写真への覚書-風俗写真論-

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最新更新日 2018.11.2
 
  写真への覚書-風俗写真論-
   2007.6.20〜2007.7.13
   nakagawa shigeo


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風俗写真論-1-

風俗とは、世の移り変わりの表皮であって、その奥にヒトのさまざまな欲望が渦巻く状態のことだと感じていて、風俗写真とゆうとき、第一の意味として、それが撮られた町並であるとか、ヒトの衣装であるとか、生活の道具であるとか、それら集合体の羅列です。そうして第二の意味として、その写真の背後に渦巻く欲望の情が感じられるのであれば、その写真はある程度完成品となるのです。

写真を読み解くことに重点が置かれてきた鑑賞の仕方から、感じとることに重点を置いた写真のありかたを模索します。欲望の質と種類にはいくつかの類型がありますが、大きくは三つに分類しています。生理的欲求としての食欲そして性欲、我が身に引きつけたい所有欲、精神的欲求としての認知されたい欲求あたりです。この世の欲望を満たしていくための装置として、いまや消費経済があります。

我が身を包む衣装の奥にヒトのからだがあります。からだの欲求は食欲と性欲です。食べることとセクスすること。この二つのことが、からだが欲求する基底にあるものだと感じています。世の中は生活のレベルでとらえると、おおむねこの二つの領域を満たすための装置です。写真を撮るとゆうことは、それらの表皮を撮ることでしかないのです。けれどもそれらの欲望が、視覚によって満たされる代償行為なのかも知れません。


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風俗写真論-2-

頭を使って考えるなんてゆうと哲学に代表される思想の領域ですけれど、普通、日常、俗に普段という概念では、読み書きそろばん、いまなら看板を読み値札をよみ、お金を支払う、お金をいただく、とういった簡単なレベルで時間を過ごしているわけで、けっして高尚なことを考えているわけではない、と思っているわけです。写真なんて、いまどきのカメラはおおむね全て自動で、つまりオート撮影ですから、考えることなんていらないわけで、見たものに興味がそそられれば、シャッターを押せばいい次第です。

それにしても雑多な色彩に満ちた日常光景です。お洋服にしても、印刷物にしても、いやはや持ち物の大半が色つきです。赤色、桃色、橙色、どっちかゆうと暖色系の色合いとゆうのは、ぼくの心を惹きつけてしまいます。情を昂奮させる色彩なのだと思います。ピンク写真にピンクサロン、真っ赤では昂奮しすぎて派手すぎるので、ピンク、つまり桃色、そういえば桃色遊戯なんて言葉もありましたね。うんうん、なにが言いたいのかとゆえば、風俗という言葉が醸しだすムードとかイメージを追っているわけです。


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風俗写真論-3-

ぼくの手許の国語辞典で、ふうぞく(風俗)を引いてみると、1に身なり、服装、2にならわし、習慣、とあります。そこに風俗小説という項があって、<その時代の風俗をえがくことを主眼とする小説>との記述があります。この風俗小説になぞらえて風俗写真を定義すると、<その時代の風俗を写すことを主眼とする写真>ということです。国語辞書の初版は1956年だからおよそ半世紀前で、いまここで風俗の中身はと問うてみて、今様身なり服装、今様習慣を写真に撮ることが風俗写真という枠組みとなりますね。

そうやないんや、今様風俗、なまってフーゾクって表記される場所ってのは、女がいて男がいる場所で、見る見られる、するされるとゆう関係性のなかで営まれる場所ですね。その表象をカメラでとらえること、つまり男と女の現場を写真にすること。この領域をもって撮られる写真を、風俗写真と定義してもよさそうかと思います。そうすると個人的に、風俗写真に立ち入れるかとゆうと、かなりムリめです。みずから演じることにより、あるいは立入ることを許される専属カメラマン、あるいは商用目的に作る写真群のカメラマン。まあ、風俗写真というのは、そうゆうレベルの写真であろうと思い、それが社会的否定ではなくて、有用であることへと転じさせなければいけないようですね。


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風俗写真論-4-

千年前に書かれた源氏物語ってのがあって古典文学の代表作品、これは小説です、物語です。この物語には、後に絵巻物が作られて、視覚により見ることができるようになっています。最近の現代語訳では瀬戸内寂聴さんのものが出版されて、ぼくもダイジェスト版で読んでみました。自然風物、季節折々の草花、それらを背景にした宮中の男女関係が描かれていて、男と女の心理の襞が読み取れる感じがします。風俗小説としての最初の作品だと認知しているわけだけれど、一夜を過ごす男と女の行為描写はありません。つまりセクス現場の描写ですが、これはありません。

文学の正当な流れでゆうと、源氏物語に現れた表象描写が、正統派文学の表象であって、セクス現場の描写は正統派文学ではないとの認識ができそうです。官能小説というジャンルがあるし、現代作家のテーマに<性・セクス>を扱う小説も多くあります。これは文学の話で、さて、写真という分野、つまりイメージ像提示の現場においてはどうなのかというのが、ここでは問題として提起されてきます。ほくの認識は、公然と表沙汰とすることができる文章やイメージ像があり、そうすることが憚られる文章やイメージ像があり、それを区分する目に見えない線が変化してきて、今様文学および映像の線引きが問題となってきます。


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風俗写真論-5-

風俗という言葉がイメージさせることは、あんまり高尚で知的な領域ではなさそうです。そういう思い込みをぼくは持っているわけで、低位で感情的なことを、ひと前で晒すのは恥ずかしいことだと思っていました。このぼく自身の思い込みかた、あるいは刷り込まれかたといってもいいのかもしれない。この環境に対して、ぼくは歳とともに、恥ずかしさを乗り越えていこうと思うのでした。この世の出来事を、男と女という関係をもって組み立てる試みをしたいと思いだしています。女が写される立場に置かれた写真において、ぼくの立場も女は写される立場に置きます。ぼくは男だから、目線は女に向かいます。とは言っても女に接する機会なんぞ無いから、町角にて写真を撮る。そこに風俗をイメージしながら、写真を撮り、アップしているのです。


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風俗写真論-6-

風俗とは、日常の生活の表面だから、日常の光景だとか、ありふれた光景だとか、つまり自分の身のまわりに起こる事柄を、写真にしていくことをもって、風俗写真とするのが妥当なのかも知れないと思います。でも、そこは淡々ではなくて、かなり濃厚な色艶があるようにも思えます。生活することそのこと自体が、かなりエロティックであり、情の世界があり、男と女があるわけで、そうゆう世界とどのように向き合うか、結果として向き合ったか、ということが現れなければならないように思います。

写真の向き合う世界で、被写体との個人的な関係のなかに求めることがあります。プライベートドキュメント、つまり個人の記録ということです。この記録の方式をどのように構成してとらえるか、このことがいま問われている問題だと感じています。日常生活の表面。日々目の前に起こる出来事に、カメラを向けていくこと、そこに何を発見するかが問われるわけで、自分の在処(ありか)を発見していく道筋だと思うのです。


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風俗写真論-7-

太宰の小説に女生徒とゆのがあって、女のわたしが色々思うことを書いている、まあ、いま読んで見ると、そんなに、あっと驚くほどの内容でもないけれど、その内面がけっこう悲惨な感じで面白い、へんな感想だけど、まあ、そのタイトルの女生徒という名詞を想い起こすわけです。制服に身をまとった女の子。女の子、生徒というものに一般化してしまう魔物だけれど、その奥に、ひとりひとりの心があって、なにかしらうごめく感情があって、そうして悩み、悶える身と心があるようですね。

写真は、そんな内面なんてお構いなしに、制服を着た女生徒とゆうのは、セクス業界の対象となるようです。そんなイメージがつきまとう制服すがたの女生徒について、ぼくは写真集のタイトルにしようかとも思っています。制服というのがキーワードで、具体的な言葉を紡ぐより、写真を連ねるほうが意味深いようにも思うところです。女生徒の制服が、風俗の何たるかは、いまのところ未知ですけれど・・・。


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風俗写真論-8-

町角に、自転車に跨った女がいる。ふっとそのことが気になっていろいろと思ってみた。自転車に跨った女の図というのは、そんなに昔からあったわけではないようだ。そういえば祖母なんかは自転車になんて乗らなかった。女が自転車に乗るということは、淑女のたしなみではなかったのだとも言います。男は自転車に跨った女を見て、いろいろと思い巡らします。そうして自転車に跨ることを禁止した。ざっとこのような歴史背景をもった自転車に跨った女の図について、ぼくは写真を撮るとき意識してしまいます。

自転車ってゆう乗り物が、けっこうエロスティックな代物だと思うのは、ぼくの勝手な思い込みなのかも知れません。女が先っちょ尖ったサドルに跨って、自転車をこぐとき、膝が上がり下がりして、太ももが微妙に擦れ合うわけです。スカートを穿いた女なんぞは、奇妙に膝をぴったしくっつけてペダルをこぐから、余計に奇妙な連想をしてしまうのです。そうゆう代物、自転車に跨った女の図を集めた写真集を作りたい・・・。


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風俗写真論-9-

写真がかもすイメージを、イメージとしてとらえていくと、ぼくは食べ物の店、この場合は中華料理の店、中華料理とはいっても庶民的イメージでアレンジされたメニューを扱う中華の店のショーウインドウなわけです。このショーウインドウ写真じたいが、ぼくには風俗濃厚写真だと思うわけです。風俗写真には、女の裸があればそれだけで風俗写真だと認定してしまうのですけど、それに類する、あるいはイメージ連鎖としての風俗写真の類に該当すると思っているのです。

かりに高級ホテルの高級中華料理店であれば、高額なメニューがある店イメージとしてどうだろうかと考えます。直感的に、高級料理店を風俗店とは言わない仕組みがあるのではないかと思うんです。高級店と低級店、このように分けたほうがわかりやすければ、風俗店イコール低級店、いいや低級店というのはふさわしくないですね、けっこう高くつくんですものね、風俗店とゆうのは、ね。結果として、高級店と風俗店は対をなす考えではなさそうですね。


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風俗写真論-10-

エロ映画館の上映ポスターを撮った写真です。そうゆうことでいえば理屈抜きに、エロあるいはポルノといえばよろしいんでしょうか、その内容を映画の内容としたものが上映されているという告知写真を撮ったもので、なんの議論もなしに風俗写真として組み入れているわけで、深い理由はなくて、俗に風俗といえば、こうゆうイメージのことを指すのが適当だと思い込んでいるわけです。

これって複雑な回路で、けっこうややこしい認定のしかたやと思います。なんで女の裸が出てくれば風俗なんや、という疑問です。いやはや、風俗写真、もしくは風俗写真論ってゆうタイトルをつけたところに、すでに予定調和的、予兆的な思い入れがあって、それを疑問ともなんとも思わない、ではなくて、疑問に思うところから、この論が始まるのです。そうゆう代物ですよね、風俗写真って・・・。


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風俗写真論-11-

いうまでもなく、見れば判る、モスバーガーの店舗です。見れば判るといいましたけど、知っている人なら見れば判る、という意味です。モスバーガーの店が、風俗店なのかどうかというのは人それぞれに議論の余地がありそうだと思います。ぼくだってけっこう曖昧に、この写真を撮って、風俗写真の論におけるイメージ写真として使っているわけだから、そもそも風俗写真に、このモスバーガーのイメージを排除するのか含めるのか、という個別の議論が必要なのかも知れません。

モスバーガーといえば、結構高級な感じのファーストフーズチェーンじゃないですか。うんうん、吉野家の牛丼なんかは、モスよりも風俗やといえば、モスバーガーより濃厚に思えるぼくだけど、さて、モスバーガーを風俗にいれるかどうか、ほれほれ、個別に詮索しだすと、訳がわからなくなってくるじゃありませんか。しょせん、言葉とか写真とか、突き詰めていけばいくほど、わけがわからなくなってしまうわけです。それで、ぼくは、そういいながらも、モスバーガーの店舗写真を、風俗写真から外そうとは考えていません。


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風俗写真論-12-

ことばが紡ぎだせずに、イメージだけが先行している感じの風俗写真論です。とゆうのも、たぶん風俗という言葉のイメージに囚われすぎていて、思うように言葉がつながらないのだと思っています。なんのことはない、かっこうつけて、あんましゲスなこと書かれへん、とゆうような自負みたいなもんがあって、評論とはやっぱ、高尚なものでないとあかん!なんて思ってしまうわけで、そおゆう枠を外してしもて、もっと下種な話しにすればいいわけなのです。

いろんな商売あるけれど、これなんか屋台の商売で、見るたびにその生き方の逞しさに敬服してしまいます。ぼくなんぞにはできない仕事です。なんといってもできない仕事だと思ってしまいます。そういえば、なんか高止まりしてる感じですけど、お袋がこうゆう商売を一時期していて、それにまつわる記憶が甦ってくるからです。こってり生活の滲みついた光景なのです。


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風俗写真論-13-

わけがわかったようなわからなかったような風俗写真論の最後は、グリコのキャラメルの箱を撮った写真です。一粒300メートルというのがキャッチフレーズで、子供のころ、一粒たべたら300メートル走れるとゆことやと思って、運動会の前に一個食べると余ってしまう、なんて妙なこと考えていたことを思い出します。なんだろう、グリコのこのパッケージをスーパーの店頭に見かけて、おもわづカメラを取り出してシャッターを切ってしもたわけで、その衝動たるや、いったいなんやねん、と考えてしまう、これがここでの論議です。

なんやねん、この写真、そもそも写真ってなんやねん、そんな疑問がわいてきて、ああでもない、こうでもない、そうしてわかったようなふりをして、わかったと言ってみようとして、はたっと困ってしまって絶句、なんてことになるのがオチなんだけど、あほみたいにこだわってるんやね、ぼくってほんと。もっとずばずば、ことの良否を論じていけば歯切れがいいんだけど、どうもそのようにはできなくて、困ってしまうのでございます。風俗写真論は終わりです。

(終わり)