写真雑学講座(1)-2-

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   表 題: 


京都写真学校 テキストカリキュラム

最新更新日 2018.10.27



 区分:カリキュラム技術編 科目:


レッスン番号 034
  
i-photo school
--京都写真学校カリキュラム--

       <写真雑学講座> 

                             中川繁夫 2008.5〜2013.5

     
          京都写真学校第七期 2011.4.3

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<写真は絵画と映画の間>

写真って、フォトグラフィーのことですけど、歴史的な時間軸でみると、どんな位置にあるのか。
写真の発明は1839年とされています。
この写真技術発明を境に、光が自動的に絵を描く装置として、写真が存在します。
写真発明以前には、絵画があります。
絵画では、絵具を使って、主に手を使って表します。

そこで写真が発明されて、カメラの外の風景などが、自動的に定着されることになった。
それから50年ほど後、19世紀の末期に、映画がつくられます。
映画は、写真、静止画が連続したものです。
フィルムを使うか、いまならデジタル信号にて、メモリに蓄積、なんてことです。

このように見ると、写真って、絵画と映画の間にある、表現物だと言えます。
絵画としては、その後、現代アートに至るまで、制作は続きます。
映画としては、その後、テレビへと展開されますが、映画館健在です。
歴史の時間軸で、絵画と映画の間にある写真。
これまた、今も健在、デジタル、携帯電話カメラ、形態は変わっても、静止画を生み出します。

ところで、だから、この写真・静止画ってやつは、いったい、どのように扱えばいいのか。
これが、論点、論の入口ですね。
写真には、音も匂いもありません。
定着されたイメージは、動きません、静止画、写真です。
さて、このような写真を、どう使いこなそうか、これが問題ですね。


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<なにがどうちがうのか>

何のことやら、難しい話はしないでおこうと思うけど、どこがどう違うのか。
いま、写真を撮ることの意味を、自分なりに整理しようとしているんです。
そこで、イメージとして、ふたつの方向があるように思えるんです。
かなり以前にさかのぼりますが、1950年代から60年代。
写真の歴史をひもとくと、リアリズム写真、アマチュア写真などが出てきます。
名取洋之助って人物が出てくるし、東松照明って人物が出てくるし、土門拳って人物がでてきます。
木村伊兵衛とか、伊奈信夫とか、そんな名前も賞の名前で、あります。

それで、いまも大量に写真が撮られ、発表されるわけですが。
いったい写真にするテーマは何。
何をテーマに、写真を撮るのか。
これが、問題なんですね。
テーマをどのように立てるか。
何を撮るかを決めていく、手がかりとしての、テーマ。
写真をつくるための技術的な手法ではなくて。
写真をつくるためのテーマをどうとらえるか。
ここで、方向が、二分されてくると思うんです。

遠くのものを近くに、より珍しい光景に、このことが写真の価値を決める。
そんなことではなくて、何を考え、何を訴え、何を表現するのか。
報道のための写真ではなくて、自分表現のための写真。
コンテスト向けの写真ではなくて、自分の内面表出のための写真。
なんか、どこがどうちがうのか、という設問に対して、答えになっていない。
としても、やっぱり、どっか違うんです。
表現の方法、その現場と向き合う、テーマの社会性、・・・・。
なにが、どのように、違うんでしょうか。


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<メディア表現について-1->

最初に、メディアという言葉の定義を、しておかないといけませんね。
メディアとは、媒体、すなわち、紙媒体、放送媒体、ネット媒体など。
コンテンツ(内容)を伝達するための、手段、方法といえばいいか。
この手段、方法について、考えたいと思うところです。

メディアの形式とか方法については考えてみる。
その第一には、歴史のなかで、どんな形式と方法をとったか。
ここでは、写真を軸に考えるから、その最初は発明のころ。
19世紀の中頃から、とらえることにしていきます。

第二には、メディアの拡大とでもいえばいいでしょうか。
印刷媒体、新聞、雑誌、書籍、ポスター、チラシなど。
次には、放送媒体、ラジオ、テレビ、劇場映画、インターネットなど。
写真の発明以後、新しいメディアが、考案されて、盛隆してきて衰退。

この媒体と内容の組み合わせで、メディア全体が、つくられてきます。
ここでは、その組み合わせを、試みながら、現代写真を、考えたいと思う。
現代なら、デジタルカメラによる撮影で、ネット展開ということを想定します。
ひと昔前なら、雑誌、新聞など、印刷物による展開です。

それから、写真を作品として展示する、展覧会や写真展。
なにより、いま、現在から未来、この先について、どうするのか。
これが、ここでの最大の関心ごとなのです。
これからの写真のメディア展開をどうするのか、なのです。


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<メディア表現について-2->

どこまで意識して使っておられるのかは、わかりません。
でも、現在、ネット上にあるサービスで、アルバム機能があります。
無料で使えるアルバムは、宣伝広告つき。
それからメーカーのカメラを使っているユーザーに使えるアルバム。
ブログ機能のなかにあるアルバム機能。

インターネットのなか、ホームページ、ブログ、アルバム。
それらを、かなり自由に使うことができる現状があります。
ここでは、静止画として、写真を扱います。
でも、まもなく、動画が主役になってくると思われます。
現在でも、ユーチューブとかの動画サイトが話題ですから。

インターネット環境の、通信スピードとか容量とかの制約。
これがますますスピードアップ、大容量化してきています。
静止画を重ねて動画となるデジタル画像・映像が、主流となる。
これは、フィルムがなかった時代、フィルムが開発された時代。
それから映画が開発された時代、テレビが開発された時代。
そうしてデジタル化された通信の時代。

それぞれの時代に、メディアを駆使した作品が制作されてきました。
詳細は別途見てみますが、メディアと表現内容は、密接に絡みます。
フィルムの時代、カメラが小型化する時代、そのときの写真作品。
デジタルカメラの時代、ネット社会の時代、これが<いま>です。
いまの時代から今後にかけて、表現の方法が、どのようになるのか。
これが、ここでの、最大の論の根拠としていく内容かと思います。


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<メディア表現について-3->

メディアとメディウム、媒体と発信、とでも言えるかと思います。
メディアとは、自分の思い、思想とか、感情とかを、発信する媒体のことです。
このメディアの形式が多様にあると認識できます。
写真は静止画ですから、印刷物、展示物、となります。
おおむね紙の表面に定着されている画像、イメージ、です。

かって写真プリントを、オリジナル・プリントとして売買の対象としました。
いや、現在だって、プリントを売買することは、有効です。
オリジナル・プリントを扱うギャラリーがありますから。
でも、最先端の表現方法としてのメディア。
そこにおけるメディア表現の効果、効用についてです。

なにより自分の思いを、発信する媒体ですから、自分の思いをのせます。
思想とか感情の領域にある自分の思いです。
ここで苦労の最初があるように思います。
写真は、かなり即物的ですし、リアルです。
つまり物体そのものが目に見えるような形式で定着されているから。

撮られて提示された写真を、言葉で囲うのは、ナンセンスだとぼくは思う。
むしろこれまでの写真を解釈する方法とは、言葉で囲ってしまうことでした。
その時代が終わって、現在のメディア環境では、言葉で囲わない方法を。
はたして、言葉の囲いを取り払って、写真が写真として成立するのか。
新しいタイプのメディア表現とは、このあたりではないかと思うのです。


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<手作り写真について>

じつは、最初のころの写真って、手作りでした。
18世紀の半ばです。
カメラを手作り、ネガとかポジとかも手作り。
その後になって、カメラと写真材料が工業生産されだします。
フィルムを使った写真です。

ところが最近は、デジタルカメラによる写真制作ですね。
おっと、もう一人の人間のスキルの範囲を超えてしまいました。
そうゆう現状に対してでしょうか、手作り写真が注目されています。
カメラは、ピンホールカメラ、フィルムと印画紙も自分でつくる。
薬品は、薬局などで買うことになりますが。

世の中、便利になって、静止画の写真を超えて動画の時代。
テレビ信号も今年7月、来月からデジタル放送だけ。
パソコン、カメラ、モニター、すべてがデジタルです。
ああ、なつかしい、手触り感、フィルムとか。
暗室では、ほのあかい電球、酸のきいた薬品の匂い。

レトロだから必要だとゆうわけではありません。
それらアナログ写真が、アート作品として成立する一角を占める。
なにより自分の手元ですべてが完結する。
京都写真学校では、そんなアナログな手法をプログラム化します。
ピンホールカメラで写真、実習は7月3日(日)です。


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<デジタルカメラの表現媒体>

写真のことを静止画と呼ぶのにふさわしいデジタル写真。
写真をのせる媒体は、印画紙からCTR、液晶パネルへ変わります。
液晶パネルの厚さが数ミリの単位になって、壁にかけられる。
印画紙を挟んだ額縁の厚さより薄い。
家電業界が、液晶テレビモニターの厚さを薄くしようとしています。

デジタルカメラで撮った静止画を、紙にプリントアウトする。
これが現在の方法であり、フィルムの時代からの方法でした。
現像液につけて現像する方法から、プリンタによるプリントへ。
いずれにしても支持体は紙でした。
この紙に再現することの限界を、感じていらした方も多いかと思います。

デジタルカメラの元祖はビデオカメラです。
ビデオカメラで撮られた映像は、テレビモニターで再現しました。
その流れに沿っていえば、デジタルカメラの静止画はテレビモニターで。
厚さ数ミリという超薄型のテレビモニターの商品化ニュースを見て。
いよいよ額装のかわりに、テレビモニターを使うことになる。

でも、まあ、こういった議論は、写真の本質を考える議論ではありません。
写真の本質は、その内容のことです。
なにが撮られているのか。
撮られているものから派生する意味。
そういったことを時代の中で捉えていくことが、必要だと思うのです。


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<デジタルカメラ>1

もうデジタルカメラが写真制作の道具となりましたね。
といいながらもフィルムを使って制作される人もたくさんおられます。
ぼくは、旧態、新態、まあこんな区別をしてみたり。
つまり旧態はフィルムを使う。
新態はデジタルカメラを使う。
いずれにしてもカメラって道具を使うわけです。

写真は静止画、静止している画像です。
静止画に対して動画、動く画像、連続する静止画。
動画といえども基本は、静止画で、それが連続したもの。
こうしてみると、画像の基本は、静止画、つまり写真ですね。
写真を制作する方法として、デジタルカメラを使う。

デジタルカメラの機能に、動画を撮る機能がついています。
ということで動画を撮りました。
ネット上に動画サイトがあります、ユーチューブとか。
そこへ投稿する、かなり簡便に投稿できますね。
デジタルカメラをパソコンに接続します。

デジタルカメラで撮った写真をウエブアルバムに掲載する。
デジタルカメラで撮った動画を動画サイトに投稿する。
もちろん、携帯電話からも掲載や投稿ができる。
新しい人ひは、無意識にそのことを実践しています。
でも、フィルム時代に育った人には、新たな認識が必要かも、です。


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<デジタルの時代>

写真(静止画)を制作するのは、いまやデジタル信号です。
フィルム時代が終わって、次の段階へ入ったといえます。
なにが変わるのかといえば、制作方法が変わる。
写真をつくるテクニカル、制作技術の部分が変わる。
カメラという装置は同じでも、処理の仕方が違う。

ところで、写真を撮り、目に見えるイメージに仕上げること。
このときの写真を撮るという行為の中身。
この中身、この内容まで変わるのだろうか。
単純な疑問なんですが、どうなんでしょうか。
カメラが変わったとしても、中身は変わらない。
中身が変わるのは、その時代の変容に拠る、なんて。

カメラの形態によって、出来上がるイメージが変わります。
レンズのあり方によって、出来上がる写真イメージが違う。
そのとおりで、カメラとかレンズで、写真の出来が違う。
でも、そのことが、本来ある姿にとって、どれだけ有効か。
この問いかけを、写真愛好家と批評家は、いかに受け止めるか。
そこが、問題の入り口だと思うんですが、いかがですか。

写真の中身は、社会の動きとかに連動してきます。
カメラ機材の変化で、写真を物質的につくる方法が変わる。
写真に現わされる内容は、時代の動きに連動します。
この両者のかけひきのなかで、写真イメージが制作されます。
さてさて、後者のほうは、写真制作に必須条件だと思うのです。
としても、必須条件を語る口がないのは、どうしたことか。


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<写真という名前が>

日本語で「写真」しゃしんと言っています。
でもこれって現在なら「画像」とか「静止画」とか言ってる。
静止画が連続すれば動画と呼ばれるようになります。
写真ってゆう漢字と「しゃしん」って読む内容。
今や、かなり内容がはっきりしていない気がします。

写真って、写と真、真を写す。
真とは、真実とか、本当のこととか、それを写す。
写したモノが、写真という物体。
細かな詮索はどうでもいいけど、真を写す。
これって、ほんとかなぁ、と疑るのが現代。

中途半端で、突き詰めると難解な「写真」という単語。
映像の種類として、静止画と動画。
映像とはイメージ記号、言語記号じゃないもの。
その静止画は止まっている画です。
ますます写真って言葉が、昔の言葉になっていく。

写真っていう言葉を使うか静止画という言葉を使うか。
どうでもいいような話ですけど。
でも、まだまだ、世の中、写真という言葉が有効ですね。


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<写真は簡単自己表現ツールか>

写真を撮る、発表する、他者に見せる。
最近のデジカメとか携帯電話とかで撮る写真。
簡単に撮れて、簡単にネットにアップできる。
ネットにアップした写真は、他者に即座に見せれます。
カメラからインターネットへ、受け手はブログ。
ソーシャルネットワークサービス(SNS)へ。

最近なら、Facebook、フェースブックへのアップ。
写真は静止画で、移動するカメラからアップできる。
ここでいうカメラとはカメラ機能がついた携帯電話のこと。
そのうち動画がアップできるのが当たり前になりますね。
いまテレビ局でやってるライブが、自分でできる。
まあ、個人放送局ですね。

このような展開で、かってあったような論が成り立たない。
かってあった論を越えて、道具が使われていきます。
自分を表現する手段としてのカメラ・写真。
この自分表現の内容が、イージーになってきている。
もう哲学とか文学とか、自分とは何か、なんていらない。
そうゆう時代に突入している映像、写真、動画の現在。

といいながらも、既存メディアである印刷物。
ギャラリーでの展示、オリジナルプリント。
これまで培われてきたノウハウはそのまま残る。
ただし残り方は、そのままとはいえない。
工業生産品としての材料は消えゆく運命です。


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<制作の技術と表現内容>1

写真を作るための道具としてカメラを使います。
それと旧式ではフィルム、新式ではデジタル。
カメラと言ってもさまざま、いろいろ、多種多様。
フィルムと言っても多種多様。
デジタルはデーターを加工するツールがいっぱい。

さてさて写真は静止画、それを作るための道具。
道具を駆使して、撮ったイメージを加工する。
加工する限度は、いまやさまざまに加工できる。
内容は形式に由来する。
加工した結果、内容が作られる。

最近、思うことは、この内容のこと。
写真って、撮る現場があって、現場を再現する。
すごい、感動する、こころ揺すられる、そんな現場。
撮影の現場を、ストレートに近く再現する。
そのことで、写真をの中味が示す、意味を汲みとる。

どうも、感覚、感情、それが感知するイメージ。
そのことが優先される写真が多いように思える。
つまり制作の技術を駆使して、ハッと思わせる。
まあ、表面的に処理して、表面的に感動する。
この時代のムードを反映しているのかも。