写真を語る語り口に、ドキュメント写真という言葉があります。
ドキュメントとは公的な記録文書のことをいいます。
一般には「写真」が記録として認知されていますから、
ドキュメント写真とは、単純に記録写真といえばいいのかも知れません。
ドキュメントな写真、というタイトルをつけましたので、
公的記録のような写真と置き換えられるかも知れませんね。
そうなんですね、写真の本質は、そこにあった物が写っています。
ある時間の瞬間が定着されているのです。
有名写真家の写真を、時代の証言!なんていって展覧会をしています。
いくつもの系に分岐した写真表現ですが、その基本形はやはりドキュメントです。
写真の発明以降今日まで、やっぱり主流となる使用方法はドキュメントでした。
でも、最近はこの「ドキュメント」という言葉自体が色あせていますね。
ドキュメント写真が成立しなくなった時代。
ドキュメントはテレビカメラにお任せ!
21世紀にはいった写真のいくつかの大きな賞でも、
受賞傾向は非ドキュメント写真ですね。
ひとつの表現ツールが多様化して様々な系に発展していく・・・
これは必然の結果で、写真の役割の代替品としてテレビが登場して半世紀ですから、
いまやテレビ放送自体が変容していく時代でもあります。
そうすると写真はいまや二世代前のドキュメント方法になるのですかね。
パソコンメディアでいえばフロッピーデスク?的存在ですね。
でもでも写真です!
ドキュメントの方法論が変わってきただけで、
本質は健在です、そのように理解しています。
ただ、ありのままを写して社会告発の道具として使う、
という取り扱い説明は変更余儀なくされているんでしょうね。
このように考えてくると、あらためてドキュメントとは何?
って問いなおさなければいけないようない思います。
2004.07.28
写真がアートであるかアートでないのか、という議論があります。
この場合、アートとは何か、という議論を先行させなければいけないんです。
そのアート定義の系にそって語られるべき写真の議論です。
アートの定義を自分流で言っちゃいます。
-自分のこころで感じる美の発見を相手に感じさせること-
抽象的すぎますね、では、もう一度、
-自分が感動した気持を相手と共有すること-
うんうん、気持はわかるけど、具体的でないですね〜
写真って「光と対象物それに時間」を扱って作り出すものです。
作家はその3つの組み合わせで、想像力をたくましくして表現します。
見る人は自分の想像力でその写真から感動を受けます。
おおむねこのような図式でコミュニケーションが成立していくことです。
そのとき生じる感動の身体感覚ですね、アートとはこのことです。
バロメーターは、どれだけ感動を高ぶらせたか、という強度です。
このように考えると、写真は記録である、という前提が無くても写真は成立します。
1978年、ニューヨーク近代美術館において開催された「Mirrors
and Windows展」は、
このことを明確にしたものだと解釈しています。
現時点で、わたしの内心は、ドキュメントやアートといった区分がすでに、無効になってる。
もっと別のフレームで捉えなおししないといけないな〜、なんです。
自分の感情を相手に伝えて感情を共有する。
その手段として写真を使う。
プリクラや写メールという手段がこのことを具体化してるとすれば、
アートな写真とは、そこに現れた画像そのものを指して言ってもいいかな〜
そんな感じがしないでもないですね。
でも大きな場所でのアートな写真とは、経済システムに組み込まれた商品価値です。
張りぼて、でっち上げ、そのことで商品価値を捏造する手法を編み出すことですね。
断片的ですが、そのように思っておりますので、申し上げておきます。
世界で最初に撮られた写真は1826年です。
1839年が写真発明の年ですから、実験成功から商品化まで13年です。
光をアスファルト版定着させたのは、ニエプスという人です。
現在2004年ですから、光を最初に定着させてから178年がたっています。
この178年間というのがわたしたちの写真の体験年月です。
初期のころは様々な感光材料がつくられましたが、
銀を使ったフィルムが開発されてきて工業製品となります。
フィルムの時代です。
ここで得られてきた知識や経験が今の写真を形成しています。
カメラ、現像プロセスといった加工技術の体系が作られてきたんです。
その178年間には、単に加工技術の体系が作られてきただけではなくて、
その背後に写真をめぐる思想形成の営みがありました。
写真発明の時代には、すでに絵を描くカメラ・オブスキュラという道具があり、
その知識や道具を転用してフィルムに当たる感光材を作り出せばよかったんです。
写真制作のための諸条件が備わっていたんです。
このように写真発明を捉えると、デジタル写真に移行している現状が見えます。
言い換えれば、デジタル写真を生み出す諸条件が備わっていて、
フィルムに変わるデジタルデータ処理の開発があればよかった。
デジタルデータ処理のノウハウはビデオ技術が先行していましたね。
このようにしてデジタルカメラとデジタル写真が誕生してきたわけですが、
フィルムによる写真制作の経験が長年あったから、フィルムの代用になっているんです。
写真の歴史からいま学ぶことは、
デジタル写真がどのような展開をしていくのか、を想定することです。
フィルム写真の代用として出発していますが、併走ではないですね。
フィルムはフィルムの未来がありますし、
デジタルにはデジタルの未来があります。
写真は、パソコン、インターネット、携帯電話といったツールと一体化しています。
すでに発売10年を経ずして新しいメディアのなかに写真があるんです。
写真の新しい体験は、このようなツールと共にある体験なんです。
ツールが人間の生活環境や生活感覚を変えて新しい人格形成を促すとすれば、
写真も新しい人格形成のツールとして作用していきます。
いまあるギャラリーシステムとか写真雑誌システムは、
フィルムをベースとすることで構築されてきたシステムです。
デジタル写真は、新たに別の枠組みが形成されなければいけないんです。
このことを考えていきたいと思っているんです。
2004.08.05
写真はドキュメントだ、という文脈で考えていくと、
その向う対象は社会現象を写すということになります。
この方向は、写真に限らず、文学においても映像においても、あります。
社会の構造を私の側にひきつけて、私の意識構造を分析する。
この場所からの作品制作、という作家態度・様態があらわれてくるように思います。
意識の中に、高尚・低俗、という捉え方があります。
アートは高尚なものです!という暗黙の了解なされていると思っています。
社会のモラルにおいて、低俗なるものをアートという網をかぶせることで高尚化する。
このような位置転換作業が行われています。
私見ですが、
本能の赴くままに・・・というとだいたい低俗だ、ってゆわれる方に向っています。
本能を覆い隠す方に向うと、だんだんと高尚なレベルに達していきます。
写真が、社会現象を写すことによって写真として成立するものとするドキュメント。
このドキュメントという手法での写真制作という立場を考えてみると、
この意識の変換作用をおこなわしめるもの、との見解がでてきます。
破壊して生産するという立場を作家が担うとしたら、
この立場は、モラルをスクラップして、そこからビルドすることです。
ドキュメント写真は、その時々の社会の諸現象を写しこんで、
社会の中心となるモラル形成の役割を担ってきました。
1968年のプロヴォーグは、そのことの解体を意図として持ったと思います。
いま求められている写真が向う場所というのは、
社会の不条理の確認場としてのドキュメント写真から、
人の内面の階層意識構造を組みなおすためのドキュメントとして、
写真というものが登場する必要があるのではないかと思います。
写真をとらえる視点として、
ヴァルター・ベンヤミンさんは1930年代に「アウラ」ということばを使いましたし、
ロラン・バルトさんは1970年代に「プンクトウム」ということばを使いました。
メルロ・ポンティさんは1960年代に「見えるものと見えないもの」って言ってます。
そうなんです、写真はいつも見えるものを写すんですが、
いつも、見えないものを見えるようにしよう、との思いがあったようです。
現在ならどういうことばをつむぎ出したらいいんでしょうか。
作家にとって写真が表現の対象になるということは、
その作家において、この視点が必要なんだと思います。
その場所はいつも朦朧としていて明確でない場所なんです。
大きな枠組みとしての人間社会の出来事をつなぎ合わせていって、
見るひとの無意識に存在している朦朧を明確にしてあげること・・・
その中心となる視点は時代を反映しています。
いまなら、この中心となる視点が何なのでしょうね。
私は、自然、生命、欲望・・・この3つの組み合わせのように感じます。
ふっと思う想いの中に、生命の不思議を感じて自然の方へ向って欲望を満たしていく・・・
こんなイメージがおぼろげながらたちのぼってくるんです。
写真に撮られる光景の背後にあるものについて思いをめぐらすこと。
その何かを解明していく作業として、写真を撮るという行為があるのではないかな〜
写真が撮られる現場には光があります。
この光は抽象的な光ではありません。
太陽の光または電灯の光のことです。
ですから「明るい場所」というのは、
抽象的な場所ではなくて具体的な光のある場所なんです。
これが写真現場の第一義的な撮影場所なんです。
つまり屋外に出て撮影する、太陽の下で撮影する。
室内でも光のある場所をしつらえて撮影する。
光の届く場所での身体行為として現場があります。
写真の現場での、このことは重要な意味を持っています。
原則として写真は写される現場があります。
イメージ像、想像の像は写らないんです。
現実にあるモノしか写らないんです。
次に現場を創ることもあれば、そのままの状態を撮影することもあります。
この場合でも現場は現実のモノがあります。
まえに写真の定義で、CG画像を写真とするか否か、なんて話もしましたが、
ここでは、現場のある実写画像の世界です。
この作業工程は、文学作業とは違うんです。
文学作業っていうのはむしろ密室作業ですね。
原稿用紙とペン、最近ならパソコンとキーボードですね。
このツールのなかで、頭のなかのイメージを言語化する作業です。
ぼくは、写真作業と文学作業を、ヒト個人として合流させようと考えています。
それにプラスして、身体作業としての「農作業」です。
ここでは、何をつくりだすか、その心は?ということには言及していませんが、
作業現場の区分をしておかなくてはいけませんから、ここでしておきます。
絵画や版画ではなくて、なぜ写真なの?ということへの回答でもあるんです。
写真の現場というのはおおむね、
部屋の中、密室作業ではなくて、明るい場所、屋外作業なんです。
(文学だって屋外でつくることもあり、写真だって室内でつくることもあり、です)
写真が撮られる。
何のために撮られるの?その目的は何なの?
この設問に対していくつかの答えが導きだせると思います。
そりゃカタログの写真ですよ!
通販で写真が無けりゃどんな商品だかわからないじゃん。
そりゃ雑誌の写真ですよ!
記事を読ませるより写真をみせた方が具体的イメージじゃないですか。
ファッション、コマーシャル、夢を売るんだよ購買欲高めるためにさ〜。
写真を使うということには、確かにそんな役割を持たせています。
でもね、たとえば文学が、小説を単行本にして売り出すように、
写真も、写真を単独で本にしたり展示したりして売り出します。
これは絵画や版画の類も同じ形態をとりますね。
これをもって「・・作品」っていってますよね。
でも、これら作品は流通のなかでの出来事であって、
これが目的となるのではないんです。
むしろその背後にあるもの、それを考えて目的としないといけません。
人間の営みのなかには知覚作用があります。
ある「モノ」を見て、その「モノ」が何であるかを認知することです。
記憶という得体の知れない「もの」があります。
知覚・認知の作用は、この記憶との関係ですね。
写真がヒトの記憶に訴えかけるモノであるとしたら、
写真の目的は、この記憶を引き出すモノであることです。
記憶を引き出すと同時に、感情と論理を引き出されます。
写真を撮る側(写真家)からいえば、
写真によってどのような感情と論理を導き出すのかということです。
感情の引き出しを優先させる、論理の引き出しを優先させる、
その優先順位は写真を撮る側の認識に委ねられます。
感情と論理を引き出すその背後に何があるのでしょうかね。
それ(背後)は、世界の構造を明らかにして注視させる作用だと思うのです。
世界の構造を注視させてなお、感情のレベルで感動を起こさせるもの、
これが写真のあり方、目的とするところかな〜って思っています。
世界とは、論理構造をもった人間中心の社会の全体、とでもいえばいいのでしょうか。
(本には、世界の枠組は、特異点、基本要素、基本原理、自己展開の4点を持つ、とありました)
この世界の全体枠組みを明視するための視点の当て方なんですね。
大きな世界概念レベルからヒト個人の感情レベルまで多様ですね。
※この論は、これからの作家論、作品論の足がかりにする視点です。
いまの時代は身体感覚取り戻しの時代なのかな〜と思います。
本屋さんに入って写真集のコーナーを見てみると何が主流ですかね。
アイドル写真集が多いですね。
その世界はエロスなんですね。
写真は感覚と感覚が錯綜する場所です。
私的エロス的写真が多く撮られ発表され写真集となって販売される。
写真集に限りません、文学・小説だってよく似た現象ですよね。
この流れがいっそう強まる可能性は多分にあります。
情報をインターネットにより手に入れることがあたり前の現在。
これまで対面・恥じらいの領域としてきたエロス領域が、
ネットを使えばいとも簡単に手に入るようになったんですね。
写真や小説がハメハメの代償品として享受される。
この兆候は写真においては写真発明直後には存在します。
いつも表裏とか第一線以下以上とかいう線引きすれば、
裏・以下が並行して膨大に存在するんです。
これが現実の写真というメディアの姿なんですね。
テーマが私的領域に入ってきた昨今です。
これから先に向けて写真がめざすところっていえばやっぱりエロス。
現代写真を評論し、この先を見極めていく作業っていうのは、
この領域を見ずして語れない時代になってしまいました。
デジタル時代の写真評論とは、この領域への論及が不可欠ですね。
(写真学校フォトハウス京都の評論記事から)
写真学校フォトハウス京都