写真の歴史-通史-07〜13

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最新更新日 2018.10.15


          写真の歴史-通史- 発明から1930年代

                          
2005.1.20〜2005.3.31 nakagawa shigeo


写真の歴史-通史7-


<旅行写真>

作家マキシム・デユ・カンは1849年、友人のギュスターヴ・フローベルを誘ってエジプトへの旅に出かけました。デユ・カンは旅の途中でフローベルと別れますが、エジプト、シリア、パレスチナを旅行して帰国しました。この旅行成果を125点からなる写真集を1852年に刊行しました。

イギリス人でフランスに住んでいた考古学者ジョン・バークレー・グリーンは、1854年から56年にかけてナイル川流域の古代エジプト遺跡を調査し、写真記録を作りました。

写真術を携えて旅に出て遠い地域の各地をめぐり、写真集にまとめるということが1850年代におこなわれます。
18世紀末にナポレオンがエジプトに遠征しましたが、そのときには考古学者や銅版画家を伴っていました。19世紀にはパリを中心とする文化は、考古学が盛んになり古代文明の遺跡を探訪するようになります。画家や作家もエキゾチックな地を求めて、旅することを試みます。デユ・カンやグリーンの例は、その一例です。

写真術は、ダゲレオタイプでは対応しきれないのですが、当時にはフィルム「ロウ引き紙ネガ」が開発されていて、これを携えての冒険旅行を敢行します。
旅の記録はパリの市民には目新しい未知の風景でありました。写真家は撮った写真をパリに持ち帰ります。写真は旅の代理体験をさせてくれる代物となって、あらたな記憶の装置を作り出していきます。

ここでは写真の歴史を概観していますが、写真術は、19世紀半ばの西欧文化の成熟のなかで誕生し、以後、文化を創る装置として密接な関係を持ってきます。その文化とは、その時代の人々のニーズであり欲求・欲望であり、見ること知ることを満たしていく装置であったわけです。

1839年写真発明以後、この通史では、3つの展開系を示しています。肖像写真の系、芸術としての写真の系、それに旅行写真の系です。
現在でいえば、営業写真館、自己表現手段としての写真、報道等のドキュメント、というジャンルに分けられるかと思います。
デジタルカメラの出現による現在の状況に引き当ててイメージしますと、19世紀半ばの写真の動向には、今に引き当てる系の萌芽が見て取れます。もちろんこの論では、歴史をひもときながら現在を見る視点を確保していきたいと思っています。


写真の歴史-通史8-


<ピクトリアリズム写真の萌芽>

1850年代後半から、広く大衆に受け入れられていた写真がありました。伝統的な絵画の主題や構図をなぞっていく芸術写真です。先に写真の系として、肖像写真や旅先での記録写真の例をみましが、それとは別に、絵画的写真は芸術家とゆう称号を欲した写真を扱う人々の内発的な欲求から生まれてきたものだと思えます。この芸術写真がまねた絵画のシーンは、当時の通俗的な絵画のテーマに満ちていました。写真を芸術のレベルに高めようとした写真家の野心でもあったのでしょう。(これが芸術か否かは後にも論議されますし、この一連の写真は絵画の亜流として位置づけられます)

この芸術写真は、凝った照明や舞台のような演出をする写真。小道具や衣装を使って撮影し、このネガを合成して一枚の絵画のような写真を作りだしました。でも、当時の人々には気に入られ受け入れられた写真であったのです。
当時の代表的な写真家、ヘンリ・ピーチ・ロビンソンの合成印画(アルビュメント・プリント)の作品は、批評はともあれ人々に受け入れられましたし、オスカー・G・レインダーの作品「人生二つの道」は、ヴィクトリア女王に買い上げられたといいます。

この絵画的芸術写真に対して、イギリス人ピーター・ヘンリー・エマーソンは、1889年「芸術を学ぶ人のための自然主義写真」(Naturalistic Photography for Students of Art)を著し、「芸術写真」を非難し、写真独自の美学と芸術性を主張します。
エマーソンは、バルビゾン派絵画の自然主義観を優れたものと位置づけて、芸術とは人間の目に映る自然の姿をなぞることに意義がある、としました。このような主張は、それまでの「芸術写真」が取り入れてきた枠組みを壊してしまうことになります。
エマソンによって提唱された自然主義写真は、彼により実際の写真撮影の方法をも説いていて「焦点理論」といっています。つまり人間の目は、レンズが全てに均一に焦点を合わせるのとは違って、ある特定のものに焦点を当てていて周辺はボケている、だから写真撮影のときには、これに習うべきである、としました。

もちろん賛否両論があるわけですが、写真表現の枠組みを転換させていくことになります。この自然主義写真の枠をピクトリアリズム写真と呼んでいます。
そのピクトリアリズム写真の萌芽がここに見られます。しかし当時、実際の写真はソフトフォーカスによる描写を生み出すことになり、1891年にエマソンは「自然主義写真の死」という冊子を出版して、みずからの主張を捨ててしまいます。



写真の歴史-通史9-


<ピクトリアリズム写真の展開>

エマーソンによって提唱された自然主義写真は、1853年に設立された王立写真協会のメンバーに大きな影響を与えます。1890年代の初めには、15名の王立写真協会のメンバーによって「真実、美、想像」を表す三つの環をシンボルとする「リンクド・リング(The Salon of Linked Ring)」が結成されます。
リンクド・リングの結成と、年に一度開催する「サロン」写真展によって時の写真の中心になっていきます。「サロン」はメンバー写真家自身により審査・運営されていました。
ここで写真は、科学的、技術的な研究から芸術としての写真追求に移ってきました。

当時の先行論点は、写真が芸術であるか否かということでした。それが写真は芸術であると規定しますから、パリやウイーンにいた芸術写真家たちにも歓迎されて、世界的な(とはいえヨーロッパ中心)潮流となります。1891年にウイーン・カメラクラブ、1894年にパリ・フォトクラブ、などの新しい団体が結成されていきます。
パリ・フォトクラブでは、ロベール・ドマシー(1859-1936)、コンスタン・ピュヨー(1857-1953)などが中心メンバーとなり、ロンドンの動きとリンクしていきます。
このリンクド・リングに賛同する写真家たち、オーストラリアにはハインリヒ・キューン(1866-1944)、アメリカにはアルフレッド・ステーグリッツ(1864-1946)やエドワード・スタイケン(1879-1973)らがいました。

ロベール・ドマシーは写真家であると同時に理論的指導者でもありました。その当時にはもう古い技法とされていたゴム印画法やカーボン印画法などの写真制作技法を復活させ、芸術写真家にとって重要な表現テクニックだと主張しました。

リンクド・リングのムーブメントは、アート・フォトグラフィー(芸術写真)の流れを創っていきます。
このムーブメントを写真における「セセッショニズム(分離派)」とも呼んでいます。ウイーン世紀末美術の分離派になぞっての呼称でもあります。ここで写真が分離しようとしたことがあります。科学の応用として写真を強調する捉え方と、増加するアマチュア層のプリント技術の質の低下です。質の低下は、1888年に百枚連続撮影可能な「ザ・コダック」カメラが発売され、カメラマン人口が急速に増えてきたことが背景にもあります。

ゴム印画法等で制作された作品には、このとき失われようとしていた「美」の幻影があり、あたかも手工芸品のように繊細な技術によって写真を作り上げていくのでした。

※掲載写真は、ドマシーのピグメント写真作品です。

写真の歴史-通史10-

<ストレート・フォトグラフィー>

写真の分離派運動を推進した写真家にアルフレッド・ステーグリッツ(1864-1946)がいます。ステーグリッツは1890年、ベルリン留学からアメリカへ帰ってきます。そのアメリカはニューヨークで、ステーグリッツが見る光景は、メガロポリス化していく都市の姿だったといえます。

写真家の作品を創りだすイメージが何に由来するか、というのは興味あることです。習うとゆうこと学習するとゆうことがありますが、既存のイメージを心のどこかに偲ばせて、そのイメージを模倣するところから出発するように思います。ステーグリッツが遭遇するニューヨークは、彼の心に仕舞いこまれていた既存イメージのパターンには当てはまらない光景だったのではなかったかと思われます。

1892年、ステーグリッツはハンドカメラを手にしてニューヨークの街を撮ります。被写体に向かう視点は、そこに自己の既存イメージとクロスする風景、おおむね新旧混在の光景でした。都市を撮るステーグリッツは、ピクトリアリズムを超えてストレート・フォトグラフィー(純粋写真)を実践します。その後スナップショットと呼ばれるようになる写真の撮り方の原形です。

ピクトリアリズムの方法には、一枚の写真を芸術家の表現物とする精神性があります。この方法はまた、自分の内的な世界観と融合させていく方法論ともいえます。1889年エマーソンが自然主義写真を提唱しましたが、その主張は、ヒトの眼に映る自然の効果をなぞることに意義がある、ということでした。
ステーグリッツの手法は、この主張を受け入れた枠組みで撮られていくことになります。撮影の現場は、自然風景とはいえニューヨークの街角をハンドカメラによって、躍動感のある光景を撮ることになります。

1902年、ステーグリッツの提唱によってニューヨークに、写真分離派(フォトセセッション)が結成されます。この写真分離派は、伝統的様式から分離するとゆうウイーンを中心に生じた芸術運動「分離派」の主張を、写真表現においてはステーグリッツが自覚的に取り入れたといえます。
ステーグリッツの呼びかけによって写真分離派が結成され、翌年の1903年には機関誌「カメラ・ワーク」が発行されます。
この写真分離派には、エドワード・スタイケンやアルビン・L・コーバン(1882-1966)など、20世紀アメリカ写真の基礎を築いていくメンバーが参加します。
ステーグリッツはまた、1910年代にはマチスやピカソ等のモダンアートの紹介活動をおこなっていきます。

※掲載写真はステーグリッツ「The Terminal」1892年作


写真の歴史-通史11-

<モード写真の成立とポストカード>

19世紀後半のパリには肖像写真館が乱立し、パリ市民は自分のポートレートを手にしました。
先の項でナダール写真館の成功にふれましたが、このナダールが、1886年には写真インタヴューを試み、写真と記事を雑誌に掲載したことが記されています。
また同時代、パリで活躍したエティエンヌ・カルジャーがいます。カルジャーは画家であり、劇作家でもありましたが、「ル・ブールヴァール」誌の編集をおこない、その傍らで肖像写真も撮っていました。

一般に肖像画および肖像写真の描写する方法は、室内装飾や衣装、芝居がかったポーズや表情で、人物を社会的タイプとして描きだすポートレートです。現在には、結婚式写真や子供の七五三記念写真などがありますが、その定型の基盤がここにみられます。ナダールやカルジャーは、この潮流に逆らって、舞台装置を作らない画面構成で個人の表出をめざしたものといえます。

ところで19世紀と20世紀をまたぐ時期をベルエポックともいいますが、このころパリ市民は新しい楽しみを発見していきます。たとえばファッションでは実用だけでなく、装飾性をより楽しめる服装を追い求めるようになります。それまで特権階級のものだったドレスやオートクチュールがより幅広く浸透して、流行現象が価値基準となります。
写真は、ポートレートや風景描写ではなく、モード・ファッションを写真に撮ることで、人々の目に触れ、相乗効果でイマージュが生成されてきます。
1900年前後に営業・商用写真を撮る「ルーランジェ・スタジオ」は、ファッション・フォトグラファーの集まりでした。ポートレートの世界から時代のモードを写真に撮って流行を促し、また流行ファッションを写真に撮る、という構図をつくりだします。

1888年に手軽なコダックカメラが発売されて、写真を撮ることが特権的な環境から大衆的な環境に移行してきます。また写真製版技術も可能になり、写真が印刷物として流通するようになってきます。
写真発明直後から、すでにエロス写真が撮られていましたし、ナダール写真館では、画家の依頼でヌード写真が撮られました。エロス写真あるいはヌード写真は、芸術目的であるとの大義名分をもって流布されます。男性の欲望をかきたてるようにアーティスティックなポーズをとったヌード写真が、市民権を得ていきます。

20世紀にはいりますと、写真による絵葉書ブームと呼応するように、洒落たヌードの絵葉書(ポストカード)が人気を呼びます。パリのスタジオには、初々しい少女がヌード写真に撮られることを目的で現れてきます。パリの男性たち華となるキキもその一人です。写真が商用に使われはじめる、現代のコマーシャル・フォトグラファーの原形が、20世紀初頭のころ、ここフランスはパリにみられます。

写真は20世紀に入って、印刷技術の実用化に伴い、ジャーナリズムなどのメディア領域で、ファッション流行現象などを生み出していく装置として機能していく道具となります。

写真の歴史-通史12-


<20世紀初頭のパリ・アジェ>

20世紀初頭のパリには、ウジェーヌ・アジェ(Eugene Atget 1856〜1927)が孤独と貧困のなか、黙々とパリの街を撮影していました。アジェが写真を撮り始めるのは1898年といいます。すでに40歳を超えてから、すでに旧式の8×10インチ判の木製カメラを携えて、約8千枚のガラス乾板に収めていきます。
アジェは船乗り、地方回りの役者、そして画家をめざしますが成功せず、写真に転じます。彼はモンパルナスのアパートのドアに「芸術のための資料(Documents pour Artistes)」と書いた小さな看板を掲げ、パリと近郊の街角や建物を撮ります。そしてカフェやアトリエを回って撮った写真を、絵描きの下絵として売るのです。

アジェがパリの街を、重装備の暗箱(カメラ)を担いで歩き回っていた頃の、パリ写真界の中心はゴム印画法を用いピクトリアリズム写真でした。

アジェの被写体は街頭で働く人々、古い建物や店先、キャバレーやサーカスの看板、公園や広場、室内は貴族のものから市民のものまで、娼婦や屑屋、目にすることができるパリの風景全てでした。しかし撮影の被写体はエッフェル塔やメトロ(新しいパリ)には目を当てず、パリの古い風物ばかりでした。

アジェの写真撮影は第一次世界大戦は勃発する1914年まで続きますが、それ以降はもっぱらそれまで撮り溜めたネガをプリントして売却することに専念していきます。
アジェの写真が他者によって初めて紹介されるのが1926年です。隣人のマン・レイがアジェの写真に興味を見出し「ラ・レボリュシオン・シュルレアリスト」誌に4枚を掲載します。アジェはこのとき名前の掲載を断ったといいます。
1925年、マン・レイの助手をしていたベレニス・アボットとアジェとの交友が始まります。1927年アボットはスタジオを作りアジェを撮影し、後日その写真を携えてジェを訪ねますが、すでにアジェは他界していました。

アジェの写真が紹介されるのは1964年です。アボットが残されたアジェのガラス乾板をアメリカへ持ち帰っていて、この年1964年に「The world of Atoget」が出版されるのです。ちなみに現在、アジェの原版はMOMAに収蔵されています。

写真の歴史-通史13-


<20世紀初頭のニューヨーク>

1902年ニューヨークでは、アルフレッド・ステーグリッツの主唱によって「フォトセセッション(写真分離派)」が結成されます。ここに、隆盛を極めていたピクトリアリズムにとどめを刺し、近代写真への道を切り開くことになります。
絵のような写真を目指してきた美学に代わって、現実を直接に見つめる、とゆう姿勢です。写真の現場があり、撮られたネガには手を加えずに引き伸ばす「ストレート・プリント」が提唱されます。このフォトセセッションは1910年前後まで続けられます。

ステーグリッツは1890年、ドイツ留学からニューヨークに戻ってきます。彼は、ハンド・カメラでニューヨークの街を撮ります。ニューヨークの街の景観、夜景や雪の日の情景などです。それまで写真撮影の対象とはなりにくかった場面をスナップショットしていきます。フォトセセッションに集まった写真家たちも「ストレート・プリント」を追求していきます。
カメラやレンズは機械です。この機械がとらえた外の像をストレートにプリントして定着させる。このことを写真の特質であり独自性だとして前面に打ち出す考え方が、その後の写真の展開に大きな影響を及ぼすことになります。

1902年のフォトセセッションを結成したのち、翌年1903年1月、機関誌「カメラワーク」を創刊します。「カメラワーク」誌は季刊で発行され1917年50号まで刊行されます。
1905年、ステーグリッツはスタイケンが棲んでいた部屋の隣に小さなギャラリーを開設します。その場所は、ニューヨーク五番街291番地。この小さなギャラリーを、「291ギャラリー」と呼んでいます。近代アメリカの写真や美術ムーブメントの拠点となる場所です。

291ギャラリーは狭い二部屋のスペースでした。そこはアメリカ・ニューヨークです。フォトセセッションのメンバーのほか、ピクトリアル写真のドマシーやピュヨーらの写真も展示され、ロダンやピカソやブラックら、ヨーロッパの前衛美術家の作品も紹介されていきます。G・オキーフがまだ学生の頃にステーグリッツに出会うのも、この291ギャラリーです。

ニューヨークのステーグリッツは、パリのアジェと比較して語られることがままあります。アジェが古きパリを黙々と記録したとすれば、ステーグリッツは、新しい躍動するニューヨークの姿を写真ムーブメントと共にとらえていきます。
旧式の大型カメラを携えたアジェにたいして、小型ハンドカメラでスナップショットを編み出すステーグリッツです。
ステーグリッツが近代写真を開いていく鍵は、写真を心的状態の象徴表現とするような態度にあります。またG・オキーフのポートレートを私的に撮影していく態度にも、近現代の写真動向の先駆をなすものだととらえられます。

※写真はステーグリッツのセルフポートレート。