写真の現在
nakagawa shigeo 2005
2014.4.20
2005.01.20 写真の原理-遠近法(1)-
写真の特長をひとことでいえば、カメラの特質上-遠近法-に依存するといえます。
ご存知のように、遠近法とは、遠くのものは小さく、近くのものは大きく見えるという原理です。
人間の視覚レベルでいうなれば、目の網膜に映る外界の像があって、これを視野といってます。
カメラの機能は、この目の網膜に映った外界の像を、フィルムまたはデジタルデータに定着させます。
視野に捉えられた外界の像は、脳によって処理されて視覚となります。
この視野と視覚の違いを覚えておくといいでしょう。
写真はカメラによって制作される画像を原則とします。
そうしますと、写真画像は-視野-ということになります。
人間の側からいえば、自然のままの外界と写真となった外界を、脳によって処理することで-視覚-となります。
この-視覚-というのは、人間の意識です。
この視覚作用を、「見る」という行為にまとまられます。
ここから「見る」ということには、観察し、認知し、判断するというプロセスが含まれています。
ですから写真を語る口調のなかで、-見る-ということは、認識行為なのです。
ヒトは見る。
色彩とか明暗とか形態とかを、脳の視覚作用は、ヒトに感知させます。
感知するというのはヒトの主体体験です。
感知したものを組み立て、構成して、-知覚-します。
この-知覚-するということは、構成されたそのものが、自分にとってどのようなものなのかを-認知-しようとすることです。
ここに、視野→視覚→知覚→認知、というプロセスがみられるわけです。
遠くのものが小さく、近くのものが大きく見えるという遠近法は、ここに認知の方法となります。
2005.01.22 写真の原理-遠近法(2)-
認知・認識
遠近法の発明とゆうべきかシステムの認識とゆうべきか、はルネサンスの頃に求められるといいます。
ルネサンスは15世紀のイタリアが発祥地です。写真の発明がフランス19世紀中庸です。
遠近法は認知・認識のシステムを平面絵画にすすめられてきた手法です。
写真画像が平面(二次元)世界であることは、この平面、絵画の延長線に位置します。
ルネサンスから約400年の歳月を経て、写真術が発明されることになります。
この遠近法とゆう視覚は、西欧近代の装置です。見るということの構造化です。
この遠近法の出現のころ、目のメカニズムが解りはじめてきましたし、カメラ・オブスキュラという装置が作られてきました。
このカメラ・オブスキュラは、いわば針穴カメラ、ピンホールカメラです。
装置と認識の相関関係をもってみるなら、ヒトの認識と科学技術成果が共存します。
遠近法の確立は、ヒトの見ることへの構造が解明されてくる過程でもあった。
カメラ・オブスキュラの出現は、目のメカニズムを外化することを促しました。
つまり外化された装置は、ヒトの内側に視覚世界を創りあげててくるようになる。
絵画世界では、遠近法の導入で、神話とか宗教をテーマにした絵画から、
現実の風景や風俗を描かれるようになってきます。
また肖像画や室内の静物が描かれるようになってきます。
このように見てきますと、遠近法という装置は、
近代社会の構造をつくりあげてくるバックボーンとなる視点であったと捉えられるかと思います。
また、視覚に想像力を補いながら絵を描いてきた絵画から、
カメラ・オブスキュラの出現によって、装置を積極的に利用して風景や肖像を描くようになりました。
この延長線上に写真の発明を捉えてみると、写真を創り出す装置としての道具・カメラのありかたが見えてきます。
1839年の写真発明から、写真装置は新しい絵画的利用法を編み出してきます。
2005.01.26 写真の原理-遠近法(3)-
たとえば、写真は事実を記録する、という概念が形成されてきます。
現実に目の前にあったモノが写真には定着されているからです。
遠近法をとらえるとき、15世紀の建築家プルネレスキやアルベルティの「絵画論」を思い起こします。
1425年建築家ブルネレスキは、-たった一つの視点から見られた世界像-を描き出す幾何学技術を発明し、アルベルティの絵画論を定式化しました。
アルベルティは、-絵画の目的は何らかの表面を持つ、ある決まった距離にある全てのものを主要光線によって決定される位置に従い、目に見えるものそっくりに浮かびあがって見えるようにする行為である-とします。
つまり、絵画を目に見える表面世界の表現であるとみなすわけです。
中世のロマネスクやゴチック美術が持っている多中心的な面構造が反古にされてしまうわけです。
カメラ・オブスキュラや遠近法がまだ不完全だったルネサンス時期の画家たちは、その不完全な技術と知識を想像力によって描いていましたが、カメラ・オブスキュラを積極的に利用することで、遠近法のテクノロジーによって風景や肖像を描きだすようになってきたのです。
写真の原点は、カメラ・オブスキュラによって制作される「絵」の変わりに、感光材料を使って出来る「絵」です。
写真術の発明は、ルネサンス時期から400年有余の時を経てなされるわけですが、そこに遠近法が成熟してきた歴史を考慮に入れて、いま、写真の原理を見直すことが必要かと思っています。
とゆうのも後期印象派以後のモダニズム時期と、写真の成立時期がクロスオーバーするからです。
現在形の想定として、これからの写真のあり方を示唆していきたいと考えているのです。
そこに見え隠れしているのが、一方で絵画に追随してきた写真の歴史をどのように総括するかです。
記録としての写真と同様なレベルで、芸術としての写真を総括して、デジタル時代の写真の方向を探っていきたいとの思いなのです。
15世紀に端を発する遠近法、写真を作り出すカメラ装置がこの遠近法の実践者であることを確認していきながら、これからの写真作家のありようと、写真の社会的意味を紡ぎだしていきたいと思うのです。
2005.01.28 写真の原理-遠近法(4)-
遠近法が15世紀のルネサンス以降に確立してくる視覚の認識であって、写真術はその文脈上に展開される表現の形式でした。また、写真発明当時のタルボットの認識によれば、カメラはなんでも無差別に写してしまう道具なのです。ヒトの視覚とゆうものと比較しますと、ヒトの視覚は、視野に在るもののなにかを強調しなにかを省略します。カメラの目はどのような細部も写してしまいます。このあたりまえの事実を認識したのです。
1508年にはレナルド・ダヴィンチが、カメラ・オブスキュラと遠近法についての記述を残しているといいます。1522年にはデユーラーが透視装置を作ります。1636年にはシュベッテルがカメラ・オブスキュラに可動組み合わせレンズを採用したといいます。
18世紀に入ってきますと、画家によってカメラ・オブスキュラが使われてひとつの産業となってきます。1789年はフランス革命が起こり社会構造が変化します。その後18世紀末にはパノラマが考案され、19世紀初めには幻灯を用いて光学トリックショーが興行されます。
19世紀に入ると1822年、写真術の発明者となるダゲールは、パリでジオラマ館を開設し大きな反響を呼びます。
ジオラマとは、半透明のカンバスに大きな風景画を描き、これを反射光や透過光を使って変化させる見世物です。
1826年にニエプスは最初の写真を得ます。ニエプスの部屋の窓からの光景を写し出した写真です。でもこの画像は実用にはまだ使えない代物でした。
1830年はパリ七月革命が起こります。支配権は市民層の手にゆだねられるようになります。
産業革命時期とも重なりながら近代化が勢いまして進んできます。
人間の視覚は、遠近法の獲得とともに、写実精神が芽生えてきます。
カメラ・オブスキュラという道具を使って風景や肖像を描くようになって来ました。
写真術発明の前には、その後の写真と同じようなことをやろうとしてきたのです。
このようにして16世紀から19世紀にかけて獲得された遠近法は、ヒトの認識の基本となりました。
20世紀に入るとこの遠近法の突き崩しが美術界で始まるのです。
これと平行するように写真表現においても遠近法の扱いがテーマになってきます。
2005.02.03 写真の原理-遠近法(5)-
カメラと写真の原理が、遠近法の秩序を創りあげてきた結果に基づいていることは納得できることだと思います。
視覚のメカニズムに値するカメラの出現は、過ぎ去る現実をとどめておく装置として重宝されます。記録、ドキュメントという概念は、カメラと写真の出現により、現実と記録をダイレクトに繋ぐ装置として捉えられてきました。
写真術の発明以前の記録、ドキュメントの形は絵画や文章に拠っておりますが、写真装置がこれにとって変わります。
そこで絵画のありかたは、記録というから概念から解き放たれて、アブストラクト(抽象)になっていきます。
遠近法は写真の原理です。遠近法は単に目に見える風景のなかだけではなくて、思考方法をも遠近法に立脚します。遠くのものは遠くに、近くのものは近くに、このように感じる距離感です。
この近代の視覚認識の構図を、絵画芸術が先鞭をきって解体化させてきます。
-ただひとつの視点から見られる世界像-この認識が遠近法の原理ですが、いってみれば、複数の視点から見られる世界像を描き出そうとの絵画芸術です。キュービズムのピカソなどをその典型ととらえればいいかと思います。
写真にあっては、絵画の模倣時代(ピクトリアリズム)を経て、20世紀に入ると写真独自の方法を編み出してきます。
たとえば、ステーグリッツのスナップ手法です。写真は、速写性、現実再現性、精密描写性などをその特長として捉えます。その後の20世紀写真の大きな流れは、この遠近法を主流とします。
写真がアブストラクト(抽象)を獲得するのは、絵画の流れを受けて絵筆の変わりにカメラ装置を使うことから始まることです。バウハウスのモホリ・ナギや1970年代の以降の潮流は、カメラ装置を使った絵画芸術との交流の結果であって、カメラの道具としての使い方です。写真の原理は、遠近法を解体するかに見えていますが、なおかつ写真の原理はやはり遠近法です。
美術や写真が現実認識の方法として、遠近法的思考回路を覚醒させ変容させていくものとしてらえることができます。としても近代の視覚が獲得した遠近法は、あらゆる側面を規定しております。
ここまでくると当然、ボクの思考は、この写真の原理である遠近法を、単に視覚のレベルにとどまらず認識のレベルで解体できるか、とゆうことに向かっていきます。
平面を写真に撮って遠近法が解体された!なんてことはいいません。
近代&現代の視覚から認識のなかの遠近法をどのように解体するのか、これが新しい芸術運動の流れとならないといけないし、ヒトの認識過程の変容として遠近法の解体ですかね。
2005.02.05 写真の原理-遠近法(6)-
イギリスで写真術を発明したタルボットは云ってます。
「写真が絵画的表現として、どの程度のところまでいくのか確実には描き出せないが、細部表現が完璧であること、遠近法が正確であること、この二つが独自の実用性の領域であることは確かなことであろう」
つまり写真の特長は、細部描写と遠近法である、とゆうことなのです。
写真の本質についてタルボットがおこなった考察は、1844年から1846年にかけて何回かに分けて刊行された写真集「自然の鉛筆」に記されています。
「写真がつくりだす画像は、自然の女神の手によって刻印されたものである。写真という方法は光学と化学を単にうまく結びつけて自然そのものの姿を再現することだから、いったい芸術家はどのような役割を演じうるというのだろうか。」
タルボットが提起した「写真が芸術か否か」という問題は残されたままであります。が、タルボットは「写真は芸術である」と主張しますが、「きわめて独自な」芸術だとの主張です。
この「きわめて独自な」ということは、絵画、文学、音楽、舞踊、建築、その他すでに認められていた芸術表現形式に比べて、写真の長所が何なのかをはっきりさせられない、ということなのです。
この問いかけに呼応して、後にステーグリッツは「問題は、写真が芸術か否か、ということではなくて、どのような種類の芸術か、ということだ」といいます。
ボクたちはいま、タルボットがいうように、もし写真が「かって用いられたものとも一切似たところがない表現手段だとすれば、どのような独自の性質があるかをはっきりさせていかなければなりません。
さらに新しく定義され、発展する表現手段の性質のなかに特別に美的なものがあると感じたとすれば、それを明らかにしなければならないのではないでしょうか。
写真の原理は遠近法です。そして遠近法に基づく思考法によって写真表現がとらえられてきました。
インターネット環境の発達した現在、バーチャルで瞬時に交感体感できる状況があります。
これまであった距離感と時間感覚をもった遠近法思考回路が、いま変容しつつあるようにも感じています。
カメラ装置は遠近法を原理としますが、思考回路は遠近法を突き崩していく予感がします。
そのときこそ、写真は新たで、きわめて独自な芸術をつくりだすように思います。
(写真の原理-遠近法-終)
文章と写真 nakagawa shigeo 2005