<モード写真の成立とポストカード>
19世紀後半のパリには肖像写真館が乱立し、パリ市民は自分のポートレートを手にしました。
先の項でナダール写真館の成功にふれましたが、このナダールが、1886年には写真インタヴューを試み、写真と記事を雑誌に掲載したことが記されています。
また同時代、パリで活躍したエティエンヌ・カルジャーがいます。カルジャーは画家であり、劇作家でもありましたが、「ル・ブールヴァール」誌の編集をおこない、その傍らで肖像写真も撮っていました。
一般に肖像画および肖像写真の描写する方法は、室内装飾や衣装、芝居がかったポーズや表情で、人物を社会的タイプとして描きだすポートレートです。現在には、結婚式写真や子供の七五三記念写真などがありますが、その定型の基盤がここにみられます。ナダールやカルジャーは、この潮流に逆らって、舞台装置を作らない画面構成で個人の表出をめざしたものといえます。
ところで19世紀と20世紀をまたぐ時期をベルエポックともいいますが、このころパリ市民は新しい楽しみを発見していきます。たとえばファッションでは実用だけでなく、装飾性をより楽しめる服装を追い求めるようになります。それまで特権階級のものだったドレスやオートクチュールがより幅広く浸透して、流行現象が価値基準となります。
写真は、ポートレートや風景描写ではなく、モード・ファッションを写真に撮ることで、人々の目に触れ、相乗効果でイマージュが生成されてきます。
1900年前後に営業・商用写真を撮る「ルーランジェ・スタジオ」は、ファッション・フォトグラファーの集まりでした。ポートレートの世界から時代のモードを写真に撮って流行を促し、また流行ファッションを写真に撮る、という構図をつくりだします。
1888年に手軽なコダックカメラが発売されて、写真を撮ることが特権的な環境から大衆的な環境に移行してきます。また写真製版技術も可能になり、写真が印刷物として流通するようになってきます。
写真発明直後から、すでにエロス写真が撮られていましたし、ナダール写真館では、画家の依頼でヌード写真が撮られました。エロス写真あるいはヌード写真は、芸術目的であるとの大義名分をもって流布されます。男性の欲望をかきたてるようにアーティスティックなポーズをとったヌード写真が、市民権を得ていきます。
20世紀にはいりますと、写真による絵葉書ブームと呼応するように、洒落たヌードの絵葉書(ポストカード)が人気を呼びます。パリのスタジオには、初々しい少女がヌード写真に撮られることを目的で現れてきます。パリの男性たち華となるキキもその一人です。写真が商用に使われはじめる、現代のコマーシャル・フォトグラファーの原形が、20世紀初頭のころ、ここフランスはパリにみられます。
写真は20世紀に入って、印刷技術の実用化に伴い、ジャーナリズムなどのメディア領域で、ファッション流行現象などを生み出していく装置として機能していく道具となります。
写真の歴史-通史12-
<20世紀初頭のパリ・アジェ>
20世紀初頭のパリには、ウジェーヌ・アジェ(Eugene Atget
1856〜1927)が孤独と貧困のなか、黙々とパリの街を撮影していました。アジェが写真を撮り始めるのは1898年といいます。すでに40歳を超えてから、すでに旧式の8×10インチ判の木製カメラを携えて、約8千枚のガラス乾板に収めていきます。
アジェは船乗り、地方回りの役者、そして画家をめざしますが成功せず、写真に転じます。彼はモンパルナスのアパートのドアに「芸術のための資料(Documents
pour
Artistes)」と書いた小さな看板を掲げ、パリと近郊の街角や建物を撮ります。そしてカフェやアトリエを回って撮った写真を、絵描きの下絵として売るのです。
アジェがパリの街を、重装備の暗箱(カメラ)を担いで歩き回っていた頃の、パリ写真界の中心はゴム印画法を用いピクトリアリズム写真でした。
アジェの被写体は街頭で働く人々、古い建物や店先、キャバレーやサーカスの看板、公園や広場、室内は貴族のものから市民のものまで、娼婦や屑屋、目にすることができるパリの風景全てでした。しかし撮影の被写体はエッフェル塔やメトロ(新しいパリ)には目を当てず、パリの古い風物ばかりでした。
アジェの写真撮影は第一次世界大戦は勃発する1914年まで続きますが、それ以降はもっぱらそれまで撮り溜めたネガをプリントして売却することに専念していきます。
アジェの写真が他者によって初めて紹介されるのが1926年です。隣人のマン・レイがアジェの写真に興味を見出し「ラ・レボリュシオン・シュルレアリスト」誌に4枚を掲載します。アジェはこのとき名前の掲載を断ったといいます。
1925年、マン・レイの助手をしていたベレニス・アボットとアジェとの交友が始まります。1927年アボットはスタジオを作りアジェを撮影し、後日その写真を携えてジェを訪ねますが、すでにアジェは他界していました。
アジェの写真が紹介されるのは1964年です。アボットが残されたアジェのガラス乾板をアメリカへ持ち帰っていて、この年1964年に「The world of
Atoget」が出版されるのです。ちなみに現在、アジェの原版はMOMAに収蔵されています。
写真の歴史-通史13-
<20世紀初頭のニューヨーク>
1902年ニューヨークでは、アルフレッド・ステーグリッツの主唱によって「フォトセセッション(写真分離派)」が結成されます。ここに、隆盛を極めていたピクトリアリズムにとどめを刺し、近代写真への道を切り開くことになります。
絵のような写真を目指してきた美学に代わって、現実を直接に見つめる、とゆう姿勢です。写真の現場があり、撮られたネガには手を加えずに引き伸ばす「ストレート・プリント」が提唱されます。このフォトセセッションは1910年前後まで続けられます。
ステーグリッツは1890年、ドイツ留学からニューヨークに戻ってきます。彼は、ハンド・カメラでニューヨークの街を撮ります。ニューヨークの街の景観、夜景や雪の日の情景などです。それまで写真撮影の対象とはなりにくかった場面をスナップショットしていきます。フォトセセッションに集まった写真家たちも「ストレート・プリント」を追求していきます。
カメラやレンズは機械です。この機械がとらえた外の像をストレートにプリントして定着させる。このことを写真の特質であり独自性だとして前面に打ち出す考え方が、その後の写真の展開に大きな影響を及ぼすことになります。
1902年のフォトセセッションを結成したのち、翌年1903年1月、機関誌「カメラワーク」を創刊します。「カメラワーク」誌は季刊で発行され1917年50号まで刊行されます。
1905年、ステーグリッツはスタイケンが棲んでいた部屋の隣に小さなギャラリーを開設します。その場所は、ニューヨーク五番街291番地。この小さなギャラリーを、「291ギャラリー」と呼んでいます。近代アメリカの写真や美術ムーブメントの拠点となる場所です。
291ギャラリーは狭い二部屋のスペースでした。そこはアメリカ・ニューヨークです。フォトセセッションのメンバーのほか、ピクトリアル写真のドマシーやピュヨーらの写真も展示され、ロダンやピカソやブラックら、ヨーロッパの前衛美術家の作品も紹介されていきます。G・オキーフがまだ学生の頃にステーグリッツに出会うのも、この291ギャラリーです。
ニューヨークのステーグリッツは、パリのアジェと比較して語られることがままあります。アジェが古きパリを黙々と記録したとすれば、ステーグリッツは、新しい躍動するニューヨークの姿を写真ムーブメントと共にとらえていきます。
旧式の大型カメラを携えたアジェにたいして、小型ハンドカメラでスナップショットを編み出すステーグリッツです。
ステーグリッツが近代写真を開いていく鍵は、写真を心的状態の象徴表現とするような態度にあります。またG・オキーフのポートレートを私的に撮影していく態度にも、近現代の写真動向の先駆をなすものだととらえられます。
※写真はステーグリッツのセルフポートレート。