写真への覚書-風景試論-

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最新更新日 2018.11.2

  写真への覚書-風景試論-
   2007.7.15〜2007.8.2
   nakagawa shigeo


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風景試論-1-

風景には、いくつもの種類があって、自然風景、人工風景という分類ができるし、この人工風景のことを社会的風景と呼んでもかまわない。つまりいくつもの種類があるとは言っても、ぼくの分類方法は、風景を構成するモノ自体についてです。徹底的に自然のまま風景、徹底的に人間の手が加えられた風景。この二つの間をゆれうごく風景を、ちょっと論じてみたいと思うのです。

この写真なんかを見てみると、まあ、ほぼ、100%近くのものに、人間が手を加えて出来上がったもので構成されています。この写真が撮られた町の中は、具体的には京都は西大路の廬山寺下がったところにあるマクドナルドの前です。このなかで自然のままのモノがいかほどあるかと見れば、まず四人の女の子のからだと、植え込みのなかの植物が、どちらかといえば自然のままで、あとの全ては人間の手によって加工されたモノなのです。


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風景試論-2-

写真はカメラを使って撮られるわけだけれど、撮られる被写体の全てを風景としてくくることができます。この風景のグレードに枠をはめると、自然風景から人工風景までの枠があり、動物が居り、人間がいる。写真の関心ごとは人間であり、人間の顔であり、人間のからだです。なんだかんだといっても、感心ごとが人間であるのは決して写真がそうである以前に、人間の関心ごとが、ぼく自身の関心ごとが、そうなのです。究極、はだかの人に興味を示すわけですけれど、この世の中で写真を公然と見るには、はだかとはいえなくて、お洋服なりの衣装を着せてあげて、装飾品なんぞも持たせてあげて、そうしてスナップショットの登場人物としてしまうわけです。

撮った風景を共有する範囲について考えると、全てが全てに公開するという気持ちにはなれないわけで、たとえば恋人の顔写真は自分だけで占有しておきたい気分になるし、家族の写った写真も家族だけの共有としておきたい気分になります。ここに見せる気持ちと見る気持ちが矛盾するわけですが、見せる気持ちとしては覗かせたくない。見る気持ちとしては覗き見したい。こうゆう気持ちなわけですね。見ることと見せることが同じグレードで、双方向であるわけではないのです。そこで覗き見たいと思う気持ちを代弁する写真が、巷にあふれだすことになってきます。


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風景試論-3-

撮影の現場は祇園祭の宵山です。だから撮る写真は、それらしい写真でなければならない、と思うんです。それらしい写真とは、いったい何かとゆうと、祭りだから浴衣(ゆかた)姿がいいですね。それに女性がよろしい、それに若い方がよろしい、まあ、それなりに限定つきで写真をかたちにはめこんでしまうんです。これ、常套手段なんですけど、こうして祭りやとゆうと、お定まりパターンがあって、その枠を確認していくことで、祭りのイメージを作っていくわけ。

まあ、厳密にいえば、写真が写真として社会の中で成立するための条件、なんてことに繋がっていく論ですね。ここで風景といいながら、町の光景を羅列しているわけだけれど、うん、これが風景なんです。まったくすべて人間の手によって作られたモノに囲まれた風景なんです。とはいっても中途半端な風景やなぁ、と思う。祭りの女、とか何とかの個別の題をつければいいものを、風景だなんて括ってしまうんだから、ちょっと理解しにくいんじゃないでしょうか。


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風景試論-4-

拡散する視点とでもいえばいいかと思いますけど、焦点の合わない写真。とはいっても技術的なピンボケではなくて、撮られた被写体への注視度が低い、あるいは拡散している、焦点が定まっていない。まあ、こうゆうたぐいの写真のことです。写真ってのは、一般には、何を撮るか、何が撮られたか、とゆうことが明確でなければならないとされるわけで、漠然と撮られたようにも見える写真を、このようにして見せられたとき、見せられたほうは、どう対処したらいいのか判らない。これ、率直な気持ちと意見だと思うんです。

これは祇園祭です。これは祇園祭の路上スナップです。これは祇園祭の見物に集まった群集写真です。いろいろと説明できるけれど、いったいそれがどうしたん・・・。そやから、どうやゆうねん・・・。まあ、写真の意味とかゆうのは、見る人がそれなりに見てくれたらええやん、と開き直った発言にもつながっていくんですね。それは、やっぱり無責任、こうして、こんなことゆうてることじたい、無責任ですね。あらためて、風景とはなにか、風景写真とはどうゆうものか、はたまた、写真っていったいなんなんうやろ???と考える。結論は、結局先へと延ばしてしまうにすぎないけれど・・・。


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風景試論-5-

ソーシャルランドスケープ、社会的風景、路上でのスナップ写真は、社会的風景として現れています。こんな論を立てられたのが、1960年代、1966年に開催された写真展の標題だから、それから40年余りが過ぎてしまったことになります。だから、いまさら、こんな社会的風景論と路上スナップ写真論は、新しいものでも何でもない領域です。でもしかし、ここでは風景試論として路上スナップをメインに立てながら、それへの検証だといっておきます。

新しいテーマと手法による写真が、価値あるものだとすれば、使いふるされたテーマと手法をもって構成される写真群は、それほど価値のあるものではないのかも知れません。ここに一枚、自転車に跨った女生徒の写真ですが、このたぐいの写真の現在的主流は、すでにネットの中ではパンチラ写真なのではないかと思うところです。その初めをプレイボーイ誌のピンナップに求めるならば、その延長線上に展開されてきた商業写真とゆうことになるかと思います。


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風景試論-6-

女の子写真で、下着姿写真やパンチラ写真が商業的主流であるとすれば、消費者としての男の子はそのイメージに慣らされてしまう。もちろんエスカレートするそのイメージの奥には、ヌードフォトジャンルで、かなり開放されたセックス現場写真にまで到っているわけで、ネット上で、ひところでは考えられない勢いで流通しているわけです。

モデル撮影ではなくて、たまたま遭遇する路上スナップ写真において、女の子がいる町角&歩道の写真なんて、いまのイメージにおいて、どれだけの鑑賞に堪えることができるのだろうか、と思ってしまいます。イメージ操作のなかで、これらの写真イメージが入り口であって、次のページには透けた下着、パンティチラリの写真が載っていることを、期待するのではないかと思います。


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風景試論-7-

次のページを開いてみても、相変わらず路上で撮られたスナップショットがあるだけで、見慣れた光景の繰り返しにすぎないとしたら、読者の興味は半減してしまう、あるいは興味をそいでしまうのがオチでしょう。つまり、この風景試論に写真を掲載している写真について、自ら検証しているわけです。商業でないシステムで写真を撮り、発表するとすれば、これが限界、限度だと考えるところです。

ところで現在のカメラシステム、デジタルカメラシステムは、プライベートな関係のなかに入り込みます。観光地などで、携帯電話のカメラを、自分たちの方へ向けて、記念の写真を撮っている男女のペアを見かけます。おおむね女の方が仕向けていくようにも見受けられる二人だけの写真撮影、記念写真。プライベート写真といえば、アラーキーのセンチメンタルな旅ってのが1970年に発表されているわけだけれど、そこにはちゃんと男と女、夫と妻のプライベートルームの痕跡が残されているわけで、その延長線上に、デジタルカメラの現在があるとも思えます。


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風景試論-8-

風景写真、ソーシャルランドスケープ、社会的風景。この社会的風景への撮影者のまなざしというのが論じられるようになって、ぼくは三つの領域に分けています。社会的な眼、個人的な眼、極私的な眼。ドキュメント写真を時代的に区切って、その変化をとらえたイメージです。個人的に社会と関わる眼でもって、写真を撮る。この風景試論に載せている写真のたぐいは、あえてゆうなれば、この領域の写真です。路上で、つまり公衆の眼の前でくりひろげられる世界です。一人称がおり、二人称がおり、三人称も混在する場、それが町角や路上です。

ここに連載の写真は、その関係を超えることがないところで撮られた写真です。ひところにはパーソナルドキュメント、私的なまなざし、なんてことが言われた写真です。ところが近年では、プライベートドキュメントと言われ、町角や路上だけではなくて、プライベートな生活空間が写真の撮影現場に含まれ、三人称が混じらない場、つまり一人称と二人称の関係のなかで撮られる写真が、公的に発表されるようになったわけです。公的にというのは、美術館やギャラリーでの展示、印刷物への転化です。プライベートな関係が、プライベートを超えてしまう関係が発生してきたわけです。


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風景試論-9-

静止画としての写真が、商業流通の現場において、イメージの主流の座をビデオ映像に明け渡してから久しい時間が経ったように思います。報道や、コマーシャルの現場で、静止画が必要なメディアは、印刷メディアであり、商品カタログの類の写真であって、即座に世界を駆け巡る情報は動画映像の情報です。商品広告においてもテレビメディア用の動画、それも実写だけではなくて、合成を含む動画です。ここでは、こういった現状の映像環境のなかでの、静止画としての写真のあり方を考えているのです。

人間欲望実現のための道具としてのメディア。視覚と聴覚のレベルで展開されるメディアとして、その一つに写真があります。人間の欲望を満たすための道具としての写真。欲望の種類にはいくつかの類があって、食べる、着る、住まう、つまり衣食住に集約されますが、そこには最早、写真が主流になるところではありません。衣食住の情報を伝達する手段として、写真が主流になるところではありません。つまりテレビを媒介とする映像を想いうかべてみればいいと思います。こうしたときの写真の生き残り方を、思っているわけです。


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風景試論-10-

最近、ぼくは、かなりイージーになってきていると思っています。それらしい感じで、深い理屈もなく、どんどん写真を公開していっています。この風景試論にしても、写真先行で、そのあとから理屈を捏ねるというプロセスを踏んでいるわけです。写真イメージにあわせて、それらしい感じで、言葉を連ねているわけです。でも、まあ、想定するところ、くっつけられた文章を読んで見ても、なにをゆわんとしているのか、きっとわかりにくいやろなぁ、そのように思っているわけです。

最近のぼくの文体では、・・・ってわけです、なんて表現を多用しているところですけど、これは、説得力ある写真についての文章なんて、書けないなぁ、と評論家、あるいは批評家としては失格しているところです、と思っているわけで、そもそも風景とは何なのか、なんてあらためて問題提起しないと、説得力なんて出てこない気がして、でも、そんな問題提起して議論するほど、世の中ユックリズムじゃないと思ってしまうんです。だからこそ風景試論・・・。


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風景試論-11-

文章なし


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風景試論-12-

文章なし


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風景試論-13-

文章なし

(終わり)