関西の写真史
中川繁夫:著
タイトル
写真舎「フォトハウス」
<フォトハウス京都>
フォトハウス京都が発した最初の案内は、1984年11月15日付で作られていて、郵便にて関係各位に発送しました。名称は「写真舎」としており、「PHOTO HOUSE」が別名で使っています。<写真舎「PHOTO HOUSE」からの御案内>と題された文書が二枚。<写真舎「PHOTO HOUSE」が行なう当面の事業について>と<写真舎「PHOTO HOUSE」の組織図>でした。この試みが想定どうりに進められたかといえば、完全にノーであって、ある意味、不作に終わったと思っています。気負いのほどには、状況は熱くなかったのだと思います。とはいえ翌年の夏には、写真ワークショップを開催するところにまで発展したから、内容組み直しで出発できたのだと思います。当時、1980年代の写真状況のことをふり返りながら、お話していきたいと思います。
1984年というと、この年の3月に、大阪府現代美術センターで関西在住の若い写真家49人が集まって「写真の現在展’84」が開催された年で、いま思うと、この展覧会は、ある区切りとなった記念碑であったような気がします。具体的には、どのような意味での記念碑なのか、ということをも問いながら、検証していく必要があると思います。ある種、写真表現をめぐるムーブメント、運動体的な輪がひろがってきて、その集合体としての写真展、ぼくのなかでは、1977年に横浜県民ホールで開催された「今日の写真・展77」を意識していました。というより、東京から発せられる、カメラ雑誌等をとおして得る情報を、近くて遠くて眩い感じで取り込んでいたのだと思います。
1984年当時、ぼくの頭の中には、1975年から76年に、東京で開催された「ワークショップ・写真学校」のことがありました。1976年には、自主ギャラリーが、「プリズム」「CAMP」「PUT」といった名称の自主ギャラリーが、ぼくらの世代の写真家たちによって設立されていたのを知っていましたし、80年代の初めにはまだ存続していた「CAMP」へは、東京へ行くたびに訪れていました。こうした東京を中心としたムーブメントを、遅ればせながらも関西に、作りたいという思いがぼくを突き動かしていたように思います。なんのことはない、前例のない企画ではなくて、前例をアレンジする格好で、写真舎「PHOTO HOUSE」が生成されてきたのだと思います。
フォトハウス京都と名乗るのは後日のことで、最初は<写真舎「PHOTO HOUSE」>との名称を使っています。文書の形式も事務文書に準じて作成しています。1984年11月15日付で発出された文書を、ここに掲載します。
写真舎「フォトハウス」の行う当面の事業について
私達たち写真舎「フォトハウス」設立準備会のメンバーは、その構想概要を明確にすべくミーティングを重ねてまいりましたが、ここに、写真舎「フォトハウス」の屋内当面の事業についての構想概要が明確になってきましたので、より多くの皆様のご指導を仰ぎたく、ここに列記し、ご賛同をお願い申し上げる次第です。
さて、私たちは、かねてから、世界にはばたいていけるイメージ都市<京都>において、現代写真の質を定着させるべく、また現代写真の質を具現化する人材の輩出に向けて、そのバック・グラウンド創りとして幾多の方法を考えてまいりました。
たとえば、「図書館に写真集を!」運動(1982.6)や、「フォト・シンポジウム in Kyoto」の開催(1981.11、1982.12)、また写真批評誌「映像情報」の発刊(1980.8〜1984.1)等々。そして現在(1984.11)なによりもそれら写真をめぐる潮流の意をくみとり、今後も引き続き、より発展的にそれらを総括し、新たなる写真をめざして、実践していける母体創出の必要を痛感してきたところです。
そこで、私たちは、写真という表現形態を持って、個々が一層主体的にかかわって、よりすぐれた写真活動のできる土壌を創っていく母体として、機能していけるシステムの創出を基本とした、写真舎「フォトハウス」の設立をもくろみ、ここにその準備会が発足しました。
写真舎「フォトハウス」として具体的には、次の様な企画と形態を考えています。
1、フォト・ワークショップの開講
2、フォト・シンポジウムの開催
3、写真展などの開催
4、写真批評誌の発行
5、写真集など単行本の刊行
6、その他、営業に関する企画
これらの事業を達成していくための形態としては、組織図において明確にされているように、写真舎「フォトハウス」のありうべき方向を協議するための運営委員会を設定し、その内容を具体化して実行する実務処理機関として総務事務局を設置しました。
また写真舎「フォトハウス」構想の中軸となる研究部門を総括する研究講座事務局の設置、また研究部門で成された成果を媒体として公表することを中軸とする出版局の設置、そしてそれらの流通機能を担当する業務企画局の設置。
これらの機能を整備することによって、写真舎「フォトハウス」の外観とします。
こうして外観についての構想はできましたが、要は内容の問題であると思います。そして、これらの事業を行っていく為には、ひとりや二人の力では、どうすることも出来ないものです。また事業を成すには、物、金、人という3つの条件が必要とも言われており、この各々について解決していかなければならない問題があります。しかし、だからと云って、あきらめてしまうのではなく、これらの意に賛同される人々は、今こそ、ここに総結集して、ひとつ一つと問題の解決のために、協同していく必要があるでしょう。
また、私たちは、現在であるがこそ、これらの行為や実験のすべてが意味を持つと、考えています。私たちとしては、何よりも現代写真が担わなければならない質は、私たち自身でしか担えないだろうと考えているのです。
写真舎「フォトハウス」へ、皆様のより豊かな創造で、積極的な参加を期待しています。
(以上)
1984年11月に呼びかけ文を送付されてから、月に一回ベースでミーティングが開催され、翌年1985年6月には第一回目のワークショップ「ゾーンシステム基礎編」を開講しました。この年は6回のワークショップを開催しております。いずれも一泊二日の日程で、場所は京都は左京区静原の鈴鹿邸を開放してもらっての開催でした。また、アメリカの大学で教鞭をとられており写真家でもあるベティ・ハーン女史による「ブルー・プリント」「ガム・プリント」の制作実習を、1985年6月に開催しています。
オリジナルプリントの概念が広まってきた時期、ファインプリント制作の方法を求めて、アンセル・アダムスが考案したという「ゾーンシステム」を習得する講座を、写真家里博文氏を講師として開講したものでした。6月に第一回目の「ゾーンシステム」講座を開講しましたが、秋には基礎編を二回、応用編(1)、応用編(2)と開講しています。
この年を第一期ゾーンシステム講座として、修了者名簿には10名の名前が残されております。またブループリント、ガムプリントの参加者を含めると約30名、現代美術分野で活躍中の多くの作家たちの参加で好評を得ました。古典的表現ツールである「古典技法」と呼ばれている写真制作の方法などの習得講座を、その後も開催していきたい旨の記録が残されています。
1985年 ゾーンシステム講座WSの実習風景 於:静原
最新更新日 2018.11.23