写真の歴史-通史-01〜06

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最新更新日 2018.10.15


          写真の歴史-通史- 発明から1930年代

                          2005.1.20〜2005.3.31 nakagawa shigeo

写真の歴史-通史1-

1839年、フランスで公開された写真術は、その後165年を経て現在にいたっています。ここ数年には、携帯電話のカメラ機能がめざましく拡大してきています。写真の現在地点は、これまでの165年の写真史とは、写真の在り方が大きく変容していくターニングポイントになる様相を呈しているようです。
このような現状を見つめて、改めて「写真とは何か」ということを捉えたいと思います。

2005年の現在において、写真とは何か、ということの理解、
あるいは写真の歴史を見る、ということは何を意味するのか、
といったようなことを考えていくことが必要だと思います。
カメラの機能が多様化してだれもが写真家になれる時代です。
そういう時代だからこそ、写真家であることの条件とは?という設問も必要なことと思われます。

写真術は、フランスのダゲールによって発明されたとされています。
その当時の写真術を研究した人たちは、科学者でした。
現代のように、写真を芸術として、あるいはドキュメンタリーとして考えるということではなかった。
その後から現代には、自己表現の手段として写真を捉えるようになってきました。
アートの様態が変容してきたように写真もまた、内容が変容してきました。
この変容の過程を、ここではまとめていきたいと考えています。

写真術発明の当時、ダゲールのほかに、ニエプス、タルボット、バイヤールといった研究家がいました。
現代流にいえば、新規技術開発にしのぎを削って、いち早く特許を申請する、というようなことでしょうか。
ということで、パリにて研究していたダゲールが特許権を取得したということです。

写真をつくる道具としてのカメラ、感光材料の発達史をみますと、
すでにカメラの原型は出来上がっていて、感光材料の開発にしのぎを削ったんですね。
技術開発内容の詳細は別項にしますが、19世紀中頃の科学・化学技術レベルにおいて、写真術(感光材料)が開発されたのです。
写真術、つまり外界の光景を絵具を使わずに定着させることが可能になったのです。(


写真の歴史-通史2-

写真の歴史を語るとき、絵画美術の歴史的共存が引き合いにだされます。
写真が発明された19世紀中庸は、パリを中心とする絵画世界では後期印象派の時代です。
絵画の下絵としてスケッチ代わりに写真を使うこととか、肖像画から肖像写真への移行などです。
絵描さんの作業・仕事を代行するようになってきます。

写真の使われ方としては、肖像写真を撮ってもらう写真館が乱立してきます。
パリを中心とする市民の意識のなかに、肖像画より廉価で簡便な装置「写真」でわが姿を残す、ことが流行します。
また、まだ見たことのない風景を写真に撮ってきて、公開するとゆうこともおこなわれました。

1839年、写真術が公表されるやいなや、その1時間後にはパリ中の眼鏡店に大勢の客がつめかけて、撮影用機材を予約注文する光景が見られたといいます。(※1)

自分を見つめる鏡としての写真のあり方と、まだ見ぬ世界への好奇心の充足です。
写真が現実をありのままに複写する、少なくとも目の前に現存した物が撮られているという現実感が、写真への信頼、密着感につながってきたのだと思います。
写真の出現は、絵画世界の変容を促しますし、市民の欲望を充足させる役割を担います。

一方で写真は、絵画に迫ろうとします。
ピクトリアリズムからモダニズムへいたる過程には、絵画のように描く手法がとられます。

写真発明者ダゲールの写真技法は、銅板に銀メッキを施し、この板にヨウ化銀を塗ることで感光性を持たせて、撮影後、水銀蒸気で現像するというものです。これを「ダゲレオタイプ」と命名しています。
このダゲレオタイプ技法が特許を得るのですが、この技法は複製ができません。
イギリスのタルボットは、独自に写真術の研究を続けていて、1841年には紙のネガから焼き増しができる写真術(ネガ・ポジ法)を完成させました。この技法には、タルボット自身が、カロタイプと命名しています。

ちなみに最初の写真とされているのは、ニエプスが撮った「窓からの眺め」1826年です。

※1:NHK市民大学テキスト・1989年写真表現の150年(美術評論家伊藤俊治・著)による


写真の歴史-通史3-


<写真術を発明した四人の人物について>

1839年、フランスはパリにおいてダゲールが写真術を発明したことになっていますが、当時、四人の人物が写真術を発明(考)しています。
その四人の写真術開発者は、次の人物です。


・ニエプス(フランス、1765〜1833)
・ダゲール(フランス、1787〜1851)
・タルボット(イギリス、1800〜1877)
・バイヤール(フランス、1801〜1887)

四人の発明した技術は、それぞれにタイプの違った「写真」でした。
ただ同一点は、カメラ・オブスキュラを使って画像を自動的に作り出すことでした。
四人のうち三人がフランスで、一人がイギリスで発明しました。
写真の発明は、科学的条件、社会的条件、それに人の心理的条件が整ってきたときに、必然的に生まれてきたうようにとらえられます。
この必然は写真に限らず、たとえば現代の例なら、コンピューターの発明などにも当てはめることができるでしょう。

写真発明の科学的、社会的、心理的条件を整理すれば次のようにいえます。
光学的には、レンズやカメラ・オブsキュラの性能の向上。
化学的には、銀塩が光に当たって黒化することの発見。
社会的には、パリを中心に中間市民階級が形成されてきた。
知覚的には、人間の空間知覚の変化。

ここで注目したいのが、イギリスで発明するタルボットです。
タルボットは1844年に写真集「自然の鉛筆」を発刊します。

タルボットは、自ら発明した方法(カロタイ)で、写真を撮ってみて、
写真とは、何でもカメラの前にあるモノを全て写してしまうことに気づきます。
ヒトの視覚のように何かを強調したり省略したりするのではないことを知ります。
見えるものの全てを記録してしまうことを発見するのです。

タルボットの写真術は、視覚の発見にもつながってきます。
写真つは、意識できる意味を抜きにして成り立つ<イメージ>なのです。
(対置としての絵画は、意識できる意味を込めていきます)
つまり、撮影者の意識に関係なくカメラの前にあるモノが写ってしまうことです。

タルボットは、自分の思いのモノを撮っていきますが、
妻や娘といった家族にもカメラを向けていきます。
このことは、タルボットにとっての写真術が、
プライベートな装置として使われていたことです。
写真家あるいは作家としての作品を考えていくとき、
このタルボットにその資質が芽生えていたと見ることができると考えています。
この意味で、最初の写真家だったといえるかも知れません。
(写真はおおむねその目的を、社会的に外から与えられた実践として行為されます)

写真の歴史-通史4-

<肖像写真>

写真の発明により1841年にはパリに最初のポートレートスタジオが誕生しました。
画家からは、ヌード写真を撮ってほしいとの依頼が殺到したとも、いいます。
これは写真を絵画の下絵のためのデッサンの変わりに使用するためにです。
1852年には、フランスはナポレオン三世による第二帝政となりますが、この時代はブルジュワジー層が支配者となっていく時代でもありました。

写真館は、パリの新しい風俗となり、大量の肖像写真が生み出されていきます。
1860年代初めに、パリには数千人の職業写真人がいたといわれています。
新興市民層はこの写真を絵画に変わって受け入れていきます。
自分の写った写真を所有することでの自己確認が起こってくるのです。
ここには、現代の人物写真(肖像写真)ポートレートの原型がみいだせます。

この肖像写真家のなかでもナダール(nadar)の仕事をあげてみます。
ナダールは1853年、パリのサン・ラザール通りに写真館「アトリエ・ナダール」を開きます。
ナダールのアトリエは、パリの芸術家や作家たちのたまり場となりました。
ナダールの撮る肖像写真は、気心知れた人物をそれぞれの個性にあわせて視覚的に表現していきます。
背景や小道具を最小限に抑えていて、被写体人物の思想や性格にまで入っていきます。

1870年、ナダールは有名人の肖像写真を集めた写真集「現代人の画廊」を出版します。
画家のアングルやドラクロア、音楽家ワーグナー、詩人ボードレール、文学者ユーゴーなど・・
当時の人気肖像写真は背景や装飾や衣装などで被写体の地位や身分を決定し、
芝居がかったポーズや表情をつくっていく社会的なタイプを写し出す肖像写真でした。
ナダールの肖像写真は、これに逆らいむしろ「個人」の性格がでてくるように撮られたといえるかと思います。

このようにみると、すでに個人と社会的位置ということが見えてきます。
現代の営業写真館が定式にしたがって撮るポートレートと、
写真家が意識して被写体の個性を引き出そうとするポートレートです。

またナダールは、有名人を撮ることで彼自身も有名人になっていきます。
このようなスター輩出の機能も持ち合わせる時代がその頃には見出せます。
1874年に印象派第一回展が、ナダール・アトリエにて開催されたことを記しておきます。



写真の歴史-通史5-

<肖像写真-2->

1850年代の後半から1870年代の中頃までの肖像写真家ナダール(フランス)をとりあげましたが、イギリスにはキャメロン(cameron)がいます。

キャメロンは、引退した判事の妻という上流階級に属していて48才から写真を撮り始めたといいます。
ナダールは職業写真家として時の大家を撮影しましたが、キャメロンは自分のまわりの親密な人物を撮っていきます。
彼女は自分のネガを用意して撮影し、みずから暗室作業をやっていきました。
自分の表現とゆう側面ではナダールと変わらないとはいえ、みずからの想いに基づいてイメージをつくりあげることになります。
その手法には、商売用スタジオ撮影のような機械的な作業に煩わされずに、自由気ままに写真をつくることが出来る環境があったと思います。
キャメロンの写真は写真表現というレベルでは、今にもつながるような内面描写が顕著だったといえるかと思います。

現代では写真のテーマを、自己の欲望、欲求に基づいて、自己の内面を描写することに向けられています。
写真の歴史をひもといていきますと、遠くのものを近くに引き寄せることの手段として写真が撮られてきます。
内面描写は写真表現に先立って、文学や心理学が先行してきますが、写真の現在、パーソナルドキュメントの原形がキャメロンの写真には認められると思います。
写真をつくることが絵画や舞台の形式模倣を主流としていた時代にあって、キャメロンが個人的関係において写真を撮り、キャメロン自身の表現として工夫を凝らした手法は評価していいことだと思います。

写真表現を考えるとき、職業写真家と非職業写真家のありかたを考えています。
写真を撮って経済価値を付加していくことや、経済社会のニーズによって技術者カメラマンとして写真を撮影し対価を得ることを、職業写真家とボクはいっています。
でもそうではない写真家のありかたがあってもよい、非職業写真家。
世ではアマチュアカメラマンと呼称していますが、そうではない分類法です。

科学者が好奇心に駆られて写真術を発明してきたことから、写真家になった過程があります。
写真を撮ることで職業写真家として存在してくること、今に至る過程です。
この過程に自分を乗せることに目標を置いて写真行為をやっていくとゆうことなのですが、かならずしもこれが唯一の道だとは捉えない写真行為。
いま写真表現を考えることは、この分離作業が必要なのかも知れないと思っています。
キャメロンの撮った写真がそうであったようにです。


写真の歴史-通史6-

<写真の芸術化>

写真の発明は、その時代の絵画職人たちから職を取り上げてしまうことになりました。今風にえいば、DTPにより活字職人や組版工がいらなくなったようなことです。そこで肖像画家や風景画家、複製画家たちは写真家に転向してきます。こうした状況にパリの芸術家たちは、写真は芸術家を脅かすものなので禁止せよ!との抗議をします。

一方で画家たちは、写真をデッサンのかわりに下絵につかいはじめます。
画家アングルは自分のモデルをナダールに写真にとってもらったといいます。1856年にアングルは「泉」を発表しますが、ナダールが撮ったヌードモデルの写真が使われたといいます。
またドラクロアは写真協会にも名を連ね、みずからも写真撮影をしました。ドラクロアは写真をもとにデッサンしたといい、このときの資料がパリ国立図書館に保管されています。
ドガと写真の関係も知られていて、ドガ自身も撮影しました。ドガの絵画「踊り子シリーズ」は、スナップショットで撮られた写真を絵の構図に取り入れています。

写真を芸術として認めさせようとする運動は1850年代にロンドンで始まります。絵画主義写真です。1857年にはオスカー・グスターフ・レイランダー(1813-1875)が「人生二つの途」という写真作品を発表しましたが、この制作技法は約30枚のネガを合成して作られたといいます。レイランダーの他にもヘンリー、ビーチ・ロビンソン(1830-1901)も根が合成によるモンタージュ写真を制作していきます。

1860年代以降になるとハイ・アマチュアが積極的に絵画主義写真、アート・フォトグラフィーを志向しはじめます。肖像写真の項でみたキャメロンはその一人です。またルイス・キャロルは1856年にカメラ機材一式を買い込んで、少女ポートレートを撮ります。
このように絵画と写真の関係があり、絵画に追随する写真家が誕生し、非職業写真家が登場してきます。

nakagawa shigeo