作家名:秋山庄太郎


秋山庄太郎(akiyama shotaro)

秋山 庄太郎(あきやま しょうたろう)さんは、大正9年(1920年)6月8日生まれ、 平成15年(2003年)1月16日)に逝去。

     

ぼくが写真に興味を持ち出して、ニコマートを買った1975年、その当時から、秋山庄太郎という写真を撮る人の名前を知っていたように思う。女性を撮る写真家さんで、有名だったのかも知れない。

     

1977年に、ぼくは関西二科会の会員になるんですが、そこで秋山さんは二科会写真部の創設メンバーだと知りました。秋山さんの他、大竹省二さん、林忠彦さん、早田雄二さんら二科会写真部の設立会員は四名です。1953年に設立される二科会写真部、当時からのアマチュアカメラマンのレベルでは、ここの会員になることが、ある意味、最高のステータスだったように思えます。

     

女性写真、女性専科、ぼくにはうらやましい存在の写真家さん、なにより二科会写真部の創設者なのですから。カメラを持ち出して、まだ数年しかた経っていなくって、京都シュピーゲルのメンバーに入れてもらって、二科会の本選へ写真を応募したが落選、1977年から1979年までの三年間、本選へ応募していたkれどいずれも落選でした。

     

そんなの送ってもだめだよ、ぼくが応募する釜ヶ崎の写真にアドバイスをしてくれた人、秋山さんは応募作品を見ていると思って、別のコンテストに応募して特選をいただいた。そのころからグループによって主たる写真の傾向があるんだと思いだした。自分でメディアを作るしかないと思いだしたのもこのころで、秋山庄太郎さんへの想いは、しかし決して否定的な感情ではなかった。

     

ウイキペディアによる経歴をコピペします。
女性芸能人、花の写真を数多く手がけた。生涯の前半45歳頃までは主に女性のポートレートを撮影していた。女性を撮影する事について冗談交じりに「そっくりに撮ると”変な顔”、倍くらい綺麗に撮って”少し満足”、ウソみたいに綺麗に撮るとやっと”ニッコリ”、なかなか感謝してもらえませんよ。」と話していたという。 45歳以降は風景、人物や花を撮影することが多くなり、特に花の写真はライフワークとなった。
日本広告写真家協会名誉会長、日本写真家協会名誉会長、全日本写真連盟副会長、日本写真協会副会長、日本写真芸術専門学校初代校長、日本デザイナー学院校長を歴任。二科会写真部会員。
紫綬褒章、勲四等旭日小綬章受章。
秋山は晩年、山形県米沢市にアトリエ「山粧亭」をかまえ、「山粧というのは紅葉のことをいうのだが、字解きをしていくと、山形の米沢の庄太郎の家ということになる」と語っていた。この縁により、秋山庄太郎記念米沢市写真文化賞が米沢市により主催されている。





























































































































































































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最新更新日 2019.1.28




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