写真雑学講座(1)-1-

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   表 題: 


京都写真学校 テキストカリキュラム

最新更新日 2018.10.27



 区分:カリキュラム技術編 科目:


レッスン番号 033
  
i-photo school
--京都写真学校カリキュラム--

       <写真雑学講座> 

                               中川繁夫 2008.5〜2013.5


     
        京都写真学校第八期 2012.4.8

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<写真を作る現場>

ド素人だと自称される人、大歓迎なんですが、フイルムカメラ、デジタルカメラ、携帯電話カメラ、いろんなカメラで、写真を撮る。写真なんてことば使うと、複雑になるので、静止画像と言ってもいいんですが、まあ、写真としておきましょう<写真>です。

ここは写真学校の枠組みで、写真の基礎概念を培おうとして、テキストを作っていきます。今日はその第一回目、<写真を作る現場>です。ここは、書いていけば当たり前のことを、当たり前に知るための、雑学、基礎講座だと思ってください。写真研究の本論ではなくて、その周辺、雑学です。でも、本論とは、なにか、なんてことも雑学で論じる必要があるのかも知れません。

なになに、写真を作る現場、とは、カメラを携えて撮影する場所のことです。いくつもの区分ができると思いますが、ここでは、屋外、屋内、自分の部屋、など写真を撮る場所が、あるということです。

たとえば、旅行中に写真を撮ります。
たとえば、庭に咲いた花を撮ります。
たとえば、自分が食べるものを撮ります。

撮るモノの話は置いといて、写真を撮る場所は、光がある場所なら、どこでも撮れて、どこで撮っても写真になります。まあ、最初に、このように定義しておきましょう。どこでも撮れる、なんて原則そうですけど、撮れない場所もあります。その場所については、追々ですが、政治的な要素、自然的な要素、そんな条件があって撮れない場所もある。でも、まあ、写真を撮ることで、写真を作ることができます。


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<現代写真の表現について>

いつから現代と区切るかには、議論が必要だけど、ここでは1968年からの数年間を、現代写真の始まりとし、その後、いくつかの区切りがあって、携帯電話の普及してくる今が、これを最前線としたいと考えています。

1968年といえば、学生運動が盛んな時期で、自分表現という考えが表面に出てきた時期ではなかったかと考えています。
写真表現の視点についても<私>あるいは<私的>という視点が重要になってきた時期であったと思います。

写真において表現しようとされる内容は、撮影者自身と外部世界との関わりの接点です。その接点を、区分するとしたら、政治経済社会の動向が主体の世界があり、それを受け入れる個人としての自分があります。この社会と自分の関係を、社会の側に主軸を置くか、個人の側に主軸を置くか、それの強調図式だと思うのです。

写真制作作業が、個人の興味において、その興味のなかみが撮られ、作られていきます。、写真イメージを作っていく、写真行為とは、この興味そのものを、具体化していくことです。いっぱんに社会と呼んでいる世界の構図のなかで、個人の興味視点を、より社会に向けるか、より個人に向けるか、の視点と方向のちがいといえるかも知れません。

いつも個人と社会の距離感で、そのどちらに重きが置かれるか。この視点でいえば、現代写真の表現は、より個人的に、よりプライベートに、その撮影の現場を求めてきたといえます。次には、その流れを具体的に見たいと思います。


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<現代写真の表現について>-2-

1968年を起点として、現代写真のはじまりだとする説をとってみます。ここでは、年配になってしまわれたけど現役の、三人の作家を選び出すことができます。ぼくは、東松照明さん、荒木惟経さん、森山大道さん、この三人の作家をあげます。もちろん同時代の写真家さんは、たくさんいるし、なにもこの三人だけが重要なわけではありません。という言い訳をしておいて、この三人の作家さん、それぞれに特徴があります。その特徴を、社会の出来事を撮るという、写真の目的に対してどうなのか、という視点からあげてみます。

東松さん。
ストレートに社会の問題となる出来事にトライしています。当時でいえば、原爆投下された長崎、米軍基地のありようの問題など、社会の関心ごとをテーマにしていきます。

荒木さん。
個人的な新婚旅行の写真集からのスタートです。「センチメンタルな旅」、感情旅行といえばよろしいか。つまり、おおやけ問題より、個人の関心ごと、そのことです。

森山さん。
社会の問題をストレートというわけでもなく、個人のヒストリーというわけでもなく、自分の情念にまつわる出来事、とでもいえばいいかと思います。社会の問題に直接トライしてはいません。

まあ、三人の作家さんの初期のころの作風を、概観したわけですが、この三人の作家さんが、展開される道筋に、以後の作家の卵たちが追随していく、まあ、ぼくはこのようにみているわけで、この三人が並んで出発する1968年前後から1970年をこえる数年を、現代写真の始まりの年月だと考えているのです。1974年にワークショップ写真学校が開校するにいたるまで、です。


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<携帯電話とトイカメラ>

最近の写真をつくる道具としてのカメラの注目は、携帯電話とトイカメラです。携帯電話についたカメラ機能と、いっぱんにトイカメラといわれているフィルムカメラが、写真をつくる、最近の道具です。もちろん高級デジタルカメラがあり、従前のフィルム一眼レフカメラがありますが、簡便、面白い、など若い世代に受けているのが、携帯電話カメラとトイカメラです。

一方で、現代写真とは何か、どんな様相なのか、ということを考えていて、いくつもの切り口から、その全体を見てみたいとの思いがあります。この立場からいうと、写真を作る道具としての、カメラ装置への考察です。歴史に見てみると、写真の歴史はカメラと感材の道具類によって、その内容が左右される、つまり表現方法が変わる、ともいえます。

カメラが、いつの時も、その時代の最前線テクノロジー、技術が搭載された道具です。そのことでいえば、携帯電話はこの時代の最前線テクノロジーです。その機能としての写真を作る機能なわけです。反面、トイカメラは、そのまま直訳すれば、玩具写真機、基本原理に従って、フィルムを装填して写真をつくる。

ここに二つの方向がみえてきます。最前線道具を使って、写真を作る方法と簡単装置で写真を作る方法です。特に携帯電話は、誰もが持っているような時代です。つまり、誰もが常態でカメラを持っている時代だと言えます。そのことと、昔帰り気分で、トイカメラ、と言うことでしょう。ピンホールカメラブームだし、トイカメラブームだし、いずれも時代感覚のファッションですね。


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<1968年の日録とホモグラフィー>

1968年のカメラ毎日3月号の特集に、東松照明日録67.12.20〜68.1.19が掲載されているのを見つけました。
なになに、1968年に日録ってタイトルで、つまり一日一枚ってことで写真集をつくっていく、という作業です。

そのあとがきで、激動する日本の日常と題し、「新型カメラ<ホモグラフィ>」なんてことを、書いているんです。

どうゆうことかといえば、大脳皮質に直接連動するカメラで、常時身につけていて、知覚神経と運動神経に連動していて、写真家が撮りたいと思っただけで、シャッターが切れるカメラ、フィルムは詰め替えなしで1000枚まで撮れる。

まあ、その時代に、このような発想をして、日録って作品を作ったんですけど、ここでも「作品」と使っているけど、いったい作品とは何?っていうような問題提起でもあるように思えます。

2008年の現在、それから40年がすぎています。そうして写真のあり方、カメラの発達なんかを思うと、いま、まさに、そのことが写真表現のありかたそのものであるような感じに思えます。

携帯電話、デジタルカメラ、薄型でコンパクトで、身体のアクセサリー化した代物で、1000枚くらい、とれてしまいます。フィルム詰め替えなしで、デジタルだから、ランニングコスト要らないし、まさに、東松さんの予見のとおりの現在だと思えます。

そんなカメラで作られる写真のことを、ホモグラフィーというんだそうです。


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<ネット時代の写真表現について>-1-

写真で何を表現するかという大きな問題を解いていく道筋に、今(2008年)の写真を作り、写真を人に見せる、つまり発表するシステムを解くことがあげられます。
この観点でいえば、ネットワーク、インターネットの時代、デジタルカメラの時代というのが、今の時代の代表システムだと考えています。
フィルムベースの写真の作り方から、デジタルベースの写真の作り方へ、わたしたちの思考とその手法を、考えなければいけません。

表現の中身は、プライベート情報の発信、と仮説を立てての出発ですが、ツールはデジタルカメラとデジタル環境です。
フィルムを必要としないデジタルカメラの、処理環境はパソコンです。パソコンの通信機能は、いまやネット上に開設されるフォトアルバムが、発表の中心媒体です。
フィルム時代には、印画紙に焼き付け、物質としての紙の上にイメージを載せ、それをギャラリー等に展示して見せる、という方法でした。この方法は、いまや過去とは言い難い状況ではありますが、カメラと写真のシステムとしては、今の最前線ではありません。

さて、こうして、今の環境、状況を考えると、デジタル写真がネット上のアルバムにて供覧される、というのが主流ですね。
ネットアルバムに写真を載せることって、とってもイージーなイメージがありますが、つまり、いまや写真発表は、イージーなのです。
何に対してイージーかといえば、ギャラリー等で展示するという方法と対比させて、ということになります。
それでは、ギャラリー等で展示することが、発表媒体として優位にあるかといえば、必ずしもそうではないし、過去と今、以前と今、それが現時点での一般的認知としても、ギャラリー上位ではなく、同格だと考えます。

つまり、ネット時代の特徴を、写真表現の手法に加えるべく、そのツールを加味しなければいけないと考えているのです。
フィルムカメラでつくる写真の延長線上に、今がある、とは言えない。言えないという認識から、デジタルカメラに拠る写真表現を、考えていかないとダメですね。
ひとつの特徴として、デジタルカメラからネット上への発表のプロセスには、第二者、第三者が介在しない、ということがあげられます。
フィルムの時代には、自家処理する人以外は、フィルム現像、プリントを、他者にゆだねなければなりませんでした。


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<写真イメージは素材である>

写真を、紙に定着させるにせよ、パソコンでの液晶画面に定着させるにせよ、写真は一枚ぽっきりの単独イメージです。写真を考えるということは、写真の中身(撮られた被写体)を考えることを中心に、写真論を組み立て、写真のあり方を考えます。でも、それだけじゃなくて、写真という固定されたイメージの紙または液晶画面が置かれている状態を考えることも必要ではないかと思うのです。

写真の中身は当然、論の中心であってよいわけですけど、たとえば、写真を見せる枠組み、フレームといえばいいか、ギャラリーの壁面であったり、雑誌とか写真集の印刷物であったり、ネット上で組まれるアルバムであったり、そのフレームを考えると、写真が素材で、写真を料理(編集)して、器に並べて、見栄え良くして、おいしくいただく。そういう全体がわかってきます。

ここでは、ネット上で展開される写真の枠組みについて、論じておこうと思います。というのもデジタルカメラで撮って、ネット上で発表することが主流となってくるからです。ネット上で発表される写真の、枠組みは、ホームページ、オンラインアルバム、ブログなどです。もちろん自作も可能でしょうが、写真を載せる枠組みは、既存に提供されるフォーマットを使います。オンラインアルバムの形体、ブログのデザイン、ホームページのフォーマット、などは選択するところから始まります。

写真イメージは素材である、とタイトルしましたが、一枚一枚の写真イメージが素材として、スライドショーの枠組みを提供されていることに着目してのことです。つまり、スライドショーって、静止画の動画発想で、音楽つきスライドショーができるアルバムです。ニコンのアルバム、ヤフーのアルバム、ぼくはこの二つのアルバムのスライドショーを見て、考えているんです。このネット上のアルバムのスライドショーでは、写真イメージは素材なのです。


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<デジタル写真の展示方法>

かって印象派の第一回展が、パリはナダールの写場(スタジオ)を使って展示されたといいます。肖像写真館としてあった場所が、社交場であり、絵を飾る場所になりえたわけです。このような観点から、今の写真ギャラリー空間を思ってみると、写真を展示すると同時に、社交場でもあると思えます。

写真を写真として表出するかたちは、発明のころから紙を媒体として発達してきました。カメラ、フィルム、印画紙という三点セットです。絵画でもなく版画でもなく、写真といえば、この三つの道具がセットになっていたわけです。ところが、現在、この写真を制作し発表する道具が、カメラ、メモリー、モニターの三点セットになった。これが、写真制作の基本的スタイルとなりつつあります。

そこで、これまであったギャラリーの壁面に飾られる<写真>は、紙とフレームで仕上げた額装ではなくて、モニターにとって代わられる。この発想から、デジタルカメラで撮ったイメージを、液晶モニターで展示するという方法が導き出されるわけです。もともとギャラリーには、作家とミュージアムを媒介する役割を持っています。そしてギャラリーには、新しいスタイルを世に広めるという役割も持ちます。

写真制作の材料が変ってきて、いまやデジタルカメラで撮影、デジタルプリンターにて紙にプリントする時代です。この紙にプリントということは、従前のフィルムから導き出される方法であって、デジタルの延長ではありません。デジタルの延長は、テレビモニターです。だから、展示の方法も、液晶モニターを使うというのが、最新の方法だと考えています。


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<ギャラリーは社交場なのかも>

この5月30日、大阪十三にオープンした<ブルームギャラリー>。写真を展示するスペースです。たまたま昨日オープンしたギャラリーへ行ったんです。そしていま、これまでにも抱いていた思いを、ちょっと書いてみようと思って、これを書いています。ぼくのなかには、写真を展示する空間としてのギャラリーについて、さまざまな思いがあり、その思いを整理しながら、これからの在り方、役割、経営運営にかかる事、など考えないとあかんなぁ、と思っているところなんです。

というのも、かってフィルムを装填して撮るカメラだけの時代には、その出口として、紙に定着させるというのが第一の当然の帰結であって、その後の展開として印刷物に転載されて、流通する。あるいは、ギャラリーとか美術館などにオリジナル展示されて、鑑賞される。一般的には、この図式でした。

ところが、デジタルカメラになって、デジタル信号になって、パソコン処理が出来るようになり、あえて動く映像(動画)を再現するための道具、テレビ画面に表示されるようになり、動画に対して静止画として扱うとき、はたして、従前の紙に定着させる方法が、妥当かどうかとの問題に、いきあたっているわけです。

ギャラリーの空間で、写真をどのように見せるかという問題を考えると同時に、その役割をいくつかの部分にわけて、考えるなかの一つに、結論的に言ってしまうと、社交場としての役割がより大きくなったと考えています。写真発表は、ウェッブ上で行うことが一般的になり、ギャラリー空間を使うというのは、作家と作家をとりまく鑑賞者、鑑賞者とはいってもおおむね作家と面識がある人たち。その人の群れのための社交場。それが今様のギャラリーなのかなぁ。


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<何を撮るのか>

カメラを持って、写真を撮るんですが、ここで確認しときたいんですが、何を撮るのか、ってゆう問題です。
何を撮るのか、という問題は、単純には、目の前にあるものを撮ります。
目の前にあるものを撮る、とはいっても、おおむね、カメラを持って写真を撮るというのは、なんらか目的があって、撮るのが普通ですね。
写真を撮る行為は、写真を撮るという目的があって、実現することです。

では、写真を撮る目的とは、何ですか。記念写真を撮る。子供の成長過程を撮る。一般には、そのつどの節目に、写真に撮って残しておく、という欲求に基づいているのだと思います。
でも、そうゆうことではなしに、写真を撮るってことがあるじゃないですか。
写真表現とか写真作品とか、カメラを使って、作品と呼ぶモノを作る。このときに問題になるのが、何を撮るのか、ということですね。

何を撮るのか、という問いに、カメラを持った人は、なんと答えるのでしょう。
この答えが、撮られたモノ。写真の中に映されたモノ(物質)に現れるのだと考えます。この、何を撮るのか、そして撮られたモノ。これが写真の中味になってきて、中味について語り、語られる。
何を撮るのか、カメラを持った人が直面する問題。何を撮ったらいいのか、これもカメラを持った人が直面する問題。ここからですね、写真を撮るという、目的の始まり。

下に掲載した写真は<記録>写真の類です。そうしてこの場に掲載するのは京都写真学校の広報のためです。
そもそも、このブログじたい、京都写真学校の広報を目的とした枠です。その枠に、過去にあった出来事、写真セミナーの現場が、撮られていて、それがこの記事の枠作りの部分となっている例です。
撮るときに、この目的を想定して、撮っているわけです。もちろん、それだけではなくて、それだけではないところに、別のいくつもの目的が、あるといえばあるのです。別の目的をも、明確にしていきたいところですが・・・・。


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<写真の提示方法>

京都写真学校では、毎月定例で、写真セミナーを開催しています。
この写真セミナーも、この7月で58回目を終えました。
あしかけ5年がたったところです。
5年前といえば、まだフィルムカメラとデジタルカメラが入り乱れていたころです。
最近は、デジタルカメラが本流で、撮影から処理まで、デジタルです。
カラー写真もそうでしたが、デジタル写真も、工業生産品を使って制作するしか、ありません。
でも、これが、本流ですから、流れに任せるしかないんです。

そこで、人に見せる提示の方法。
かって、いまも、紙に定着させて提示するというのが主流です。
でも、ここで、考えてみてください、デジタルカメラによる写真。
紙に定着させる必要なんてなくて、パソコンとモニターで提示。
その試みを、京都写真学校の写真セミナーでは、行っています。
この4月から、原則、データによるパソコン画面提示です。
添削の方法が、一枚単位の紙の束ねではなくて、アルバム形式です。
写真の束を分解して、組立る作業なんかは、紙定着とは全然違います。
違うから、最初は、どぎまぎ、不慣れでしたが、最近は、慣れてきた。
そんな感じで、撮った写真を、すぐに見ることをしたり、データで提示したり、今流の提示方法です。

そろそろ、古い形式は捨て去り、新しい形式を紡ぎ出していきましょう。
京都写真学校では、このように考えて、実践しています。
添付写真は、2009.7.19、第58回写真セミナー。
モニターによる提示、添削、相互批評風景です。


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<写真とは?>

この雑学講座も久々の記事です、こんにちは。
写真について考えるんですけど、今時、<写真:しゃしん>って何なの?
写真の定義、画像、静止画像、そうゆう言い方のなかでの写真。
ぼくは、手作り可能な光定着の画像を<写真>となずけるのがいいかなぁと、思っているんです。

どうゆうことかとゆうと、カメラ、フィルム、印画紙、この物質のプロセスを、手作りできる範囲にあるモノを<写真>と呼べばいいのではないか。
カメラのなかへ光が入り、フィルムに相当する平面等に光が当たり、薬品が反応し、外の景色が定着できる。
このプロセスそのものを、自分の手作りで、最終、紙であれ、なんであれ、画像が定着されて、見れる。

コンピューターとデジタル技術を必須として、制作されるものと、区別すればよろしくて、これらは画像、静止画像と呼ぶ。
一方で、フィルムを使い、印画紙を使い、紙に定着させるところまでの、フィルム写真。
手作りからのプロセスで、ここまでを<写真>と呼んでいいのかも。
いずれの時にか、フィルムと印画紙は、生産ストップとなり、このプロセスで制作するには、手作りが必要、その時のために。
写真と画像の意味する範疇を決めておこうというのが、この趣旨です。

これでかなり、明確な線引きができるように、思うのですが、いかがでしょうか。
というのも、写真という代物は、手作り段階から制作されてきたものです。
その技術的発展から、映画が制作され、ビデオ、伝送画像、放送、メディアアート、等々への発展してきたいま、写真をどこで区切るかが、必要かと思うんです。