☆☆写真講義☆☆ 写真理論編
2008.5.11〜2011.2.19
執筆:中川繁夫
写真雑学講座(1) 1〜21
nakagawa shigeo 2014.3.17
2008.5.11〜2011.2.19
<写真を作る現場>
ド素人だと自称される人、大歓迎なんですが、フイルムカメラ、デジタルカメラ、携帯電話カメラ、いろんなカメラで、写真を撮る。写真なんてことば使うと、複雑になるので、静止画像と言ってもいいんですが、まあ、写真としておきましょう<写真>です。
ここは写真学校の枠組みで、写真の基礎概念を培おうとして、テキストを作っていきます。今日はその第一回目、<写真を作る現場>です。ここは、書いていけば当たり前のことを、当たり前に知るための、雑学、基礎講座だと思ってください。写真研究の本論ではなくて、その周辺、雑学です。でも、本論とは、なにか、なんてことも雑学で論じる必要があるのかも知れません。
なになに、写真を作る現場、とは、カメラを携えて撮影する場所のことです。いくつもの区分ができると思いますが、ここでは、屋外、屋内、自分の部屋、など写真を撮る場所が、あるということです。
たとえば、旅行中に写真を撮ります。
たとえば、庭に咲いた花を撮ります。
たとえば、自分が食べるものを撮ります。
撮るモノの話は置いといて、写真を撮る場所は、光がある場所なら、どこでも撮れて、どこで撮っても写真になります。まあ、最初に、このように定義しておきましょう。どこでも撮れる、なんて原則そうですけど、撮れない場所もあります。その場所については、追々ですが、政治的な要素、自然的な要素、そんな条件があって撮れない場所もある。でも、まあ、写真を撮ることで、写真を作ることができます。
<現代写真の表現について>
いつから現代と区切るかには、議論が必要だけど、ここでは1968年からの数年間を、現代写真の始まりとし、その後、いくつかの区切りがあって、携帯電話の普及してくる今が、これを最前線としたいと考えています。
1968年といえば、学生運動が盛んな時期で、自分表現という考えが表面に出てきた時期ではなかったかと考えています。
写真表現の視点についても<私>あるいは<私的>という視点が重要になってきた時期であったと思います。
写真において表現しようとされる内容は、撮影者自身と外部世界との関わりの接点です。その接点を、区分するとしたら、政治経済社会の動向が主体の世界があり、それを受け入れる個人としての自分があります。この社会と自分の関係を、社会の側に主軸を置くか、個人の側に主軸を置くか、それの強調図式だと思うのです。
写真制作作業が、個人の興味において、その興味のなかみが撮られ、作られていきます。、写真イメージを作っていく、写真行為とは、この興味そのものを、具体化していくことです。いっぱんに社会と呼んでいる世界の構図のなかで、個人の興味視点を、より社会に向けるか、より個人に向けるか、の視点と方向のちがいといえるかも知れません。
いつも個人と社会の距離感で、そのどちらに重きが置かれるか。この視点でいえば、現代写真の表現は、より個人的に、よりプライベートに、その撮影の現場を求めてきたといえます。次には、その流れを具体的に見たいと思います。
<現代写真の表現について>-2-
1968年を起点として、現代写真のはじまりだとする説をとってみます。ここでは、年配になってしまわれたけど現役の、三人の作家を選び出すことができます。ぼくは、東松照明さん、荒木惟経さん、森山大道さん、この三人の作家をあげます。もちろん同時代の写真家さんは、たくさんいるし、なにもこの三人だけが重要なわけではありません。という言い訳をしておいて、この三人の作家さん、それぞれに特徴があります。その特徴を、社会の出来事を撮るという、写真の目的に対してどうなのか、という視点からあげてみます。
東松さん。
ストレートに社会の問題となる出来事にトライしています。当時でいえば、原爆投下された長崎、米軍基地のありようの問題など、社会の関心ごとをテーマにしていきます。
荒木さん。
個人的な新婚旅行の写真集からのスタートです。「センチメンタルな旅」、感情旅行といえばよろしいか。つまり、おおやけ問題より、個人の関心ごと、そのことです。
森山さん。
社会の問題をストレートというわけでもなく、個人のヒストリーというわけでもなく、自分の情念にまつわる出来事、とでもいえばいいかと思います。社会の問題に直接トライしてはいません。
まあ、三人の作家さんの初期のころの作風を、概観したわけですが、この三人の作家さんが、展開される道筋に、以後の作家の卵たちが追随していく、まあ、ぼくはこのようにみているわけで、この三人が並んで出発する1968年前後から1970年をこえる数年を、現代写真の始まりの年月だと考えているのです。1974年にワークショップ写真学校が開校するにいたるまで、です。
<携帯電話とトイカメラ>
最近の写真をつくる道具としてのカメラの注目は、携帯電話とトイカメラです。携帯電話についたカメラ機能と、いっぱんにトイカメラといわれているフィルムカメラが、写真をつくる、最近の道具です。もちろん高級デジタルカメラがあり、従前のフィルム一眼レフカメラがありますが、簡便、面白い、など若い世代に受けているのが、携帯電話カメラとトイカメラです。
一方で、現代写真とは何か、どんな様相なのか、ということを考えていて、いくつもの切り口から、その全体を見てみたいとの思いがあります。この立場からいうと、写真を作る道具としての、カメラ装置への考察です。歴史に見てみると、写真の歴史はカメラと感材の道具類によって、その内容が左右される、つまり表現方法が変わる、ともいえます。
カメラが、いつの時も、その時代の最前線テクノロジー、技術が搭載された道具です。そのことでいえば、携帯電話はこの時代の最前線テクノロジーです。その機能としての写真を作る機能なわけです。反面、トイカメラは、そのまま直訳すれば、玩具写真機、基本原理に従って、フィルムを装填して写真をつくる。
ここに二つの方向がみえてきます。最前線道具を使って、写真を作る方法と簡単装置で写真を作る方法です。特に携帯電話は、誰もが持っているような時代です。つまり、誰もが常態でカメラを持っている時代だと言えます。そのことと、昔帰り気分で、トイカメラ、と言うことでしょう。ピンホールカメラブームだし、トイカメラブームだし、いずれも時代感覚のファッションですね。
<1968年の日録とホモグラフィー>
1968年のカメラ毎日3月号の特集に、東松照明日録67.12.20〜68.1.19が掲載されているのを見つけました。
なになに、1968年に日録ってタイトルで、つまり一日一枚ってことで写真集をつくっていく、という作業です。
そのあとがきで、激動する日本の日常と題し、「新型カメラ<ホモグラフィ>」なんてことを、書いているんです。
どうゆうことかといえば、大脳皮質に直接連動するカメラで、常時身につけていて、知覚神経と運動神経に連動していて、写真家が撮りたいと思っただけで、シャッターが切れるカメラ、フィルムは詰め替えなしで1000枚まで撮れる。
まあ、その時代に、このような発想をして、日録って作品を作ったんですけど、ここでも「作品」と使っているけど、いったい作品とは何?っていうような問題提起でもあるように思えます。
2008年の現在、それから40年がすぎています。そうして写真のあり方、カメラの発達なんかを思うと、いま、まさに、そのことが写真表現のありかたそのものであるような感じに思えます。
携帯電話、デジタルカメラ、薄型でコンパクトで、身体のアクセサリー化した代物で、1000枚くらい、とれてしまいます。フィルム詰め替えなしで、デジタルだから、ランニングコスト要らないし、まさに、東松さんの予見のとおりの現在だと思えます。
そんなカメラで作られる写真のことを、ホモグラフィーというんだそうです。
<ネット時代の写真表現について>-1-
写真で何を表現するかという大きな問題を解いていく道筋に、今(2008年)の写真を作り、写真を人に見せる、つまり発表するシステムを解くことがあげられます。
この観点でいえば、ネットワーク、インターネットの時代、デジタルカメラの時代というのが、今の時代の代表システムだと考えています。
フィルムベースの写真の作り方から、デジタルベースの写真の作り方へ、わたしたちの思考とその手法を、考えなければいけません。
表現の中身は、プライベート情報の発信、と仮説を立てての出発ですが、ツールはデジタルカメラとデジタル環境です。
フィルムを必要としないデジタルカメラの、処理環境はパソコンです。パソコンの通信機能は、いまやネット上に開設されるフォトアルバムが、発表の中心媒体です。
フィルム時代には、印画紙に焼き付け、物質としての紙の上にイメージを載せ、それをギャラリー等に展示して見せる、という方法でした。この方法は、いまや過去とは言い難い状況ではありますが、カメラと写真のシステムとしては、今の最前線ではありません。
さて、こうして、今の環境、状況を考えると、デジタル写真がネット上のアルバムにて供覧される、というのが主流ですね。
ネットアルバムに写真を載せることって、とってもイージーなイメージがありますが、つまり、いまや写真発表は、イージーなのです。
何に対してイージーかといえば、ギャラリー等で展示するという方法と対比させて、ということになります。
それでは、ギャラリー等で展示することが、発表媒体として優位にあるかといえば、必ずしもそうではないし、過去と今、以前と今、それが現時点での一般的認知としても、ギャラリー上位ではなく、同格だと考えます。
つまり、ネット時代の特徴を、写真表現の手法に加えるべく、そのツールを加味しなければいけないと考えているのです。
フィルムカメラでつくる写真の延長線上に、今がある、とは言えない。言えないという認識から、デジタルカメラに拠る写真表現を、考えていかないとダメですね。
ひとつの特徴として、デジタルカメラからネット上への発表のプロセスには、第二者、第三者が介在しない、ということがあげられます。
フィルムの時代には、自家処理する人以外は、フィルム現像、プリントを、他者にゆだねなければなりませんでした。
<写真イメージは素材である>
写真を、紙に定着させるにせよ、パソコンでの液晶画面に定着させるにせよ、写真は一枚ぽっきりの単独イメージです。写真を考えるということは、写真の中身(撮られた被写体)を考えることを中心に、写真論を組み立て、写真のあり方を考えます。でも、それだけじゃなくて、写真という固定されたイメージの紙または液晶画面が置かれている状態を考えることも必要ではないかと思うのです。
写真の中身は当然、論の中心であってよいわけですけど、たとえば、写真を見せる枠組み、フレームといえばいいか、ギャラリーの壁面であったり、雑誌とか写真集の印刷物であったり、ネット上で組まれるアルバムであったり、そのフレームを考えると、写真が素材で、写真を料理(編集)して、器に並べて、見栄え良くして、おいしくいただく。そういう全体がわかってきます。
ここでは、ネット上で展開される写真の枠組みについて、論じておこうと思います。というのもデジタルカメラで撮って、ネット上で発表することが主流となってくるからです。ネット上で発表される写真の、枠組みは、ホームページ、オンラインアルバム、ブログなどです。もちろん自作も可能でしょうが、写真を載せる枠組みは、既存に提供されるフォーマットを使います。オンラインアルバムの形体、ブログのデザイン、ホームページのフォーマット、などは選択するところから始まります。
写真イメージは素材である、とタイトルしましたが、一枚一枚の写真イメージが素材として、スライドショーの枠組みを提供されていることに着目してのことです。つまり、スライドショーって、静止画の動画発想で、音楽つきスライドショーができるアルバムです。ニコンのアルバム、ヤフーのアルバム、ぼくはこの二つのアルバムのスライドショーを見て、考えているんです。このネット上のアルバムのスライドショーでは、写真イメージは素材なのです。
<デジタル写真の展示方法>
かって印象派の第一回展が、パリはナダールの写場(スタジオ)を使って展示されたといいます。肖像写真館としてあった場所が、社交場であり、絵を飾る場所になりえたわけです。このような観点から、今の写真ギャラリー空間を思ってみると、写真を展示すると同時に、社交場でもあると思えます。
写真を写真として表出するかたちは、発明のころから紙を媒体として発達してきました。カメラ、フィルム、印画紙という三点セットです。絵画でもなく版画でもなく、写真といえば、この三つの道具がセットになっていたわけです。ところが、現在、この写真を制作し発表する道具が、カメラ、メモリー、モニターの三点セットになった。これが、写真制作の基本的スタイルとなりつつあります。
そこで、これまであったギャラリーの壁面に飾られる<写真>は、紙とフレームで仕上げた額装ではなくて、モニターにとって代わられる。この発想から、デジタルカメラで撮ったイメージを、液晶モニターで展示するという方法が導き出されるわけです。もともとギャラリーには、作家とミュージアムを媒介する役割を持っています。そしてギャラリーには、新しいスタイルを世に広めるという役割も持ちます。
写真制作の材料が変ってきて、いまやデジタルカメラで撮影、デジタルプリンターにて紙にプリントする時代です。この紙にプリントということは、従前のフィルムから導き出される方法であって、デジタルの延長ではありません。デジタルの延長は、テレビモニターです。だから、展示の方法も、液晶モニターを使うというのが、最新の方法だと考えています。
<ギャラリーは社交場なのかも>
この5月30日、大阪十三にオープンした<ブルームギャラリー>。写真を展示するスペースです。たまたま昨日オープンしたギャラリーへ行ったんです。そしていま、これまでにも抱いていた思いを、ちょっと書いてみようと思って、これを書いています。ぼくのなかには、写真を展示する空間としてのギャラリーについて、さまざまな思いがあり、その思いを整理しながら、これからの在り方、役割、経営運営にかかる事、など考えないとあかんなぁ、と思っているところなんです。
というのも、かってフィルムを装填して撮るカメラだけの時代には、その出口として、紙に定着させるというのが第一の当然の帰結であって、その後の展開として印刷物に転載されて、流通する。あるいは、ギャラリーとか美術館などにオリジナル展示されて、鑑賞される。一般的には、この図式でした。
ところが、デジタルカメラになって、デジタル信号になって、パソコン処理が出来るようになり、あえて動く映像(動画)を再現するための道具、テレビ画面に表示されるようになり、動画に対して静止画として扱うとき、はたして、従前の紙に定着させる方法が、妥当かどうかとの問題に、いきあたっているわけです。
ギャラリーの空間で、写真をどのように見せるかという問題を考えると同時に、その役割をいくつかの部分にわけて、考えるなかの一つに、結論的に言ってしまうと、社交場としての役割がより大きくなったと考えています。写真発表は、ウェッブ上で行うことが一般的になり、ギャラリー空間を使うというのは、作家と作家をとりまく鑑賞者、鑑賞者とはいってもおおむね作家と面識がある人たち。その人の群れのための社交場。それが今様のギャラリーなのかなぁ。
<何を撮るのか>
2009.6.23
カメラを持って、写真を撮るんですが、ここで確認しときたいんですが、何を撮るのか、ってゆう問題です。
何を撮るのか、という問題は、単純には、目の前にあるものを撮ります。
目の前にあるものを撮る、とはいっても、おおむね、カメラを持って写真を撮るというのは、なんらか目的があって、撮るのが普通ですね。
写真を撮る行為は、写真を撮るという目的があって、実現することです。
では、写真を撮る目的とは、何ですか。記念写真を撮る。子供の成長過程を撮る。一般には、そのつどの節目に、写真に撮って残しておく、という欲求に基づいているのだと思います。
でも、そうゆうことではなしに、写真を撮るってことがあるじゃないですか。
写真表現とか写真作品とか、カメラを使って、作品と呼ぶモノを作る。このときに問題になるのが、何を撮るのか、ということですね。
何を撮るのか、という問いに、カメラを持った人は、なんと答えるのでしょう。
この答えが、撮られたモノ。写真の中に映されたモノ(物質)に現れるのだと考えます。この、何を撮るのか、そして撮られたモノ。これが写真の中味になってきて、中味について語り、語られる。
何を撮るのか、カメラを持った人が直面する問題。何を撮ったらいいのか、これもカメラを持った人が直面する問題。ここからですね、写真を撮るという、目的の始まり。
下に掲載した写真は<記録>写真の類です。そうしてこの場に掲載するのは京都写真学校の広報のためです。
そもそも、このブログじたい、京都写真学校の広報を目的とした枠です。その枠に、過去にあった出来事、写真セミナーの現場が、撮られていて、それがこの記事の枠作りの部分となっている例です。
撮るときに、この目的を想定して、撮っているわけです。もちろん、それだけではなくて、それだけではないところに、別のいくつもの目的が、あるといえばあるのです。別の目的をも、明確にしていきたいところですが・・・・。
<写真の提示方法>
京都写真学校では、毎月定例で、写真セミナーを開催しています。
この写真セミナーも、この7月で58回目を終えました。
あしかけ5年がたったところです。
5年前といえば、まだフィルムカメラとデジタルカメラが入り乱れていたころです。
最近は、デジタルカメラが本流で、撮影から処理まで、デジタルです。
カラー写真もそうでしたが、デジタル写真も、工業生産品を使って制作するしか、ありません。
でも、これが、本流ですから、流れに任せるしかないんです。
そこで、人に見せる提示の方法。
かって、いまも、紙に定着させて提示するというのが主流です。
でも、ここで、考えてみてください、デジタルカメラによる写真。
紙に定着させる必要なんてなくて、パソコンとモニターで提示。
その試みを、京都写真学校の写真セミナーでは、行っています。
この4月から、原則、データによるパソコン画面提示です。
添削の方法が、一枚単位の紙の束ねではなくて、アルバム形式です。
写真の束を分解して、組立る作業なんかは、紙定着とは全然違います。
違うから、最初は、どぎまぎ、不慣れでしたが、最近は、慣れてきた。
そんな感じで、撮った写真を、すぐに見ることをしたり、データで提示したり、今流の提示方法です。
そろそろ、古い形式は捨て去り、新しい形式を紡ぎ出していきましょう。
京都写真学校では、このように考えて、実践しています。
添付写真は、2009.7.19、第58回写真セミナー。
モニターによる提示、添削、相互批評風景です。
<写真とは?>
この雑学講座も久々の記事です、こんにちは。
写真について考えるんですけど、今時、<写真:しゃしん>って何なの?
写真の定義、画像、静止画像、そうゆう言い方のなかでの写真。
ぼくは、手作り可能な光定着の画像を<写真>となずけるのがいいかなぁと、思っているんです。
どうゆうことかとゆうと、カメラ、フィルム、印画紙、この物質のプロセスを、手作りできる範囲にあるモノを<写真>と呼べばいいのではないか。
カメラのなかへ光が入り、フィルムに相当する平面等に光が当たり、薬品が反応し、外の景色が定着できる。
このプロセスそのものを、自分の手作りで、最終、紙であれ、なんであれ、画像が定着されて、見れる。
コンピューターとデジタル技術を必須として、制作されるものと、区別すればよろしくて、これらは画像、静止画像と呼ぶ。
一方で、フィルムを使い、印画紙を使い、紙に定着させるところまでの、フィルム写真。
手作りからのプロセスで、ここまでを<写真>と呼んでいいのかも。
いずれの時にか、フィルムと印画紙は、生産ストップとなり、このプロセスで制作するには、手作りが必要、その時のために。
写真と画像の意味する範疇を決めておこうというのが、この趣旨です。
これでかなり、明確な線引きができるように、思うのですが、いかがでしょうか。
というのも、写真という代物は、手作り段階から制作されてきたものです。
その技術的発展から、映画が制作され、ビデオ、伝送画像、放送、メディアアート、等々への発展してきたいま、写真をどこで区切るかが、必要かと思うんです。
<写真は絵画と映画の間>
写真って、フォトグラフィーのことですけど、歴史的な時間軸でみると、どんな位置にあるのか。
写真の発明は1839年とされています。
この写真技術発明を境に、光が自動的に絵を描く装置として、写真が存在します。
写真発明以前には、絵画があります。
絵画では、絵具を使って、主に手を使って表します。
そこで写真が発明されて、カメラの外の風景などが、自動的に定着されることになった。
それから50年ほど後、19世紀の末期に、映画がつくられます。
映画は、写真、静止画が連続したものです。
フィルムを使うか、いまならデジタル信号にて、メモリに蓄積、なんてことです。
このように見ると、写真って、絵画と映画の間にある、表現物だと言えます。
絵画としては、その後、現代アートに至るまで、制作は続きます。
映画としては、その後、テレビへと展開されますが、映画館健在です。
歴史の時間軸で、絵画と映画の間にある写真。
これまた、今も健在、デジタル、携帯電話カメラ、形態は変わっても、静止画を生み出します。
ところで、だから、この写真・静止画ってやつは、いったい、どのように扱えばいいのか。
これが、論点、論の入口ですね。
写真には、音も匂いもありません。
定着されたイメージは、動きません、静止画、写真です。
さて、このような写真を、どう使いこなそうか、これが問題ですね。
<なにがどうちがうのか>
2010.4.17
何のことやら、難しい話はしないでおこうと思うけど、どこがどう違うのか。
いま、写真を撮ることの意味を、自分なりに整理しようとしているんです。
そこで、イメージとして、ふたつの方向があるように思えるんです。
かなり以前にさかのぼりますが、1950年代から60年代。
写真の歴史をひもとくと、リアリズム写真、アマチュア写真などが出てきます。
名取洋之助って人物が出てくるし、東松照明って人物が出てくるし、土門拳って人物がでてきます。
木村伊兵衛とか、伊奈信夫とか、そんな名前も賞の名前で、あります。
それで、いまも大量に写真が撮られ、発表されるわけですが。
いったい写真にするテーマは何。
何をテーマに、写真を撮るのか。
これが、問題なんですね。
テーマをどのように立てるか。
何を撮るかを決めていく、手がかりとしての、テーマ。
写真をつくるための技術的な手法ではなくて。
写真をつくるためのテーマをどうとらえるか。
ここで、方向が、二分されてくると思うんです。
遠くのものを近くに、より珍しい光景に、このことが写真の価値を決める。
そんなことではなくて、何を考え、何を訴え、何を表現するのか。
報道のための写真ではなくて、自分表現のための写真。
コンテスト向けの写真ではなくて、自分の内面表出のための写真。
なんか、どこがどうちがうのか、という設問に対して、答えになっていない。
としても、やっぱり、どっか違うんです。
表現の方法、その現場と向き合う、テーマの社会性、・・・・。
なにが、どのように、違うんでしょうか。
<メディア表現について-1->
最初に、メディアという言葉の定義を、しておかないといけませんね。
メディアとは、媒体、すなわち、紙媒体、放送媒体、ネット媒体など。
コンテンツ(内容)を伝達するための、手段、方法といえばいいか。
この手段、方法について、考えたいと思うところです。
メディアの形式とか方法については考えてみる。
その第一には、歴史のなかで、どんな形式と方法をとったか。
ここでは、写真を軸に考えるから、その最初は発明のころ。
19世紀の中頃から、とらえることにしていきます。
第二には、メディアの拡大とでもいえばいいでしょうか。
印刷媒体、新聞、雑誌、書籍、ポスター、チラシなど。
次には、放送媒体、ラジオ、テレビ、劇場映画、インターネットなど。
写真の発明以後、新しいメディアが、考案されて、盛隆してきて衰退。
この媒体と内容の組み合わせで、メディア全体が、つくられてきます。
ここでは、その組み合わせを、試みながら、現代写真を、考えたいと思う。
現代なら、デジタルカメラによる撮影で、ネット展開ということを想定します。
ひと昔前なら、雑誌、新聞など、印刷物による展開です。
それから、写真を作品として展示する、展覧会や写真展。
なにより、いま、現在から未来、この先について、どうするのか。
これが、ここでの最大の関心ごとなのです。
これからの写真のメディア展開をどうするのか、なのです。
<メディア表現について-2->
どこまで意識して使っておられるのかは、わかりません。
でも、現在、ネット上にあるサービスで、アルバム機能があります。
無料で使えるアルバムは、宣伝広告つき。
それからメーカーのカメラを使っているユーザーに使えるアルバム。
ブログ機能のなかにあるアルバム機能。
インターネットのなか、ホームページ、ブログ、アルバム。
それらを、かなり自由に使うことができる現状があります。
ここでは、静止画として、写真を扱います。
でも、まもなく、動画が主役になってくると思われます。
現在でも、ユーチューブとかの動画サイトが話題ですから。
インターネット環境の、通信スピードとか容量とかの制約。
これがますますスピードアップ、大容量化してきています。
静止画を重ねて動画となるデジタル画像・映像が、主流となる。
これは、フィルムがなかった時代、フィルムが開発された時代。
それから映画が開発された時代、テレビが開発された時代。
そうしてデジタル化された通信の時代。
それぞれの時代に、メディアを駆使した作品が制作されてきました。
詳細は別途見てみますが、メディアと表現内容は、密接に絡みます。
フィルムの時代、カメラが小型化する時代、そのときの写真作品。
デジタルカメラの時代、ネット社会の時代、これが<いま>です。
いまの時代から今後にかけて、表現の方法が、どのようになるのか。
これが、ここでの、最大の論の根拠としていく内容かと思います。
<メディア表現について-3->
メディアとメディウム、媒体と発信、とでも言えるかと思います。
メディアとは、自分の思い、思想とか、感情とかを、発信する媒体のことです。
このメディアの形式が多様にあると認識できます。
写真は静止画ですから、印刷物、展示物、となります。
おおむね紙の表面に定着されている画像、イメージ、です。
かって写真プリントを、オリジナル・プリントとして売買の対象としました。
いや、現在だって、プリントを売買することは、有効です。
オリジナル・プリントを扱うギャラリーがありますから。
でも、最先端の表現方法としてのメディア。
そこにおけるメディア表現の効果、効用についてです。
なにより自分の思いを、発信する媒体ですから、自分の思いをのせます。
思想とか感情の領域にある自分の思いです。
ここで苦労の最初があるように思います。
写真は、かなり即物的ですし、リアルです。
つまり物体そのものが目に見えるような形式で定着されているから。
撮られて提示された写真を、言葉で囲うのは、ナンセンスだとぼくは思う。
むしろこれまでの写真を解釈する方法とは、言葉で囲ってしまうことでした。
その時代が終わって、現在のメディア環境では、言葉で囲わない方法を。
はたして、言葉の囲いを取り払って、写真が写真として成立するのか。
新しいタイプのメディア表現とは、このあたりではないかと思うのです。
<手作り写真について>
じつは、最初のころの写真って、手作りでした。
18世紀の半ばです。
カメラを手作り、ネガとかポジとかも手作り。
その後になって、カメラと写真材料が工業生産されだします。
フィルムを使った写真です。
ところが最近は、デジタルカメラによる写真制作ですね。
おっと、もう一人の人間のスキルの範囲を超えてしまいました。
そうゆう現状に対してでしょうか、手作り写真が注目されています。
カメラは、ピンホールカメラ、フィルムと印画紙も自分でつくる。
薬品は、薬局などで買うことになりますが。
世の中、便利になって、静止画の写真を超えて動画の時代。
テレビ信号も今年7月、来月からデジタル放送だけ。
パソコン、カメラ、モニター、すべてがデジタルです。
ああ、なつかしい、手触り感、フィルムとか。
暗室では、ほのあかい電球、酸のきいた薬品の匂い。
レトロだから必要だとゆうわけではありません。
それらアナログ写真が、アート作品として成立する一角を占める。
なにより自分の手元ですべてが完結する。
京都写真学校では、そんなアナログな手法をプログラム化します。
ピンホールカメラで写真、実習は7月3日(日)です。
<デジタルカメラの表現媒体>
写真のことを静止画と呼ぶのにふさわしいデジタル写真。
写真をのせる媒体は、印画紙からCTR、液晶パネルへ変わります。
液晶パネルの厚さが数ミリの単位になって、壁にかけられる。
印画紙を挟んだ額縁の厚さより薄い。
家電業界が、液晶テレビモニターの厚さを薄くしようとしています。
デジタルカメラで撮った静止画を、紙にプリントアウトする。
これが現在の方法であり、フィルムの時代からの方法でした。
現像液につけて現像する方法から、プリンタによるプリントへ。
いずれにしても支持体は紙でした。
この紙に再現することの限界を、感じていらした方も多いかと思います。
デジタルカメラの元祖はビデオカメラです。
ビデオカメラで撮られた映像は、テレビモニターで再現しました。
その流れに沿っていえば、デジタルカメラの静止画はテレビモニターで。
厚さ数ミリという超薄型のテレビモニターの商品化ニュースを見て。
いよいよ額装のかわりに、テレビモニターを使うことになる。
でも、まあ、こういった議論は、写真の本質を考える議論ではありません。
写真の本質は、その内容のことです。
なにが撮られているのか。
撮られているものから派生する意味。
そういったことを時代の中で捉えていくことが、必要だと思うのです。
<デジタルカメラ>1
もうデジタルカメラが写真制作の道具となりましたね。
といいながらもフィルムを使って制作される人もたくさんおられます。
ぼくは、旧態、新態、まあこんな区別をしてみたり。
つまり旧態はフィルムを使う。
新態はデジタルカメラを使う。
いずれにしてもカメラって道具を使うわけです。
写真は静止画、静止している画像です。
静止画に対して動画、動く画像、連続する静止画。
動画といえども基本は、静止画で、それが連続したもの。
こうしてみると、画像の基本は、静止画、つまり写真ですね。
写真を制作する方法として、デジタルカメラを使う。
デジタルカメラの機能に、動画を撮る機能がついています。
ということで動画を撮りました。
ネット上に動画サイトがあります、ユーチューブとか。
そこへ投稿する、かなり簡便に投稿できますね。
デジタルカメラをパソコンに接続します。
デジタルカメラで撮った写真をウエブアルバムに掲載する。
デジタルカメラで撮った動画を動画サイトに投稿する。
もちろん、携帯電話からも掲載や投稿ができる。
新しい人ひは、無意識にそのことを実践しています。
でも、フィルム時代に育った人には、新たな認識が必要かも、です。
<デジタルの時代>
写真(静止画)を制作するのは、いまやデジタル信号です。
フィルム時代が終わって、次の段階へ入ったといえます。
なにが変わるのかといえば、制作方法が変わる。
写真をつくるテクニカル、制作技術の部分が変わる。
カメラという装置は同じでも、処理の仕方が違う。
ところで、写真を撮り、目に見えるイメージに仕上げること。
このときの写真を撮るという行為の中身。
この中身、この内容まで変わるのだろうか。
単純な疑問なんですが、どうなんでしょうか。
カメラが変わったとしても、中身は変わらない。
中身が変わるのは、その時代の変容に拠る、なんて。
カメラの形態によって、出来上がるイメージが変わります。
レンズのあり方によって、出来上がる写真イメージが違う。
そのとおりで、カメラとかレンズで、写真の出来が違う。
でも、そのことが、本来ある姿にとって、どれだけ有効か。
この問いかけを、写真愛好家と批評家は、いかに受け止めるか。
そこが、問題の入り口だと思うんですが、いかがですか。
写真の中身は、社会の動きとかに連動してきます。
カメラ機材の変化で、写真を物質的につくる方法が変わる。
写真に現わされる内容は、時代の動きに連動します。
この両者のかけひきのなかで、写真イメージが制作されます。
さてさて、後者のほうは、写真制作に必須条件だと思うのです。
としても、必須条件を語る口がないのは、どうしたことか。