、
フリーで新聞社なんかとの契約で現地取材したり、
特派員として現地取材したりします。
このように写真の仕事現場はいろいろあることが判りますが、
どのようにしたらそんな職業に就けるのだろうかということが知りたいですよね。
職業とする基本には、
写真が好きでそれなりの知識も備わっていて、
なおかつやる気が必要です。
そのうえで、具体的なアプローチが必要ですから、
自分の目的を明確にしていくことが必要なんです。
写真への信用性っていうなかで、
写真が裁判資料として使われることがあります。
写真は、真を写す、モノとしてへの信頼・信用ですね。
確かに写真は、現物が複写されたものです。
写真の記録性ということでは、社会に認められた公的記録です。
ここに一例をあげます。
1929年10月24日NYの株価大暴落で始まる深刻な不況(大恐慌)がありました。
文書記録では、時の米国、「ニューディール政策」をとって、
社会改革、救済事業を展開した、とあります。
その後農民や季節労働者に低利融資する制度や土地改良計画の推進を目的として、
1937年に農業安定局(FSA)が設置されます。
FSAの歴史資料部の責任者R・S・ストライカー(コロンビア大学教授)は、
南西部の農業地帯の窮状を、写真を使って調査します。
そのために写真家が雇われてチームが組織されました。
FSAの作成した写真群は、
社会的公的記録(ドキュメント)として今に残されています。
(写真は1938年MOMAにて展示されました「アメリカン・フォトグラフス」展)
FSAの写真家は次の5人。
☆アーサー・ロススタイン☆カール・米マイダンス☆ウオーカー・エヴァンス
☆ベン・シャーン☆ドロシア・ラング
1930年代のアメリカ社会の記録です。
この当時に記録された写真は、
年月を経ることで、社会の記憶装置を形成します。
写真を捉える概念は、その後、大きく変容してきます。
としても、写真の本質の一側面としての記録性と、
社会財産としての記憶装置がここにあります。
この写真の特質・記録性というドキュメントの方法が、
現代的にはどのように評価されるかは、意見の分かれるところです。
だとしても写真の使い方として、その概容は代わっていないですね。
写真の歴史-1930年代アメリカ-の項です。
写真を理解するための話です。
写真はコミュニケーションの手段だっていってます。
でも日常の生活会話と同じではなくて、
小説や映画なんかを製作するのと同じように創造的なことなんです。
写真は自分の心を表現する手段のひとつです。
写真を撮り始めるにあたっては、
これまでのあなたの生活してきた知識の積み重ねの上に立って、
自分のやりたい気持ちが備わっていることが重要です。
写真を撮って見ることって楽しいし面白い!!
まずそう思うことから始まります。
そのように思ったりするのが「心」ですよね。
その気持ちを写真に現すのです。
でも写真を撮り始めると、写真っていったい何なんだろうって考えたり、
どうしたらもっとうまく撮れるんだろうって思ったり、そういうことが出てきます。
これはあなたのなかの自分発見、気づきの糸口なのです。
写真というものは、様々な世界の断面と深く関わりを持っています。
その中にあって、あなたが日々生活しているという現実に、
身体と心(感性)で写真に関わります。
写真に関わる時間、生活する時間の全体から、
労働し、食事をし、音楽を聴き、小説を読み、友達と話をし、
過去を思い出し、未来を予測し、楽しくなったり淋しくなったり……
そうして何かを創りだしてみたいな〜って思ったときそこに写真がある。
写真で心を表現することって、自分の気持ちを現すこと、
でも現し方がけっこう難しいかも知れない。
カメラという道具を使い、身体を使い、そのなかでもとりわけ脳を多く使いたい。
過去の経験といまの自分の考え方や思い方、
そして、大切な人と気持ちを交換する「写真」を創るということ、
これはウキウキ絶対に面白くて楽しいことなのです。
これが「心を表現する」秘訣かなって思います。
写真を創るときには、いろいろな判断が求められます。
写真という一枚のイメージがあなたと大切な人との間に並ぶのですよ。
そして写真は、あなたが生きていく痕跡を残しながら積み重なっていくのです。
写真で心を表現することって、
充実して生きていく跡を残していくあなた固有の物語を創っていくことなんです。
そのためにも写真を撮る技術や社会のことをも知る必要があるわけです。
写メ、つまり携帯電話による写真つきメールです。
これは先日、わたしの手許に送られてきた写メです。
二人の子供を母親が撮り、プリクラよろしく装飾を施して送ってきたものです。
どうですか?これ、この写真をどのように捉えますか?
芸術写真?ではないです。
ドキュメント写真、といえばドキュメント写真ですかね。
でもドキュメントっていうと社会的立場は何処にある?
こんなのは一眼レフカメラで撮る写真じゃないからお遊びじゃん!
っていう輩がおられたら、このようにおっしゃるかもしれませんね。
でもさ、一眼レフカメラもって撮ってる写真って、たいがいお遊びジャン〜
ていうような反論も帰ってきそうですね。
この写メの写真は、愛するわが子の記録メッセージです。
装飾が施されていたとしてもこれは時代の風潮です。
写真って何時の時代にも、最前線の技術を駆使してきているんです。
一眼レフカメラで撮った、猫や犬や小鳥や富士山や神社仏閣・・・なんかの写真と、
携帯電話の写真機能を使って、わが子の写真!
どっちが価値あるんでしょうかね〜〜
写真の歴史-1900年代アメリカ-で紹介しましたステーグリッツという人、
彼女であり妻となるオキーフさんを長年撮り続けてきました。
後にMOMAにて展覧会が開催されますが、これは、
ステーグリッツが撮ったオキーフ、という有名作家の仕事ではありましたが、
そう、向き合う姿勢、愛のまなざし、なんです。
時代が違いますから技術がちがいます、写真の外見がちがいます。
でも、撮影者のこころはよく似たものだと思っています。
とすると、写メ、おおむねこの類の写真の評価ってのは、どうですか?
先の台風で宮島・厳島神社の一角が倒壊しました。
国宝という価値のもとにニュースとなりました。
これまで存在したもの消滅するというのは道理です。
でも国宝倒壊というのは社会財産の損失ですね。
写真。
写真は<ある時>カメラの前に在ったモノを記録する道具です。
そのモノの存在時間は数千年という単位もあれば瞬間という単位もあります。
写真は、その時々の存在の瞬間を留めます。
留められた写真は、留められた直後から、
見られる時までの年月を経る<時間>を保有します。
たとえば今日はテキストに宮島の写真を引き合いにだしました。
撮影者は吉本集さん-旅の記憶-の一枚です。
もうこの光景は存在しません。
というのも一部が倒壊してしまったからです。
写真の第一義的意味はここに表れます。
1930年代アメリカにおいてFSAの依頼を受けて撮られた写真群が、
その時代の社会を記憶しているように、
宮島の写真は時代の価値観を記憶します。
但し、そこには撮られた年月日と場所のコメントが残されます。
でも写真の創られ方はこの形式だけではありません。
ネイチャー・ランドスケープからソーシャル・ランドスケープへ向ってきて、
今は、パーソナル・ランドスケープを経てプライベート・ランドスケープです。
つまり極私的風景とでも訳しましょうか、その時代です。
写メはまさにこのプライベート・ランドスケープの第二儀的意味を持ちます。
国宝が倒壊しする前を撮ったという背後の価値と、
自分の子供を留めたという背後の価値が、等価になった時代です。
いやむしろ表現者にとっては、写メの写真に現代的意味を付加する。
いずれの写真もこれから時間を経ることで、記憶の層を形成します。
写真が未来に開かれてあるのは、この意味においてだと思っています。
1826年、ニエプスによって撮られた、窓からの眺めを撮った写真が、
世界最初の写真だとゆわれています。
カメラ・オブスキュラにアスファルト版を挿入して数時間の露光を要しました。
そんな話を思い起こしながら、いまこの原稿を作っているパソコンに、
PCカメラ(¥5000程度)をつなげて静止画つまり写真を撮ってみました。
掲載の画像がその写真です。
撮影後、色変換とかやらずに無修正のままの画像です。
どうですか、ちょっとなんとなく現在の芸術写真のように見えるじゃないですか。
最近の傾向として新しいタイプのカメラによる画像作りが話題ですね。
ピンホールカメラ(針穴カメラ)、トイカメラ(玩具カメラ)、写メール(携帯電話カメラ)。
デジタルカメラも最近といえば最近ですね。
それから、カメラといえるのかどうかわかりませんが、
お腹の中を探るエコーカメラ、宇宙に向けられたハッブル望遠鏡カメラ・・・
静止画の連続でつくるビデオカメラの静止画機能・・・
こうバリエーションが拡大してきますと、写真という概念も様変わりですね。
フィルムを装填して撮るカメラ、おおむね一眼レフカメラがすでに過去ですね。
そんな時代のいま、ボクはPCカメラによる窓からの眺めを撮りました。
さあて、これ、芸術写真と見るか、お遊び写真と見るか、どうなんでしょうね。
写真出現178年後の新写真、新世界、たった¥5000円の投資です。
この写真はプライベートに撮られ編集して世界へ発信しています。
フィルムを使ったモノクロ写真を、
精確には「ゼラチン・シルバー・プリント」とも呼称しています。
読んで直訳ですね、糊状ゼラチンに銀を混合したものを紙に塗って作ったものです。
この銀のかわりに金を使うと「プラチナ・プリント」ということになります。
ゼラチンのかわりにゴムを使うと「ゴム(ガム)プリント」ですね。
プリント写真には「銀塩」「非銀塩」という分け方もあります。
いずれもこれらは物質を組み合わせ変化させて写真を作る方法です。
ですから出来上がりの基本形は物質としての「紙」ということになります。
この手法による歴史時間は、1826年ニエプスによる光の定着以来178年です。
一方で、デジタル領域で画像が作られるようになりました。
デジタル領域での歴史時間は約10年です。
出来上がりの容態はフィルム写真と同じように、プリントにするのが主流ですね。
写真とは、紙の上に画像を定着させるイメージが濃厚にあるためでしょうね。
さて、ここで時代の変わり目、フィルムによる写真は淘汰されるのかどうかですね。
写真を制作する主流はデジタルに移行します。
カタログのためのブツ撮りや報道写真etc・・・
もうデジタルカメラに移行していますね。
こうなるとフィルムを使うというのは特殊な方へ行くことになりますね。
そうです、現在の一眼レフカメラに35ミリフィルムという限定が、一気に拡大します。
大型カメラによるフィルム写真、
ピンホールカメラによるフィルム写真(厳密には印画紙写真かな)
カメラは手作り、カメラオブスキュラ、フィルムも手作り・・・・
そういう時代になりますね、数十年後?
デジタル写真が、フィルム写真178年の後継物となって、
出来上がりの基礎形態をとって替わったときです。
フィルム写真は、新たな道を歩まなければならない宿命を担いますね。
もうゼラチンシルバープリントが主流ではなくなり、
歴史のなかで試されてきた制作手法の全てが等価になります。
巷に現れているピンホール写真やトイカメラによる写真。
すでにフィルム写真があらたなる展開を見せ始めているんですね。
あとはアーティストの感性に委ねられた作品の出現を待つばかりですね。
写真表現というものが、
フィルムをベースに制作してきた年月しか経験していないから、
デジタルが主流になった現在の制作手法はフィルム時代の残滓です。
新しい時代の新しいツールとしてのPCカメラによる写真。
この段階ではまだカメラと媒体が替わっただけです。
見た目はフィルム写真のバリエーションでしかないですね。
デジタル写真の将来的展開のひとつとして予想するのは、
カメラの向こうに被写体があるという、
カメラと被写体との位置関係が変わる、ということです。
つまりコンピューター内部で映像が作られる。
CG・コンピューターグラフィクスの応用としての写真です。
いやはやCGを写真の範疇に入れる、ということでしょうね。
当然のことながら紙の上に画像が定着されるというよりも、
たとえばギャラリーの壁面には液晶ディスプレイが飾られて、
液晶ディスプレイに写真がある、という風になることも考えられます。
このようにデジタル化される写真画像は、
その時代にふさわしい制作と展示の方法が求められています。
PCカメラによる掲載写真は、新築家屋の骨組みが出来たところです。
先の掲載写真からの時間経過がここにはあります。
(写真学校フォトハウス京都の記事から)
写真学校フォトハウス京都