写真への覚書-自己表現論-

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最新更新日 2018.11.2

  写真への覚書-自己表現論-
  2007.2.6〜2007.3.2
  nakagawa shigeo


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<はじめに>

お花の色形をみていると、それはそれは様々な色と形があるんやなぁ。 お花屋さんの店先に並べられた春の花鉢をみながら、ふっと、あたりまえなことが不思議なリアリティをもって、ぼくの中で驚異させられてしまったのです。そりゃぁ、花だって、それぞれに競っているんや、生存競争なんや、自己主張してるんや、なにより愛されたいと思っているんや・・・。たわいない思いではあるのですけど、ぼくは花がそれぞれに自分を表現しているんだと思ったわけです。

そうすると人間において、自分表現することって、どうゆうことなんやろってたわいない疑問が生じてきて、ぼくを悩ましはじめたわけです。そこで行き先未定のまま、自己表現について、あれこれ呟いていこかなぁ、なんて思って、この標題をつけてみたわけです。とゆうのも、やっぱり自分のあり方の基本的な問題だと思っているからだと思いますけど、問題を解決するには、わけのわかったようなわからないような、評論とゆう手をつかうしかない、これも自己表現の一種ですね。

ぼくとゆう個体があって、ぼくは多くの他人という個体と接しているんです。この他人さまとは一口に言っても、さまざまな関係の質があって、それぞれに分類されていて、身内関係とそれ以外。身内関係でゆうと、ぼくの彼女、ぼくの子供、ぼくの親・・・。彼女の兄妹、彼女の親、彼女の親戚・・・。まあ、この身内関係はいったん置いとくとして、それ以外の関係。つまり他者中の他者にたいして、自分をどのように表現するのか。そもそも表現とは何か、そしてこの表現の形式を、ぼくは芸術作品と呼ばれている制作物を介在した形を思い浮かべて、その作品の内にある作者の論を書きたいと思っているのです。

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<表現ツール>

自分を表現することは他者とコミュニケーションをとること、情報を交換することです。日常的には言葉を使います。言葉は音声です。言葉はその場で消えてしまいます。なので書き記す文字を使います。これらを文字ツールとします。それから、音、音声以外の音、楽器を奏でたり歌ったりする、ここでは楽器を奏でるなどを音楽ツールとします。そして絵画や写真、そこから派生する映像などを、画像ツールとします。

こうしてみると、表現ツールには、文字、音、画像の三つがあることに気づきます。それぞれに一定の形式を含んで表現物として作られて文学作品、音楽作品、絵画・映像作品となります。自己を表現する、それも日常生活の欲求を満たすためのコミュニケーションから離れて、自己の内側にある<なにか>を伝達する手段として、作品をつくりだしていきます。

表現するという自覚をもって、表現ツールを使って、自己表現をする。ここでは、自覚をもって自己表現するというレベルを想定して、出来上がってくるモノを作品と名づけます。いま書いているこの文章は、ここ、このブログのフォーマットに収められて、絵画をカメラで撮った画像と共に、他者に向けて発信しています。文学作品でもなく、音楽作品でもなく、絵画・映像作品でもなく、でも文字と画像を使ったモノ、形式については後述しますが、これは評論形式です。

※陶器や彫刻等立体作品も念頭においていますが、ここではひとまづ三つのツールの外側に置いておきます。


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<表現形式>

文学にしろ音楽にしろ画像にしろ、それぞれに固有の形式があります。表現することは、おおむねこの形式に基づいて作っていくことが求められます。形式は外枠であり、内容を表示するための仕組みだといえます。また、その形式は、時代とともに変化しています。文学なら古文から現代文へ、音楽ならクラシックからモダンミュージック・ポピュラーミュージックへ、画像なら具象絵画から抽象絵画へ、正確な記述ではないですが、ざっと大きな流れとしては、このように変化・変容してきています。

文字を連ねて文章を書く。そこには文法があり、一定の規則に基づいて制作していきます。また、音楽には、おおむね音を奏でるための楽譜があり、一定の楽式に基づいて制作します。絵画や写真画像にも、一定の基本構図などがあります。このように列記していくと、表現のための外枠、形式があって、自己表現を生成させていくためには、これらの形式に準じる必要があります。破格、これまでにない形式、新しい表現形式。このような言い方をされて、新しい形式が認知されることがあります。でもこれは、すでに認知された形式があるからです。

形式は形式であって、内容そのものではないのですが、表現される実体は、形式と内容の相互作用でもあるのです。ここでの目的は、自己表現のための基礎概念を明確にしていく作業です。そのことを念頭に置いて、表現の外枠として一定の形式がある、と認識すればいいと思います。

※ここでは、形式、内容、それに実体、概念、という単語を使っていますが、追って、形式とは、内容とは、そして実体とはなにか、概念とはなにか、ということに言及していきたいと考えています。


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<自己表現とは>

自己表現するには、ツールと形式が必要だと書きました。自己表現とは、文字とか音とか画像を使って、一定の形式にしたがって、自分の考えや思いを込めていくことだといえます。人間の人間たる由縁は、考える動物であるところにあります。生きている環境から様々なことを学び、学びによって自分という器を確立していく動物なのです。文字による伝達、音による伝達、画像イメージによる伝達。ぼくたちは、特定の他者や多くの他者に、コミュニケーションの手段として、ツールと形式を使います。

記憶を持ち、何かをしたい、何かをしてほしい、という欲求を持つのが人間です。この欲求を満たせるために成す行為が、自己表現だと考えています。芸術行為といわれることがあります。文学、音楽、絵画や写真、その他諸々。これらの枠組みで成される形式で、特定の他者または不特定多数の他者へのメッセージとして発せられるものが、自己表現された内容なのです。

さて、自己の欲求を実現するためだという<自己表現>なのですが、ここで問題となるのは、自己の欲求の何を、どのように実現するのかという内容と方法のことです。様々な欲求があり、そのなかの、どの欲求を、様々なツールと形式の、何を使って(組み合わせて)実現するのか、ということが必要なわけです。制作されるモノがすべて、自己表現の産物だとは、ぼくはとらえていないのです。芸術行為の結果生み出される自己表現物には、明確な目的意識と、目的意識の達成がなされていることを、求められていると考えているのです。


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<他者との接点>

自己あるいは自分を考えるとき、自分という存在の外にあるものの総体を、ここでは他者と名づけます。 また、自己というとき、ここでは自分の内面のこと、つまり精神、心をいい、自分というとき身体と心の総体をいうことにします。他者との接点とは、自分という存在の外側にある世界です。表現することとは、この他者・外側世界を、自己に取り込み、他者・外側世界へ返していくことに他ならないわけです。

この他者をどのように捉えるか、どのように考えるかという作業を通して、自己なりの解釈を加え、表現手段を使って制作し、他者に返していくこと、その中に自己表現という質的なものが含まれると考えられます。着目の仕方には様々な方法がありますが、基本として、他者という存在を抜きにして、自己表現は成立しないものと考えます。

たとえば、三歳児がカメラを持ってシャッターを切る、あるいは画用紙に絵具を塗る。この場合を想定してみて、はたして三歳児の自己表現と呼ぶかどうかという問題です。もちろん三歳児とて、自己欲求に基づく行為の結果として表されるとしても、ここでは、一般的にいう自己の確立が成されていないので、ここでは自己表現とは言わないことにします。このように考えて、自己表現とは、自分を他者との関係において、相対的にみることができる立場の自分が、表現ツールを使ってなすものなのです。他者との接点を意識して見る。この見方が重要な要素になると考えているのです。


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<他者との接点-2->

自己の外にあるもの、他者。それらと関係を結ぶ点、あるいは面を、接点あるいは接合面と想定すると、この接点とは、自己の興味によって意識化されてきます。様々な接点があります。世界の出来事、政治や経済に関わる出来事から、ご近所の出来事、友だちの、家族の、出来事、自分自身の出来事、マクロな場所からミクロな場所まで、様々な出来事が同時進行して、他者情報が自己に伝わってきます。出来事は、具体的な事象で、目の前に現れてきます。

直接に視覚に捉えられることもあれば、テレビや新聞・雑誌、最近ならインターネットサイトなどで、様々な、リアル、バーチャルを問わず、情報として自己に入力されてきます。自己は、経験に基づき、入力されてきた情報に意味を与えて、処理します。世の中に、大きな概念、小さな概念、その概念にそって自己に情報が入力され、概念にそって意味をみいだし、意味づけ、自己とのうちに関係つけていきます。

自己表現とは、そのような他者の情報を入力処理し、意味にそって、自ら概念化していくことにつながります。表現する対象を、どのように選ぶのか。選んだ対象を、どのように概念化していくのか。この対象の選択と概念化プロセスを、どのような道具と技術を使って、まとめていくのか。その結果として、自己表現物という形式のなかに、自己表現そのものがみえてくるものなのです。自己表現物は、他者(ここでは具体的な他人)とのコミュニケーションツールとなるのです。自己表現物に社会性を帯びさせるといいますが、これには自己と他人が、共通の概念枠を持っていること(あるいは持たせること)が前提条件になります。


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<自分ということ>

我思う故に我あり、とは古典的名句であり、ここでは、思う・考えることで自分がある、という立場です。でも、これだけではスパイラルで、解決の糸口を見出せないので、少し<自分>ということにこだわってみたいと思います。<自分>とは、身体をもった個体で、この身体を養うために、食料を補給していく必要があります。そうでなければ死滅してしまう宿命を持っています。それと俗に心という代物です。心を、精神と云ってもいいわけですが、心とは、精神と情が混在している状態をいい、精神とは、情を含まない部分だと、ひとまず記しておいて、<思う><考える>という作用をさせる自分があり、情・感情を持つ自分がある。

この場合、思う・考えるという作用は、生まれてきて、学習してきた結果としての作用です。知覚、触覚、臭覚など、身体が他者との関係において感じる、つまり入力される情報を積み重ねて記憶という装置にしておいて、それら情報を駆使して思う・考える作用をおこなうことです。現在のヒト・人間という個体には、一般にはこの装置が備わっていることを基本条件として、思い考えることをします。自分という個体を、そういう学習において、相関的にとらえること。つまり、自分と他人の区別をつけて、自分をとらえることができるのです。他人・他者との違いを知り、自分特有の個体像をつくること。これが自分という認識です。

それと混在する情・感情というものが、思う・考えることで認識されます。情・感情は、学習によって得られるものではなくて、身体器官の動きに由来するものだと考えられています。情・感情は、意識するか否かは問わず、身体があることと対になった気分です。自己表現とは、意識する自分を、形式ツールを介在させて他人に伝えていくことですから、この情・感情を伝えるためには、ふつう、言語によって、楽しい、悲しい、嬉しい、淋しいなどと表現します。

このように自分ということの中味は、思う・考えることを<知>、情・感情を<情>、つまり知と情が混在してあるもの。このように解釈していいかと思っています。思うところ、自己表現とは、この自分の中味の知と情を、どのようにして他者に伝えるか、ということになるのです。とはいえ、なおかつここでは<自分>ということが、まだつかめていない概略なので、再々、この自分をみつけるための作業を、登場させることになると考えています。


-この章終わり-