写真の歴史-通史-14〜17


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最新更新日 2018.10.22


          写真の歴史-通史- 発明から1930年代

                          
2005.1.20〜2005.3.31 nakagawa shigeo


写真の歴史-通史-


<フォト・ジャーナリズム>

1914年7月、オーストリアがセルビアに宣戦布告することから、第一次世界大戦が勃発し、1918年11月、ドイツが連合国と休戦協定を調印することで終結します。死者1000万人、傷者2000万人、捕虜650万人ともいわれるこの大戦を終えた頃から、フォト・ジャーナリズムが顕著になってきます。

新聞紙上に写真が掲載された最初は、1897年「ニューヨーク・トリビューン」紙がマンハッタンのスラム街の実態をとらえた写真です。このハーフトーンの印刷技術の発明から四半世紀が過ぎた1925年、ドイツでエルマノックス小型カメラが売り出され、1928年、ライカが35ミリカメラを発売します。
小型カメラ・ライカの発売により、写真家の行動力は大幅に増大することになり、1920年代後半から1930年代に盛んになるフォト・ジャーナリズムにとって、最新・最高の道具となって使用され始めます。

写真を多用したグラフ雑誌が発行されるのは、ドイツです。
「ベルリナー・イルストリエルテ・ツァイトゥンク」誌では写真家ゾロモンやムンカッチ、「パシフィック・アンド・アトランティック」誌ではアイゼンシュタット、「ミュンヒナー・イルストリエルテ・プレッセ」誌ではマン、等々、小型カメラを使って活躍する写真家がドイツから輩出されて、時代の目撃者となってきます。
ドイツのグラフ誌の盛隆を見て、ヨーロッパの国々で同じようなスタイルの雑誌が発行されていくことになります。パリではブラッサイらを登用して「ヴュ」誌が創刊されます。

ハンガリー生まれのアンドレ・ケルテスは、1910年代初めにボックスカメラを買い、日常の風景や出来事を記録していました。1925年、ケルテスはパリに移り、ジャーナリストでありアヴァン・ギャルドのメンバーとして活躍します。1928年に発売されたライカを買い求め、「小さなハプニング」を撮っていきます。1936年にニューヨークへ渡った後、第二次世界大戦が勃発し、ニューヨークに留まることを余儀なくされてしまいます。

35ミリ判で36枚撮りの小型カメラ・ライカの発売は、交換レンズ群を備えており、さっとピント合わせができるファインダーを搭載していましたから、フォト・ジャーナリストの実用に耐えられる携帯カメラとして重宝されたといえます。このことは、撮影の現場を飛躍的に拡大していくことになりました。

当時のフォト・ジャーナリズムが求めていたものは、リアリズムです。一言でいえば客観的な視点の写真を求めていました。小型カメラでは、日常的にスナップ・ショットが撮られ、人間の一瞬の表情や動作を撮り込んでいくことを可能にしていきました。

写真の歴史-通史15-

<20世紀の概観>

19世紀のはじめに写真が発明されて以来、絵画と写真は密接な関係を持ってきました。また、冒険家や旅行家が遠くの風物を持ち帰ってくる異国の紹介や都市の記録をおこなってきましたし、肖像写真館にみられる商業写真などがあります。
20世紀の写真の歴史をまとめていくには、多様に発展してきた写真術をいくつかの系に分けてみたいと思います。とゆうのも、現在(2005.3)地点での写真を一定整理して、近未来の写真のあり様を考えたいと考えるからです。

この通史を書いてる目的は、写真学校に入学してくる人へのガイダンスとして使うためにあります。つまり入門書、教科書としての役割です。だからなるべく多くの項目を網羅し、写真の歴史の全体像がつかめるように配慮したいと考えています。ここに採用する写真家はごく一部ですし、ここでは系に分けますが、実際には、ジャンルはクロスしていますから一筋縄では括れないのですが、便宜的に分類しています。

20世紀の初頭のころ、ステーグリッツに代表される近代写真は、アート領域で写真が展開される系があります。
ステーグリッツをはじめ、エドワード・ウエストンやウオーカー・エヴァンス、アンセル・アダムス・・・といった系。
20世紀中盤に、ロバート・キャパ等を生み出すグラフ・ジャーナリズム、フォト・ジャーナリストの系。
肖像写真の流れの中からのファッション写真や広告写真の系。

前者、アート写真は20世紀後半には写真が美術館入りするようになります。
後者、ジャーナリズムは新聞・雑誌での報道を中心としてきますし、商品の爛熟とともに広告分野で写真が中心となってきます。
前者が、オリジナル中心に展開されるとすれば、後者は、マスメディアの中核装置として機能します。
また、写真家と呼ばれる存在には、マスメディアを発表の拠点に置く系と、写真集や美術館を発表の拠点とする系という見方もできます。

地域的に見ていくとすれば、写真が発明されたヨーロッパの流れがあります。ドイツではフォト・ジャーナリズムやバウハウス(1919年4月設立)教育から生み出される写真があり、また、パリを中心にファッション写真が生み出されます。
20世紀に入ると、ニューメディアの写真が、アメリカにおいて花をひらかせます。大きくは、ドキュメントの系とアートの系があり、アメリカの動向が世界の動向を促すような役割を果たすようになります。
ここに日本の写真史があるわけですが、ヨーロッパやアメリカの影響を受けながら、日本独自の方法を探ることになります。

この写真史-通史-では、このようになるべく単純な系にまとめて、概観していきたいと考えています。


※写真はステーグリッツは撮ったオキーフ



写真の歴史-通史16-

<アート・フォトの系譜>

20世紀前半の特徴は、写真の主導がヨーロッパからアメリカへと移り、アートとドキュメントに分岐していく写真の機能です。ここではアート・フォトの系譜を辿ってみたいと思います。

ステーグリッツは、写真の機能をその本質にたちもどり、カメラのメカニズムに表現の基調を求めます。都市の近辺の魅力ある素材を発見するスタイルを貫いていきまます。写真の美的機能とは、被写体の中に潜在している挑発力を引き出すことであり、言葉ではなく、視覚からくる感動を明確にしていくのです。

この視覚が呼ぶ感動を定着させる試みは、エドワード・ウエストンやアンセル・アダムスやイモージ・カニンガムやポール・ストランドといった写真家たちに受け継がれ、アメリカの近代写真の一つの方向を決定づけてくることになります。
1932年、サンフランシスコにおいて彼らは「F64グループ」を結成します。彼らの特徴は、写真家のまなざしを、都市や時代ではなく、自然へ向けていく姿勢をもって、作品を生み出していくことです。写真の機械としての眼と、写真家の眼との間の、共通性や差異を確認しながら、暗示的な精神作用を感じさせる写真群を生み出していくことになります。

人間が自然に対して本来持っていた感情や精神を、写真という機械の眼によって、自分の感情や精神をその中に注ぎ込んでいきます。写真は直接であり即物的です。この写真の機能を再発見し、感情や精神の核心に合流させていくのです。写真家たちは自然の神秘を垣間見せる世界へと誘っていくのです。

被写体には、貝殻や果実、草木などを、カメラレンズが描き出す質感を最大限に引き出していくのです。F64というのはカメラレンズの最大絞り値のことで、絞り込むことで質感を得ることができるのです。

ウエストンは、貝殻や果実の形態がもつ美しい生命感をとらえようとします。またアダムスは、ヨセミテ渓谷や「ヘルナンデスの月」といった自然風景を、精密かつ鮮明に写し撮っていきます。ストランドは、ロッキー山脈の巨大な樹木の根や岩石の裂け目などを鋭いまなざしで捉えます。カニンガムにおいては、花の蕾や女性の身体の中に、静かに脈打つ宇宙的な感情を写し撮っていきます。

現在の傾向のなかに、自然宇宙と人間の関係をみつめることが表面だってきていますが、彼ら写真家の作業は、その先駆的な視点をもっているようにもいえます。



※掲載写真はエドワード・ウエストンの貝殻




写真の歴史-通史17-

<ドキュメント・フォトの系譜>

ヨーロッパで始まり展開されてきた写真による記録は、19世紀末からアメリカにおいても始まってきました。写真による社会記録-ドキュメント-です。J・A・リース(1849-1914)は、1880年代ニューヨークのスラム街の存在を告発したフォト・ジャーナリストでしたし、L・ハイン(1874-1940)は、1900年代初めニューヨークのエリス島の移民収容所の実態を撮ったジャーナリストです。社会記録のドキュメントは、写真によって人々の良心を呼び起こし、社会を変革しようとの精神に基づいていました。この時期のアメリカのドキュメントは、写真で社会批判をするという精神(アメリカの社会的良心)に裏打ちされていたといえます。

1929年10月、株価の大暴落以後、世界恐慌が始まり、アメリカ経済は大不況に陥ります。ルーズベルト大統領は「ニューディール」政策をとって、社会改革や救済事業を行っていきます。こうしたなかで1935年、貧しい小作農の救済計画を予算削減案の枠から外したいとする政府に対して、報道写真をもって救済計画予算を維持しようとします。
経済学者ロイ・ストライカーは、農業安定局(FSA)を組織し、写真家集団を編成して各地の貧困農民地区に派遣します。

ドロシア・ラング、ウォーカー・エヴァンス、カール・マイダンス、アーサー・ロスタイン、ラッセル・リーといった若手の写真家たちが指名され、説得する写真を求めて、使命感に基づき3年間のプロジェクトが組まれました。1940年代にはウォーカー・エヴァンスと詩人ジェイムス・エイジーの共著「名高き人をほめたたえよう(Let Us Now Praise Famous Men)」(南部小作農の記録写真集)やドロシア・ラングと社会学者ポール・テイラーの共著「アメリカ集団移住・人間的混乱の記録」などが出版されます。
これら一連のプロジェクトのなかで<写真によって社会的良心を呼び起こす>という写真形式の方法が確立してきた、といえます。

W・エヴァンス(1903-1975)は、セントルイス生まれで1926年パリ留学します。ソルボンヌ大学の聴講生になりフランス文学を学び作家になることを夢見ます。その後ニューヨークへ戻り独学で写真を撮りはじめます。1935年にはFSAのプロジェクトに加わり南部の農民の惨状を記録します。その後、小型まカメラを使用して地下鉄の乗客や街を往来する通行人たちをスナップしたりします。1943年から「タイム」誌のスタッフ・ライター、1945年から「フォーチュン」誌のスタッフ・写真家として迎えられ、その後20年間編集に関わります。

※掲載写真はドロシア・ラング撮影による