写真の発明は、その時代の絵画職人たちから職を取り上げてしまうことになりました。今風にえいば、DTPにより活字職人や組版工がいらなくなったようなことです。そこで肖像画家や風景画家、複製画家たちは写真家に転向してきます。こうした状況にパリの芸術家たちは、写真は芸術家を脅かすものなので禁止せよ!との抗議をします。
一方で画家たちは、写真をデッサンのかわりに下絵につかいはじめます。
画家アングルは自分のモデルをナダールに写真にとってもらったといいます。1856年にアングルは「泉」を発表しますが、ナダールが撮ったヌードモデルの写真が使われたといいます。
またドラクロアは写真協会にも名を連ね、みずからも写真撮影をしました。ドラクロアは写真をもとにデッサンしたといい、このときの資料がパリ国立図書館に保管されています。
ドガと写真の関係も知られていて、ドガ自身も撮影しました。ドガの絵画「踊り子シリーズ」は、スナップショットで撮られた写真を絵の構図に取り入れています。
写真を芸術として認めさせようとする運動は1850年代にロンドンで始まります。絵画主義写真です。1857年にはオスカー・グスターフ・レイランダー(1813-1875)が「人生二つの途」という写真作品を発表しましたが、この制作技法は約30枚のネガを合成して作られたといいます。レイランダーの他にもヘンリー、ビーチ・ロビンソン(1830-1901)も根が合成によるモンタージュ写真を制作していきます。
1860年代以降になるとハイ・アマチュアが積極的に絵画主義写真、アート・フォトグラフィーを志向しはじめます。肖像写真の項でみたキャメロンはその一人です。またルイス・キャロルは1856年にカメラ機材一式を買い込んで、少女ポートレートを撮ります。
このように絵画と写真の関係があり、絵画に追随する写真家が誕生し、非職業写真家が登場してきます。
<ピクトリアリズム写真の萌芽>
1850年代後半から、広く大衆に受け入れられていた写真がありました。伝統的な絵画の主題や構図をなぞっていく芸術写真です。先に写真の系として、肖像写真や旅先での記録写真の例をみましが、それとは別に、絵画的写真は芸術家とゆう称号を欲した写真を扱う人々の内発的な欲求から生まれてきたものだと思えます。この芸術写真がまねた絵画のシーンは、当時の通俗的な絵画のテーマに満ちていました。写真を芸術のレベルに高めようとした写真家の野心でもあったのでしょう。(これが芸術か否かは後にも論議されますし、この一連の写真は絵画の亜流として位置づけられます)
この芸術写真は、凝った照明や舞台のような演出をする写真。小道具や衣装を使って撮影し、このネガを合成して一枚の絵画のような写真を作りだしました。でも、当時の人々には気に入られ受け入れられた写真であったのです。
当時の代表的な写真家、ヘンリ・ピーチ・ロビンソンの合成印画(アルビュメント・プリント)の作品は、批評はともあれ人々に受け入れられましたし、オスカー・G・レインダーの作品「人生二つの道」は、ヴィクトリア女王に買い上げられたといいます。
この絵画的芸術写真に対して、イギリス人ピーター・ヘンリー・エマーソンは、1889年「芸術を学ぶ人のための自然主義写真」(Naturalistic
Photography for Students of
Art)を著し、「芸術写真」を非難し、写真独自の美学と芸術性を主張します。
エマーソンは、バルビゾン派絵画の自然主義観を優れたものと位置づけて、芸術とは人間の目に映る自然の姿をなぞることに意義がある、としました。このような主張は、それまでの「芸術写真」が取り入れてきた枠組みを壊してしまうことになります。
エマソンによって提唱された自然主義写真は、彼により実際の写真撮影の方法をも説いていて「焦点理論」といっています。つまり人間の目は、レンズが全てに均一に焦点を合わせるのとは違って、ある特定のものに焦点を当てていて周辺はボケている、だから写真撮影のときには、これに習うべきである、としました。
もちろん賛否両論があるわけですが、写真表現の枠組みを転換させていくことになります。この自然主義写真の枠をピクトリアリズム写真と呼んでいます。
そのピクトリアリズム写真の萌芽がここに見られます。しかし当時、実際の写真はソフトフォーカスによる描写を生み出すことになり、1891年にエマソンは「自然主義写真の死」という冊子を出版して、みずからの主張を捨ててしまいます。
<ピクトリアリズム写真の展開>
エマーソンによって提唱された自然主義写真は、1853年に設立された王立写真協会のメンバーに大きな影響を与えます。1890年代の初めには、15名の王立写真協会のメンバーによって「真実、美、想像」を表す三つの環をシンボルとする「リンクド・リング(The
Salon of Linked
Ring)」が結成されます。
リンクド・リングの結成と、年に一度開催する「サロン」写真展によって時の写真の中心になっていきます。「サロン」はメンバー写真家自身により審査・運営されていました。
ここで写真は、科学的、技術的な研究から芸術としての写真追求に移ってきました。
当時の先行論点は、写真が芸術であるか否かということでした。それが写真は芸術であると規定しますから、パリやウイーンにいた芸術写真家たちにも歓迎されて、世界的な(とはいえヨーロッパ中心)潮流となります。1891年にウイーン・カメラクラブ、1894年にパリ・フォトクラブ、などの新しい団体が結成されていきます。
パリ・フォトクラブでは、ロベール・ドマシー(1859-1936)、コンスタン・ピュヨー(1857-1953)などが中心メンバーとなり、ロンドンの動きとリンクしていきます。
このリンクド・リングに賛同する写真家たち、オーストラリアにはハインリヒ・キューン(1866-1944)、アメリカにはアルフレッド・ステーグリッツ(1864-1946)やエドワード・スタイケン(1879-1973)らがいました。
ロベール・ドマシーは写真家であると同時に理論的指導者でもありました。その当時にはもう古い技法とされていたゴム印画法やカーボン印画法などの写真制作技法を復活させ、芸術写真家にとって重要な表現テクニックだと主張しました。
リンクド・リングのムーブメントは、アート・フォトグラフィー(芸術写真)の流れを創っていきます。
このムーブメントを写真における「セセッショニズム(分離派)」とも呼んでいます。ウイーン世紀末美術の分離派になぞっての呼称でもあります。ここで写真が分離しようとしたことがあります。科学の応用として写真を強調する捉え方と、増加するアマチュア層のプリント技術の質の低下です。質の低下は、1888年に百枚連続撮影可能な「ザ・コダック」カメラが発売され、カメラマン人口が急速に増えてきたことが背景にもあります。
ゴム印画法等で制作された作品には、このとき失われようとしていた「美」の幻影があり、あたかも手工芸品のように繊細な技術によって写真を作り上げていくのでした。