写真の現在テーマ

  学習のポイント:
   &アドバイス:




HOME

ここはテキストカリキュラムです










   表 題: 


京都写真学校 テキストカリキュラム

最新更新日 2018.10.27



 区分:カリキュラム技術編 科目:カメラワーク


レッスン番号 038

i-photo school
--京都写真学校カリキュラム--

     写真の現在

                                        nakagawa shigeo 2005

     
        2014.7.13

写真の現在テーマ-1-

写真の現在テーマはなんだろう?って考えることがあります。
パーソナルな領域で、ヒトの深部を明るみに出す。
それも他人事じゃなくて我が身の深部です。
つまり自分をみつめていくことで明確になってくるもの。

じゃ〜、いったいそれは何か。
それは一人称の私、その私の情動や欲望や記憶・・・
社会の深部へ向かっていった写真表現があったとすれば、
今度は自分の深部へ向かっていく写真表現なんじゃないかな〜

とはいっても写真って現実にあるものしか写せない。
80年代からの潮流は、メイクフォトです、創りだす写真。
この流れの只中で、よりプライベートな領域へ入っていく写真です。
イリュージョン世界を作り出せばいいのかっていえば、そうでもないですね。

情動や欲望や記憶の結果の、ストレート写真とゆう手もある。
何かに託して二次的想像力を喚起することよりも、もっとストレートに、です。
情動や欲望を満たす装置に社会は蓋をしています。
表裏装置とゆう考えで、裏を封じ込めてきたんだとしたら、
この裏装置が表装置の拡大で取り込まれていくことでしょうか。

いまやアーティストの戦いは、裏装置を表へ出してあげることかもしれないですね。



写真の現在テーマ-2-

さて、写真のテーマ、現在的テーマって何なんだろ〜な〜。
勿論、写真を撮る人が「一番興味を持ってること」に尽きるわけですが、この一番興味が持てること、それを探し出して確定させていかなければなりません。
一般に、興味が示される内容とゆうのは、その時代の表層の最先端部分か、
もしくはレトロで、すでに一定の価値と意味に塗り込められた部分です。

前者は価値も意味もまだ未定のまま漂っている領域だけど、
科学の最先端領域を取り入れたテーマ。
後者は、ノスタルジーに裏打ちされた既存の価値と意味の追認となるテーマが多いです。
さて、アートの現場は、どっちかゆうと、前者をテーマとして設定することですね。

かって、写真は外面を捉えることから始まって、
社会の外面、人間の外面、社会の内面、人間の内面へと向かってきたと思います。
この人間に「私」と個人を置いてみますとわかりやすくなるかと思います。
かっては、人間全般のなかの普遍だとされる内面を描写しようとしました。
あるいは「私」の存在を、社会での「私」の存在として位置づけようとしました。
この「私」の存在は、人間の外面を照らし出すものです。
社会の文化規範の中にある自分存在を確認しようとする態度です。

じゃ〜この先は〜とゆうと、「私」の内面です。
私の内面の不思議、科学が解明しようとしてまだ未到達な部分です。
定式化できていない「私」の深層にある感情を捉えて描写することです。

いま、科学が「私」を解明しようとして解明途中にあるものを列記すると、次の三点。

1、生命/生命の起源、生命とは何か
2、記憶/内世界の構造(意識・無意識)
3、欲望/情動の発生

この三つのキーワードを「私」に引き寄せて、私の体験を図象化すること。
図象化といったのは、具体もしくは抽象、二つの方法があるからです。
道具はもちろんカメラを使います(カメラの種類は問いません)。

さて、ここからどんな写真画像が立ち現れるかは、あなたの感性です。



写真の現在テーマ-3-

現在の私たちの環境ってゆうと、機械が創りだす「生命」とそのルール作りだと思います。
私とゆう生命体が社会の中で多様化され、組織化され、その中に自分の職業だとか家庭だとかを確定させてきました。これが従前の社会での「私」の在り方で、その枠組みの中で、自分の方向を決めていくことをしてきました。
でもね、このシステムでは説明つかないような「私」がいるんです。

生命のルールとは、自分を組織化し外部情報を取り入れながら、内部変革を繰り返していくことであると云われます。ですから、カメラをもって写真を撮るとゆうのは、このサイクルの過程を私の中で定着化させていくことだともいえます。
写真を撮ることで、いま求められていることは、生命とゆう現象に直結する表現の方法を編み出すことです。近代合理主義や機械主義のなかで、むしろ無意識的に封じ込めてきたアニマやエロス、いまやこの生命の根源をよみがえらせることかも知れない。そうすると、写真はアニマやエロスが宿っている「心」を科学していくことを求めているのかも知れないですね。

生命科学の先端研究で、生命に関する現象を学問として模索されています。この領域は、遺伝子や心の解析とその展開です。生命の根源を探りだすゲノム研究などは、生命の捉え方や考え方を大きく変えてきています。
こうゆう現状のなかでの写真のテーマは、新しい生命観とか、政治・経済世界の枠組み変換のなかで、生まれ変わっていかなければならないと思います。

写真の場は、生きることの科学成果を原点として、自然や環境を含めた広大な生命圏から創りだされなければなりません。豊かさを追求してきたはずだった近代科学主義は、むしろ人間の心を貧困にしてきたのではないか。この認識をもって、写真のテーマは、新しい生命観に導かれた世界を求めなければいけないんだと思うのです。



写真の現在テーマ-4-

写真が置かれている現状のなかで、写真のテーマを見つけ出す作業というのは、写真作家を目指す方向です。この写真作家という呼称を、職業としていくときに必要となる作業なのです。作家という職業、たとえば小説家や美術家と同列に置かれる職業を想定します。

というのもたとえば、写真を学ぶことで雑誌などで取材ルポをすることを第一義的に目指すことと、写真作家という呼称とは少し方向が違うからです。前者に求められることは、クライアントの要求をいかに満たすか、ということが前提になります。ここで写真作家というのは、個人が個人の目的によって作品を創りだすことで、それがお金になるかならないか、売れるか売れないか、は結果としてあるものなのです。

この前提に立って、写真の現在テーマを捉える必要があります。歴史的に見ると、写真は次々と誕生し社会の中に浸透してきたメディアの只中にありました。ここでいうメディアとは、新聞、雑誌、出版、放送等のことです。これらのメディアは、社会の構造や形態を変え、個人の生活の様々な側面を変化させてきました。
写真や映画、ラジオやテレビ、電話やコンピュータ・ネットワーク、この歴史と未来を考えると、これは今や、地球全体の時間や空間の変化を辿り考えながら、個人の感覚や知覚の現在的あり様を考えることでもあります。

かっては単純明快なメディアの形は、今や高度な情報装置により、身体の血管や神経網のような複雑なシステムを獲得しているといえます。カメラシステムがデジタル技術と結びつく現在、イメージ制作のあらゆる分野で写真が機能します。
地球の自然環境とデジタル環境が加わって、自然環境がボディ(身体)だとすれば、デジタル環境は神経系であり脳神経のシステムと想定できます。
これからますます人間・生命システムが解明されていくなかで、地球環境も生命システムとしてあらためて認識されていきます。ここから導く出すと、これからの写真は、自然生態系にかわる情報生態系を舞台に成立するように思います。

これまでの世界の枠組みであった政治的、経済的な権力の仕組みや、国家や領土といった概念が大きく変わっていこうとしています。写真の現在テーマは、情報システムを使いこなして創りあげる新しい概念地図を作り出すことにあると思います。
ここでは、まだ具体的なテーマ内容には言及しておりませんが、順次言及していきたいと思っています。



写真の現在テーマ-5-

これまで多くの写真が撮られてきましたが、写真家の視点は、社会に向けられている自分を発見していく作業だったと考えています。ところで近年の多くの写真家は、その作業の原点を<自分>の内側に向けて、自らの内的世界にのみ関連する新しいイメージを見つけ出そうとしているように思います。

社会的な思考法と内的世界の思考法。単純に分けるとすれば、この二つの思考法のなかで、内的世界の未知なるものと向き合い、自分という生命の誕生と死に直面して気づいていく何かです。ここでは、非常にプライベートな領域に向かってきた写真の現在を見てみたいと思うのです。

近代の、遠近法的思考を獲得して以来、いつの時代もそうであったと思われる不安な自分があります。その自分はなんらかの安定した基盤を得たいと望んでいます。これが現在の私たちの無意識的な希求であろうと思います。また、近代(人)の意識は啓蒙的で合理的傾向が強いといわれます。この強度は、科学万能となった現在に、神秘的な救済を求めることができなくなっている程だと考えています。神秘的救済は異端者扱いされる現在です。

19世紀から20世紀の時代、啓蒙的精神は迷信を打破してきたし、合理的精神は多くのシンボルを葬ってきました。つまり人間を科学することから、無限の可能性や全体性が分断され反古にされ情動や感情に蓋がされてきたように思います。そこで立ち現れてくるのが<全体性の回復>というテーマです。自己の全体性の回復です。

プライベートな領域で全体性の回復を試みる、この作業のプロセスをカメラを携えた自分が記録していく。そこでこの<全体性を回復する>ことをどのように捉えるか。この捉え方こそが個々の作家のイメージプロセスとなり作品に結実していくものになっていくと思います。
もう少し具体的にしますと、情動や感情が無意識に求めている安定への道、人はそれを<宗教>と呼ぶかも知れない救済の道です。

写真は、視覚化されたイメージでもってを視覚に訴えるモノです。体内にあるイメージは知覚対象のない視覚像です。写真が体内にある潜在イメージを具現化して提示されたとき、ヒトは具現化されたイメージの奥に自分の情動や感情の移入をしていきます。ここにコミュニケーションが成立するのですが、このコミュニケーションこそ、啓蒙や合理から解き放ち、全体を回復させるものでなければならないと思うのです。

啓蒙や合理から解き放ち、全体を回復させるイメージとは何か、これを解き明かすことが次に求められます。

                     nakagawa shigeo 2005