日本写真の1970年代-ニューウエーブ-

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最新更新日 2018.10.22



 区分:カリキュラム理論編 科目:写真史・作家論


レッスン番号 053

i-photo school
--京都写真学校カリキュラム--

参考資料































写真史資料2005.7.8
Shigeo nakagawa

テーマ 日本写真の1970年代

―ニューウエーブ―

1970年代はシラケの時代と云われていますが、同時に日常性の回復を意味していたように思います。

<社会と個人が共存して政治的時代を生きる>という戦後の概念が遠ざかり、人間一人ひとりが自由に生きられるようになった時代です。1970年代は、思想と文化が次第に多様化していく時代でもありました。

1970年の出来事には、
日本万国博覧会開催、よど号事件、三島由紀夫事件、歩行者天国(銀座・新宿)・・・


写真界においては、石黒健治「広島・HIROSIMA NOW」や中平卓馬「来るべき言葉のために」などが出版されました。中平卓馬のブレボケ写真と既成の写真概念への疑問は、写真の伝達性(メッセージ性)を拒否し、写真の枠組みを解体しようとするものでした。


中平卓馬と季刊雑誌「provoke
中平の言説は、多くの若者の共感を呼びました。1968年創刊の季刊雑誌「provoke」は、副題として「思想のための挑発的資料」と銘打たれ、多木浩二、岡田隆彦、高梨豊、中平卓馬、それに森山大道が加わった、ある種の衝撃を伴った写真のムーブメントとなりました。「provoke」は、19698月に第三号を発行して終刊となりました。その後、単行本「まずたしからしさの世界をすてろ」を発刊(19703月)し、従来の写真表現を断罪しようとする意図が、作品とともに提示されました。

1970年代には、もう一つの試みとして、1960年代後半から起こったコンテンポラリー・フォトの潮流があります。写真の特徴は、事件もストーリーも希薄な、横位置の風景的画面のロングショット。この作画態度が世界的な流行となり、日本では<コンポラ写真>と呼ばれています。1970年に発表された浅井慎平「STREET PHOTOGRAPH」では、主題性や説明性や物語性は影をひそめ、単純に「岩と波と空と人」が写っているだけでした。

荒木経惟のメール・フォト&写真集「センチメンタルな旅」
1970年前後、メール・フォトを展開します。写真をゼロックス・コピーし黒のラシャ紙を表紙として赤糸でとじられた写真集です。ここでは、写真に関するメッセージの伝達の可能性を追求していました。1971年「センチメンタルな旅」を限定千部定価千円で自家出版します。妻陽子との新婚旅行を、日常的な眼で追うフォト・ダイアリーと云った気軽さがそこにはありました。東京発、京都から柳川への新婚旅行、荒木経惟の写真記録は、それまで見慣れていた写真の社会的光景を上回る衝撃を内含していました。私的な関係への私的なまなざしとでも云えばいいかと思います。

1971年はまた、篠山紀信はレオのカーニバルを写した「オレレ・オララ」でデビューします。
午腸茂雄は、写真集「日々」を出版し、北井一夫は写真集「三里塚・19691971」を出版します。
1972年には、森山大道「写真よさようなら」、東松照明「I am a King」が出版されます。
この間、1969年から1971年までに「季刊写真映像」が第10号まで発刊されます。

1973
年には、若い女性のアイドル写真が盛んに撮られるようになります。篠山紀信は大丸デパートで「スター106人展」を開催して、若い観客に好評を得ます。この展覧会では、大伸ばしのアイドル写真の前に立って記念撮影をする人もいたといいます。まさに「今の写真」という近親感が、従来の写真概念を変えてしまったと云えます。この年、沢渡朔は、「少女アリス」展を大丸で、「森の人形館 NADIA」展を和光で開催し好評を得ます。6月には西武美術館で山岸章二のコーディネートによる「ダイアン・アーバス写真展」が開催されています。

19749月、写真学校「WORKSHOP」が開校します。東松照明、細江英公、横須賀功光、森山大道、荒木経惟、深瀬昌久が講師となった個人塾の連合のような学校でした。季刊誌「WORKSHOP」を発行し、写真家志望の若者に新風をもたらしました。
19747月、国立近代美術館では「15人の写真家」展が開催されました。
15人の写真家名は、荒木経惟、北井一夫、沢渡朔、篠山紀信、高梨豊、田村シゲル、内藤正敏、中平卓馬、新倉高雄、橋本照高、深瀬昌久、森山大道、柳沢信、山田祐二、渡辺克己

1976年頃には、従前の手法による報道写真が、行き詰まり現象を起こしてきますが、一方で、新しいドキュメントの形が現れてきます。
土田ヒロミは「俗神」で、土着の日本人群像を浮上させていきます。
須田一政は「風姿花伝」で、現代人の深層を探っていきます。
藤原信也は「天寿国遍行」で、フレッシュな写真思想と文章で衝撃を与えてきます。
山崎博は「OBSERBATION6」で、太陽の軌跡をとらえます。

一方で1976年は、「WORKSHOP」に参加するメンバーが主体になって、自主ギャラリーが運営されはじめます。
「フォトギャラリー・プリズム」は、平木収、谷口雅ら13人のメンバーによる自主運営で、新大久保の一室でミニ・ギャラリーを発足させます。
「イメージ・ショップ、CAMP」は、新宿御苑近くのマンションの一室で、森山大道を中心に、北島敬三、倉田精二らが自主運営に加わります。
「フォトギャラリー、PUT」は、新宿のビル2階の一室で、東松照明の影響を受けた15人のメンバーによる自主運営をしていきます。

この3つの自主運営ギャラリーに集まった、当時はほとんど無名の若い写真家たちが、既成の写真集団と写真発表の場とは離れた地点で、一斉に活動しはじめたのでした。その後には、彼(彼女)らの中から、新しいイメージを携えた写真家や評論家が輩出されてきます。

197710月、神奈川県民ホールで「今日の写真展‘77」が開催されます。自主ギャラリーに集まった若い写真家、東京、静岡、沖縄などから48人の作品が展示され、新しい潮流と成りつつあった写真、<事物の伝達>という既成の写真コードを排除しようとするムーブメントが結集されたといえます。

19784月、東京・日本橋に写真専門ギャラリー「ツアイト・フォト・サロン」が開設されます。主宰者は石原悦郎。 

このように1970年代を概観してみると、初頭の「PROVOKE」による既成の写真イメージを解体していく作業があったことを記憶しておかなければならない。
年代的には、解体後の仕事として、荒木経惟による「センチメンタルな旅」、森山大道のフェティッシュな「モノ」への執着した眼、中平卓馬のラディカルな眼、篠山紀信のアイドル写真の展開などがあります。
ニュー・ドキュメントとしての土田ヒロミ、須田一政、藤原信也らの展開や、若い世代の「自主ギャラリー」ムーブメントなど、写真の表現手法が大きく変容する年代であったといえます。

    2005.7.4 shigeo nakagawa