日本の写真史(1) 1945年以降1970年代まで

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最新更新日 2018.10.22


 区分:カリキュラム理論編

 科目:写真史・作家論


レッスン番号 054

i-photo school
--京都写真学校カリキュラム--


        日本の写真史1945年以降1970年代まで

                  日本の写真史 nakagawa shigeo 2005.7.17〜2005.9.8


<日本の写真史1945年以降>1

1950年代〜60年代概観


1945年以前、第二次世界大戦終結以前の日本の写真の歴史には、「芸術写真」や「新興写真」の時代が記述されますが、その時代をリードしたのはアマチュア写真家でした。
(※アマチュア写真家とは写真制作等で生計を立てていない人を指します)
アマチュア写真クラブが主宰する写真展や月例写真コンテストを主宰していたカメラ雑誌を舞台に、自由な創作意欲あふれる作品が発表されていました。この傾向は、1945年以降の状況においても、また現在においても基本的には変わっていません。

1946年以降、カメラ雑誌の創刊や復刊が相次ぎます。
1946年「カメラ」復刊、現在廃刊
1949年「アサヒカメラ」復刊、現在月刊発行、新聞社系
1949年「フォトアート」創刊、現在廃刊
1950年「日本カメラ」創刊、現在月刊発行、写真出版社系
1954年「サンケイカメラ」創刊、現在廃刊、新聞社系
1954年「カメラ毎日」創刊、1985年廃刊、新聞社系
これらカメラ雑誌は、戦後の復興とともに国産カメラが一斉に発売されて、写真は市民層の趣味として広く受け入れられていった。カメラ雑誌の発行者が新聞社が多いのは、新聞読者獲得のための方法としてとらえられたからです。

日本の写真の特徴をあげるとすれば、多くのアマチュア層をベースに、コンテストや写真展が催されていることです。アマチュア写真家が群れる団体構図は、新聞社が主宰する団体、美術団体が主宰する団体、カメラメーカーが主宰する団体などがあげられます。各団体ともに地方支部を設け、コンテスト審査員にはプロ写真家が当たる。
職能団体として「日本写真家協会(JPS)」や「日本広告写真家協会(APA)」などがあります。

現在も概観変わらないプロ、アマチュア混在の写真界の構図がありますが、この流れからインディペンデント(独立系)の写真家たちが出てきます。
現在にも云える日本の写真界の状況は、プロ写真家集団、アマチュア写真団体、インディペンデント系写真家たちが、複雑に混在しています。
年代とともに写真をめぐる人々の組成と外観が変容してきますが、ここでは時代を追って、大きな外観の流れを見ていきたいと考えています。



<日本の写真史1945年以降>2

1950年代〜60年代概観

1952年から「リアリズム写真運動」がはじまります。




1950年に傷病軍人や娼婦、かつぎ屋など、戦後の世相を直視した写真を「カメラ」誌に発表していた土門拳(1909年生)が、「カメラ」誌の月例写真の審査員になります。そこで土門が提唱した方法は、<絶対非演出の絶対スナップ>と<カメラとモチーフの直結>だと云います。

アマチュアカメラマンたちのエネルギーを、社会性の強いテーマを撮影する方向に組織しようとしたと云えます。
「リアリズム写真運動」は、土門拳と木村伊兵衛がカリスマ的な影響力を及ぼすことになります。

リアリズム写真運動のなかから、東松照明や川田喜久治らの作家が登場してきます。しかし撮られる写真には、惨めな現実にのみ目を向けていく、俗称「乞食写真」が横行し、題材や手法が固定化してきて、1955年ごろには、この運動自体が失速してしまいます。

リアリズム写真運動の成果を生かす作品としては、土門拳の「ヒロシマ」(1958年)、「筑豊のこどもたち」(1960年)、木村伊兵衛の「秋田シリーズ」(1953年)などがあげられます。

1956年には「日本主観主義写真連盟」が結成された。

本庄光郎(神戸)、後藤敬一郎(名古屋)、阿部展也(東京)、瀧口修造(東京)、三瀬幸一(東京)らによって結成され、アマチュアとプロの写真家の混成で展開されます。ドイツのオットー・シュタイナー(1915〜1978)が提唱したサブジェクテブ・フォトグラフィーを解釈したもので、特徴は、暗室作業による「モンタージュ」「形態の単純化」「ブレや祖粒子の効果」などを用い、反リアリズム的イメージの写真制作でありました。

1950年代には、リアリズムと反リアリズムという手法がでてきます。アメリカでは、ロバート・フランクやウイリアム・クラインらが、新しい写真の手法をもって登場する年代です。土門拳や木村伊兵衛らを戦後第一世代だとすると、次に現れる若い写真家たちが現れてきます。



<日本の写真史1945年以降>3

1950年代〜60年代概観


1959年、セルフ・エージェンシー「VIVO」の活動が始まります。いまでいうフリーランス・カメラマンの合同オフィスです。
1950年代の後半、写真を、報道写真や商業写真といった分野に閉じ込めておくのではなく、自立した「映像」として、自己表現の手段として確立していこうとする若い写真家たちの動きが活発になってきます。「VIVO」の結成で、中心になるのが写真家、東松照明、奈良原一高、川田喜久治、細江英公、佐藤明、丹野章の6人でした。
「VIVO」に集まった写真家たちは、1930年代の生まれで、戦前から活躍していた土門拳、木村伊兵衛、濱谷浩といった写真家たちとは違った、「戦後派」の新しい感受性と写真制作の方法意識を持っていました。
従来の「リアリズム」イコール「報道写真」的な考え方、事実の平板な描写を超えて、現実に対して主観的、感覚的なまなざしを向ける態度が強調されます。奈良原が言った「パーソナル・ドキュメントというべき方法」の模索でした。

土門や木村が提唱し推進してきた「リアリズム」に対して、「反リアリズム」ともいえるムーブメントです。
「VIVO」の写真家たちの出現によって、1960年代には、自立した表現としての写真作品を目指す写真家たちが登場してくることになります。アメリカで起こってきたドキュメントの手法を、日本の若い写真家が呼応するように手法化してるのです。
若い彼らは、アーティストとしての自覚を持ち、対外的にもその実力を認めさせた最初の世代となりました。

[作家研究]
※東松照明は1930年生、雑誌「カメラ」の投稿作家として登場し大学卒業後「岩波写真文庫」のカメラマンとして、報道写真の文法を学びます。1956年、岩波退社後「ひと」シリーズを発表します。市民(庶民)の生きる断片を自由に切り取る手法で撮った作品を発表して注目されます。以後、高度経済成長によって大きく変貌していく日本社会の断面を、さまざまな角度から浮かび上がらせます。1960年発表の「占領」「家」、1966年発表の「<11時02分>NAGASAKI」、1967年発表の「日本」などがあります。(1970年代以降は別途記述)


<日本の写真史1945年以降>4

1950年代〜60年代概観

セルフ・エージェンシー「VIVO」の作家たち

[作家研究]
※奈良原一高は1931年生、1956年個展「人間の土地」では、<自然対人間>をテーマに、桜島の近くの黒部村落に取材し、また、<社会機構対人間>をテーマに、軍艦島と呼ばれる人工島に取材し、この二つのテーマを鮮やかな対比することによって、デビューします。奈良原は、写真家として国際的な場に活動の舞台を求めます。1962年に渡欧し、パリを中心に1965年まで滞在します。1967年、写真集「ヨーロッパ・静止した時間」を発表します。この写真集では、西欧の歴史と文化の厚みを、写真をもって詩のような表現を試みました。1970年には「ジャパネスク」を発表し、外からの目で日本文化をとらえる試みをします。1970年から74年にはアメリカに滞在し、1975年、「消滅した時間」を発表しました。


※川田喜久治は1933年生、VIVOのメンバーのなかで、自分の主観的世界に対する<こだわり>が強い作家です。1965年に、写真集「地図」を発表します。写真は現実にあるものを撮る行為ですが、川田の写真の作り方は、現実世界の秩序から抜け落ちてきた象徴的なオブジェがひしめき合うイメージを提出します。寡作な写真家ですが、1971年には、写真集「聖なる世界」を発表し、異様な迫力を備えた写真イメージを並べていきます。客観と主観という問題が提起される時代にあって、主観を前面に押し出した写真家だといえます。

※細江英公は1933年生、1960年に「おとこと女」を発表します。「エロスと肉体」というテーマを正面から取り上げ、強力な写真美学を確立していきます。1963年には、作家三島由紀夫が自らモデルになった豪華本「薔薇刑」を制作します。1960年代は、或る意味、映像によるエロスの問題が取り上げられる年代です。女体美をフォルムとして追求する写真ではなくて、肉体それ自体が持つエロス要素を映像化してきます。その先鞭をつけた写真家だともいえます。

このように、「VIVO」の写真家たちの仕事は、その後の写真家たちのテーマを先取りする形で、表現されたといえます。


<日本の写真史1945年以降>5

1960年代の概観

「provoke」と「コンポラ」

1968年11月、季刊同人雑誌「provoke」(プロヴォーク)が創刊されました。同人は、中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦の四人でした。第2号から、森山大道が加わります。
プロヴォークとは<挑発>という意味です。同人たちの写真は、ラディカル(先鋭的)な表現意欲に溢れていました。

1960年代末は、各大学の学園紛争に代表されるように、政治・文化制度への根本的な「異議申し立て」の時代だったといえます。人の存在が、大衆消費社会のメカニズムの中に拡散してきて、生のリアリティを失ってしまった、との感触を得だす時代でもありました。

プロヴォークの作家たちは、「人間と世界を全体化するものとしての知」をめざす「思想のための挑発的資料」を提示しようとしました。写真が持つ、報道写真的な社会的機能や、「モダンフォト」が目指した「作品」としての完成度。この両方を共に否定することによって、「アレ、ブレ、ボケ」の荒々しいイメージが選び取られていきました。

いわゆる「アレ、ブレ、ボケ」の風潮は、中平卓馬や森山大道の作品に顕著に現れてきます。それらの写真群は、言語や意味によって、絡められ、固定される、それ以前の未分化の世界の断片が、闇の内からもがき出てきたようにも、定義されました。「provoke」は1969年8月に、第3号を出して終わり、1970年3月、活動の総決算として、写真・エッセイ集「まず、たしからしさの世界をすてろ」を出版し、解散しました。

写真表現の根拠を問い詰めながら、その時代を駆け抜ける同人メンバーの写真集をあげてみます。

1968年、森山大道、写真集「にっぽん劇場写真帖」
1970年、中平卓馬、写真集「来たるべき言葉のために」
1972年、森山大道、写真集「写真よさようなら」、「狩人」
1974年、高梨豊、写真集「都市へ」

一方で、1960年代末には、「provoke」の荒々しいラディカルさとは、一見対照的な写真スタイルも登場してきます。1966年のアメリカで、ネーサン・ライアンズが企画した「社会的風景に向かって」展の影響を消化した、いわゆる「コンポラ」写真です。
日常のさりげない事象に寄せる作家の関心ごと、多用される横位置の構図、対象との醒めたような距離感、などが特徴とする写真群です。1950年代から1960年代にかけてアメリカ在住の写真家、ロバート・フランクや、リー・フリードランザーなどとの共通性も見られます。

午腸茂雄(1946-1983)、下津隆之(1942-)、鈴木清(1943-)らに代表される「コンポラ」写真は、彼らと現実の問題点、自己と他者という関係の網の目を、写真という手段とメディアを通して検証するかの作業のなかで、そのスタイルが選ばれてきたといえます。

当時のアメリカと日本の関係といえば、アメリカナイズされる日本、との構図を見ることができます。アメリカ文化が日本文化への伝播してくるタイムラグがあった時代です。先に見た「provoke」の作家たちが、表層的に受け入れた同時代的作家だとすれば、一世代若い作家たちが現れてきたとも見えます。

1977年に自費出版された午腸茂雄の「Self and Others」は、コンポラ写真の代表ともいえる、見る人の心を揺さぶる写真集です。


<日本の写真史1945年以降>6

1970年代以降概観の概観

「多極化する70年代以降」

1970年代以降の日本の写真は、焦点をもたない多極化の様相を呈してきます。日本社会の経済的成熟を迎える時代、高度経済成長の時代を反映するかのように、コマーシャル分野の写真と写真家が登場してきますし、写真家自身が写真と共に、アイドル的スターとなってくる時代でもあります。

写真を、報道写真やコマーシャル写真としてではなく、写真家の作品として制作され、ギャラリーや雑誌掲載や写真集出版として提示されるようになります。

・性にかかわる私風景にこだわり続ける、荒木経惟(1940年生)や深瀬昌久(1934年生)。

・日本人や日本文化のツールを、民俗風景を通じて探ろうとする、内藤正敏(1938年生)や土田ヒロミ(1939年生)や須田一政。

・都市と都会人風景のスナップショットに切れ味を見せる、倉田精二(1945年生)や北島敬三(1954年生)。

・表現装置としての写真そのものを問い詰めていくかの、田村彰英(1947年生)や山崎博(1946年生)。

・また、海外に拠点をおいて作品を作る、パリの田原桂一(1951年生)、ニューヨークの杉本博司(1948年生)。

1974年にはじまる「写真学校ワークショップ」に集まった若い写真家たちが、自主ギャラリーをオープンさせるようになり、カメラ雑誌では、「カメラ毎日」や「アサヒカメラ」が、それらの写真家たちに発表の場を提供するようになります。

1980年代後半には、写真ギャラリーの増加と公立美術館でもオリジナル・プリントのコレクション展示に力を入れ始めるなど、表現(アート)としての写真の見直しと新たな価値軸の展開がなされてきます。日本の写真家たちの仕事が、インターナショナルな写真表現の動きのなかで、活動し、評価されてくるようになります。

※1930年代から40年代に生まれた写真家たちも、いまや2005年、年齢的にも作家活動的にも、熟年となりました。1970年代から1980年代に生まれた世代が、現在の写真シーンに多く登場しています。写真が一つの産業形成されてくる1970年代以降、多様化する写真状況があります。

以後、別講にて個別に論を進めていきたいと思っています。



<日本の写真史1970年代>1


1970年代、とりわけ1976年という年は、日本の写真にとって新しい世代の誕生と、新しい写真の時代の幕開けを意味しています。写真作品、写真行為、その考え方など、ある種の時代性を伴い、同時多発的に次々と新しい写真と写真家が芽生える年でした。

1960年代の高度経済成長を受けた時代の波の中で、日本の写真家は大きな成長を遂げました。広告宣伝の世界での写真家の活躍、グラフィックな写真の時代を迎えていました。ところが、1970年代の初めにはオイルショックによる経済的な痛手を受けます。一部の特権的な写真家以外は、広告業界や雑誌業界での作品発表の場を失います。

しかし1970年代に入っても、写真の学部や専門学校を卒業してきた写真家の卵が卒業してきます。この卵たちは、高度経済成長時代の写真の考え方を、あたかも理想のように感じ、受けとめてきた世代でした。写真家は新しい時代の花形スター的な職業であると信じられる社会環境で育ち、写真を学んでいけば現代を創造的に生きることができる、との未来を確信させられていたのです。

1970年半ばというのは、写真家という花形職業は社会的な想いとしては残っていたものの、現実は違ってきていました。花形スターになっていくコマーシャル写真家などの受け口は、すでに満杯状態で閉ざされていました。個人のアイデンティティを、カメラとともに考える、といった本質的な職業写真家としての道は、別の形態を持たざるをえなくなったといえます。。

言い方を変えれば、写真産業が高度経済成長のイメージ作用の担い手として、需要が増大し、カメラマンが大量に求められた1960年代があります。大学や専門学校がカメラマン教育を担い、写真家を世に送り出してきます。1970年代には、この需給バランスが崩れ、供給が多くなったのです。

そのような社会的背景を受けて、若い写真家の卵たちは、写真の芸術性や写真表現の可能性を追求する方向をとることになります。写真家であるためのステータスは、金を稼ぐという経済性とは無縁の精神性のなかで、守られていくことになるのです。

写真家は、カメラを持つことによって、自らの時代を確認しようとしていきます。しかし1970年代は、政治的な方向は拡散してきます。そこで若い写真家たちは、自己の内面へとカメラの眼を向けていったといえます。風景と自己、時間と自己、自分のいる場所の確認・・・。ラディカルであったはずの写真家は、次第に社会性を失い、やがては個々のイマージュネーションのなかに、ロマンティックな感情をもって埋没してしまうことになったのです。

1976年は、そのような写真家たちが、お互いの作業を確認しあい、強調しあう融合点としての年でした。新しい時代の新しい写真として、新たな写真の可能性を問われる時代でもありました。


<日本の写真史1970年代>2

自分たちの仲間内で写真の内容を確認しあい、写真を発表する場を持つことが、若い写真家たちの社会への参加方法となります。その当時の既成メディアでは、カメラメーカー等が開設するギャラリーや、マスコミを利用してのコンテストなどがありました。これらのメディアは、多少は手を変え品を変えしていますが、現在もあり続けている形態です。

ワークショップ・写真学校が開校されたのが1975年。翌1976年には解散しますが、季刊誌の発行や写真展の開催などをおこない、解散後も活動が続けられ、多くの若い写真家たちが、この波の洗礼を受けます。
「写真学校・写真ワークショップ」は、東松照明、荒木経惟、深瀬昌久、細江英公、森山大道、横須賀功光らの写真家が、それぞれに教室を持った寺子屋式のワークショップでした。
各教室の先生となった写真家たちの個性に負うところが大きかったムーブメントと、いえますが、ワークショップの生徒となった若者たちは、「写真」について真摯に考えることになります。多くの写真家たちを巻き込んだ、写真学校・ワークショップは、沖縄や名古屋や静岡などで、地域ゼミも行われました。

自分たちの写真で、独自のメディアを切り開く。具体的な形となって現れるのが、自主ギャラリーでした。極めて閉鎖的なギャラリーだったとも云えますが、この環境から、後に活躍する写真家たちが生まれてきます。1976年3月には「フォトギャラリー・プリズム」、同年6月には「イメージショップ・CAMP」、同年8月には「PUT」、と次々にオープンします。時代の若い写真家を吸いつけ、次々と個展やグループ展が開催されていきます。

それぞれの自主ギャラリーは、積極的な活動をしていきますが、大きく社会的に拡張していったわけではなかった。強いイデオローグを持った集団。個々の写真世界に埋没していく若い写真家。様々な試みがなされていきますが、それぞれが大きくぶつかり合うこともないままに、失速していきます。

今、評価するとすれば、1976年前後は、それまでにあった写真家たちとは、異質な内容をもったオリジナル・フォトグラファーたちが誕生する年代だといえます。また、日本のその後の写真を担う、写真家たちの新しいスタート地点だったともいえます。ここで育まれた写真表現が、今日の写真誕生を促したと括るのは、大袈裟すぎるでしょうか。


<日本の写真史1970年代>3

1970年代は、シラケの時代と云われていますが、同時に日常性の回復を意味していたようにも思います。<社会と個人が共存して政治的時代を生きる>と云う戦後には主流だった概念が遠ざかり、人間一人ひとりが自由に考え、生きられるようになった時代です。1970年代は、思想と文化が次第に多様化してくる時期だったといえます。

1970年の出来事には、日本万国博覧会の開催(大阪・千里丘陵)、よど号ハイジャック事件、三島由紀夫割腹事件、歩行者天国(銀座・新宿)などがあります。写真界においては、中平卓馬「来るべき言葉のために」などが出版されます。中平卓馬の中心をなすブレボケ写真と、既成の写真概念への疑問は、写真の伝達性(メッセージ性)を拒否し、写真の枠組みを解体しようとするものでした。

中平卓馬の言説は、多くの若い写真家の共感を呼びました。1968年創刊の季刊雑誌「provoke」には、副題として「思想のための挑発的資料」と銘打たれています。多木浩二、岡田隆彦、高梨豊、中平卓馬、それに森山大道が加わった5人の同人。写真制作の方法に衝撃を伴い、また衝撃を与え、ある種の写真ムーブメントとなります。
「purovoke」の終刊後、1970年3月、「まずたしからしさの世界をすてろ」を単行本として発刊します。そこでは、従来の写真表現を断罪しようとする意図が、言説と写真でもって提示されます。

1970年代には、もう一つの試みとして、1960年代後半から起こったコンテンポラリー・フォトの潮流があります。コンポラ写真と呼ばれる写真群、写真の特徴は、事件もストーリーも希薄な、横位置の風景的画面のロングショットにありました。この作画態度は、アメリカの写真家を中心とする世界的な流行となります。

荒木経惟は、1970年前後に、メール・フォトを展開します。写真をゼロックス・コピーし、黒のラシャ紙を表紙として赤糸で綴じられた写真集です。荒木の行為は、写真に関するメッセージの伝達の可能性を求めていたと云えます。
それまでの時代に写真が、絶対的な価値として持っていたかのように振舞ったメッセージ性。この伝達作用の信憑性を問いだす時代が、ここはありました。「provoke」や「メール・フォト」の持った意味は、新たな写真表現の可能性を秘めていた、といえます。



<日本の写真史1970年代>4

荒木経惟は、1971年に写真集「センチメンタルな旅」を限定千部定価千円で自家出版します。妻・陽子との新婚旅行を、日常的な眼で追っていく写真日記(フォト・ダイアリー)といった気軽で、なおプライベートな写真群がそこにはありました。東京発、京都観光から九州の柳川への新婚旅行です。荒木の写真記録は、それまで見慣れていた写真の社会的光景ではない光景、プライベートであるゆえ、それを上回る衝撃を持っていたといえます。私的な関係への私的なまなざし、とでも云えばいいかと思います。

篠山紀信は、1971年、レオのカーニバルを撮った「オレレ・オララ」でデビューします。その後、1973年には、若い女性アイドル写真を盛んに撮り、大丸デパートで「スター106人展」を開催します。同時代の若い女性アイドル写真は、若い観客に好評を得ます。まさに「今の写真」という近親感が、大上段的ポーズを取ってきた従来の写真の、その概念を変えてしまったといえます。

プライベートな関係をプライベートに処理していく荒木経惟。高度経済成長の真っ只中で、コマーシャルとしてのアイドルをパブリックにプレゼンしていく篠山紀信。その後の写真界が二極分離し、写真産業として成長していく原点が、この二人の写真家に見えてきます。

1970年に、東京造形大学写真専攻の学生4名によって、「NUMBER」がスタートします。自主ゼミ運動のなかの一グループだったといってよい。1972年の暮れ、「NUMBER」第一集がキャノンのコピー器材を使用して発刊されます。月一回ペースで7号までをコピー。8号からオフセット印刷にて発刊されます。この編集には、島尾伸三が深く関わっていました。後に、シリアス・フォトと名付けられる写真態度の萌芽を、ここに見ることができます。

写真雑誌「カメラ毎日」は、1971年1月号から、公募作品ページ「ALBUM71」を始めます。それまでアマチュア界の主流だった月例コンテストとは異なり、選評や等級付けをしないで、賞金ではなく原稿料が支払われるというものでした。この「カメラ毎日」誌の公募は、自分の居場所を探していた若い写真家たちに圧倒的に歓迎されます。以後、1985年の休刊まで公募は続けられます。


<日本の写真史1970年代>5

1974年9月、写真学校「WORKSHOP」が開校します(2参照)。東松照明ほか、中堅作家7人が講師となった個人塾の連合のような学校でした。季刊誌「WORKSHOP」を発行し、写真家志望の若い人たちに新風をもたらしました。このワークショップは、各教室がそれぞれに面白い動きを見せ、当時、それらが台風のようにエネルギーを発散させながら暴れまわっていました。各教室の先生となった写真家たちの個性に負うところが大きいのですが、ワークショップの生徒たちは、シミズ画廊で写真展をおこない、写真について真摯に考えていました。

東京・荻窪駅の近くにあった「シミズ画廊」は、70年代中頃から、写真展もおこなうギャラリーとして注目され始めます。メーカー系ギャラリーでは考えられないラディカルな表現やコンセプトをもつ作品等を積極的に受け入れていきます。まだ気負いの目立つ写真学生の未熟な作品にも門戸を開いていきます。
荒木経惟や森山大道らの個展、多岐浩二による企画展をはじめとして、のちに自主ギャラリーを創設していく谷口雅(プリズム)、滝沢修(CAMP)らの個展、東京造形大や東京綜合写専の学生やワークショップの生徒などのグループ展など、様々なレベルの写真展が「シミズ画廊」で展開されていきました。

版画を中心としたギャラリー「ガレリア・フォト・グラフィカ」は、有楽町駅近くのガード脇にあるビルの一階にあった小さなギャラリーでした。自分自身の写真表現をシリアスに追及している若い写真家にとって、メーカー系ギャラリーでは、自分の作品発表の場としては考えにくいものでした。1974年、画廊オーナーの賛同もあり、安斎重男、山崎博、田村シゲル(彰英)の三人が一週間づつ写真展をおこないます。1975年には、島尾、谷口、潮田文、大田映徹の四人の写真展シリーズが構成され、1976年には、大田が単独で写真展を開催し、「ガレリア・フォト・グラフィカ」の写真展企画が終わりました。

メーカー系ギャラリー盛隆の時期、アマチュアカメラマンをターゲットに編集するカメラ雑誌、その時代にあって、若い写真家たちの動きは、写真界での評価は皆無に近かった1974年ごろ。新しい潮流が誕生しはじめる予兆があった。1976年に入って、次々とオープンしていく自主ギャラリーは、一部では注目されたものの、写真界の主流からみれば、社会的に拡がっていくというものではなく、閉塞した運動ではあった、といえるかも知れません。だが、後の写真の時代をつくっていく萌芽が、このあたりにあったことは明記しておくべきだと思います。


<日本の写真史1970年代>6

ニュー・ドキュメント

1970年代は、フォト・ジャーナリズムが変容する時代です。テレビという新しいメディアが強力に浸透し、世界潮流として、1971年には「ルック」誌が、1972年には「ライフ」誌が廃刊します。アメリカでは公民権運動、女性解放、性革命など、それまでの道徳観や思考体系が通用しない状況が生まれてきます。このような価値観の変容は、写真が公的、社会的な力を相対的に失い、写真家自身が、主体的な個人として、私的な観点から世界や現実を見るようになってきます。

たとえば須田一政(1940年生)は、1976年ごろ、「風姿花伝」と題した写真群を発表します。土田ヒロミ(1939年生)は、「俗神」と題した写真群を発表します。いずれも、土着の日本人像や現代人の深層を探っていきます。
従来の手法による報道ドキュメントではなく、写真家の内面と地域環境とを、私的な観点から見る作業をおこなっていきます。

ドキュメントの枠組みとしての背景に、日本固有の文化風土を置きます。アメリカナイズされる社会の表層に覆い隠されていくかのような固有風土と文化です。都市化していく生活様式のなかに取り残されたかのような、精神と人びとを浮き彫りにすることで、何かを喚起し訴える、写真家の作業なのです。カメラが向き合う風景は、ストリート・スナップではなく、正面からのポートレートや集合写真形式です。人間に出会い、人間と言葉を交わし、人間を直接的に知るということが前提の写真作業です。

写真家個人の視点が求められるようになった時期の、ドキュメントの方法です。写真が世界のトピックスを、有名性において記録してきたとすれば、この新しいドキュメントの方法は、地域の日常の光景を、無名性のなかに見出していこうとする手法だといえます。

※須田一政は、1940年東京生まれ、1962年東京綜合写真専門学校卒業後、翌年には「日本カメラ」月例コンテスト年度賞トップとなります。劇団「天井桟敷」の専属カメラマン(1967年〜1970年)を経て、写真作家活動を写真雑誌を発表媒体として展開していきます。当時の作品に「風姿花伝」、「無名の男女」(1978年)などがある。


初出:写真学校フォトハウス京都blog 2005.9.7.17〜2005.8.8
by nakagawa shigeo