関西の写真史
中川繁夫:著
第一部
関西の写真史(1)-2-
-5- 2015.1.4
<浪華写真俱楽部>
関西の中心といえば大阪。これは関西経済圏の中心で、周辺に神戸があり京都がある。人が集まる都市単位に、関西の構図をイメージすると、こういった配置になるかと思います。奈良、和歌山、滋賀、神戸は兵庫、京都は丹後、三重と福井を含めて関西圏と見る向きもありますが、その中心は大阪。この大阪に誕生する写真?楽部、カメラクラブは「浪華写真?楽部」(なにわしゃしんくらぶ)、1904年に写真材料商の桑田商会の後援で創立された、とあります。翌年には第一回目の「波展」(ろうてん)が開催されたといいます。この浪華写真?楽部が関西では最初の写真グループでしょうか。後々に名を残している、上田備山、安井仲治、小石清といった人たちが、この?楽部の会員でした。いま2015年ですから、創立から111年目にあたります。
ぼくがこの浪華写真?楽部という名前を知るのは、雑誌「アサヒカメラ」の記事中だったと思います。それから1979年8月にぼくは釜ヶ崎の三角公園で写真展を開催するのですが、この写真展の記事が朝日新聞の夕刊社会面のトップに掲載され、翌日現地までこの写真展を見に来られた関岡昭介さんとお会いし、浪華写真?楽部の会員であることを知りました。心斎橋の百貨店の眼鏡売り場にいるというので、後日、訪ねたことがあります。当時、ぼくは京都を拠点とする「光影会」という写真?楽部の会員だったので、関岡さんは先生というより写真の先輩という感じでした。写真の先生ということでいえば、ぼくの先生は達栄作さん。1976年に会員になってから、深草のお宅へ頻繁に通って、写真の話しを交わさせていただきました。
話を戻して波華写真?楽部のこと、1980年のころのぼくには、関西写真界の全体構造はわかっていなくて、点として、歴史ある古い写真?楽部だと認識していたと思います。アサヒカメラ誌に掲載される記事を、読んでいるうちに知識として、その名前が、それらか達さんとの身近な会話のなかで、丹平写真?楽部、シュピーゲル写真家協会、といった名称が身近に思えていました。関西の写真状況を歴史的に把握していくなかで、写真?楽部の存在を無視することはできません。むしろ形や内容は変わっても集団を組むという流れそのものが、関西写真の外形史になると思います。そういえば地方ごとに集団を組むという構図は、日本の写真界の構図なのかも知れません。ぼくは、その中心となったのが、全日本写真連盟であり戦後に創設される二科会写真部であったと考えています。浪華写真?楽部は関西写真の中心軸、それに並列するかたちで全国組織の全日写連と二科会写真部があると思っています。
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<丹平写真?楽部>
大阪に丹平写真?楽部が結成されるのは1930年、昭和5年のことです。浪華写真?楽部の結成か25年余り、ここのメンバーであった人たちによって結成されたと言います。丹平(たんぺい)という名は、集まっていた場所が心斎橋の丹平商会(製薬会社)の丹平ハウスであったことから?楽部の名前とされた。メンバーは浪華の創設にも名が連なる上田備山、安井仲治の名があり、本庄光郎、棚橋紫水各氏らの名前が記録されています。ほかに、堀内初太郎、川崎亀太郎、岩宮武二、木村勝正、山本健三氏らの名前があります。また後に京都丹平のメンバーとなる和田生光(のちに静香)、大道治一氏らの名前も見受けます。
1930年代といえば美術界はアヴァンギャルド(前衛)の時代で、写真作家においてもシュールリアリズムの様相を呈した作品が残されています。またドキュメンタリー写真を彷彿とさせられる写真が撮られます。丹平写真?楽部と並立するかたちで、安井仲治氏らの地懐社、中山岩太氏、ハナヤ勘兵衛氏らの芦屋カメラクラブ、田中幸太郎氏らの稚草社、棚橋紫水氏らの光人会、大阪光芸倶楽部は入江泰吉氏や岩宮武二氏、などがありました。以上はいずれも、第二次世界大戦で日本が降伏する前、いわゆる戦前のことです。
戦後になって、丹平写真?楽部は、京都丹平、兵庫丹平、奈良丹平、と別れて再出発します。ぼくの手元には2008年4月にまとめられた京都丹平史譜があって、そこにメンバーを記した資料があります。名を列記してみます。代表木村勝正、幹事長和田生光、大道治一、石井信夫、中島良太郎、ほか・・・・。当時の会員数34名と記されています。1950年前後のことでしょうか。当時から1970年代には、カメラクラブでは、月一回の月例会で写真を並べ、一等二等と等位をつけて、たとえば一等は5点とかの点数制で年間合計を競います。これはカメラ雑誌の月例方式そのものですが、おおむね写真を競うという、現在ではその基準とか、どうしていたんだろうと思うようなことが、行われていた時代です。
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<シュピーゲル写真家協会>
シュピーゲル写真家協会は、1953年(昭和28年)に大阪を中心に活動していた8人の写真愛好者によって設立された、とあります。この8人の名前は、丹平写真?楽部のメンバーとして活動していた棚橋紫水、木村勝正、河野徹、佐保山堯海、岩宮武二、堀内初太郎、和田生光、玉井瑞夫です。そもそもの創立のきっかけは、丹平のなかで議論が起こったというのです。写真?楽部の運動方針というか指導方針というか、どうあるべきかという議論だと聞きます。初心者指導にあたるのか、高度な作家活動を目指すのか。結局、初心者指導に重きを置く方針が決められたというので、上記の8人が高度な作家活動を目指して、シュピーゲル写真家協会を立ち上げたといいます。シュピーゲルとは「鏡」の意味であると書いてあります。
2015年現在でも、シュピーゲル写真家協会は活動している団体です。関西の写真史を紐解いていく中で、1970年代頃までの関西写真史において、中心的な立場にあった組織だと思います。公募を行い公募展を開催し、賞を授けるという、ある種の権威を持っていたと思います。東京に本部を置く全国規模の写真団体がありますが、それに対抗するようなかたちで組織を運営していたようにも思えます。東京発、二科会写真部、全日本写真連盟、それぞれに関西支部があって、ぼくはこの関西支部に所属していたのです。それぞれのグループが美術館や公的な会館を展示場にした写真展が行われていました。インディペンデントと呼ばれる写真家たちが産声をあげて生まれてくる前後です。
1976年だったと思いますが、シュピーゲル写真家協会のお歴々の講演会があると聞いてそのホールへ行った記憶があります。遅れて行ったせいか会場はいっぱい、後ろ手立ち見でした。すごい!、ぼくが受けた率直な感じでした。会場むんむん、なんせ著名な先生方が壇上に並んでおられる。うしろからでは遠くて顔なんてわからない。そんな記憶がよみがえってきます。さて、そのころの写真の傾向というか作風ですが、風景、外国旅行に行って遭遇した風景、街角風景などなど、無駄のない構図、画面の中での緊張感、などなど写真のタブローとしての典型がそこにはあるように思います。ぼくが写真を撮りだした1970年半ば、駆け出しのころの記憶をたどっています。カメラメーカーではハイレベルアマチュアにはニコンが強くて、ニッコールクラブの会員には撮影会に参加できる特典があって、モデル撮影会に参加したことがあります。全日本写真連盟の支部でも撮影会が催されて、参加させてもらったものです。それらは現在においても続けられているのでしょう。
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<カメラ雑誌・東京発情報>
カメラを持って写真を撮る人のことをカメラマンと言っていますが、カメラで写真を撮ることを職業とする人のことをプロカメラマンといい、職業としていない人のことをアマチュアカメラマンと呼んでいます。このプロとアマに区分されてプロが優位でアマが下位というイメージをふりまいて区分しています。いってみれば調理師免許を持って料亭やレストランで料理をする人か、家庭で料理をする人か、の違いで前記の料理人が優位だとする論法と同じ構造を持っています。写真?楽部の構成員、つまり部員や会員ですが、プロとアマの混在で、プロがアマよりも優位に立っていると思っているように見受けられています。どういう経路を経てプロカメラマンになってきたのでしょうか。そのひとつに大学や専門学校で写真を学ぶ、写真学科を卒業する、という方法があります。これはお墨付きになります。写真技術のの検定国家試験もありますが、これは余り有効には働いていないように思えます。
かってはカメラ雑誌があって、このカメラ雑誌には月例コンテストというシステムがあって、応募して順位を決めてもらって、順位が点数になって、この点数を年間単位で競うということがありました。この月例で名をはせたところで知名度もあがり職業カメラマンとして独立する、ということがありました。それだけではなくて、街の写真屋さん、フィルムを売り、撮られたフィルムを現像し、プリントしてあげてお金をいただく。写真の技術をマスターするとカメラ店を経営し、写真を作り、写真展に出展する。そうして知名度をあげていく、全国組織の写真連盟や美術団体の会員や審査員になっていくことで地位を確立していく。その時々の時代のなかで、大きなテーマとなる領域が写真の潮流にも現われてきて、リアリズム写真とか心象写真とか、その内容を具体化していく作業で、作品が生み出される。
写真界の情報は、東京を中心としたメディアによって、各地にもたらされます。そのメディアのひとつにカメラ雑誌があります。1970年当時には、アサヒカメラ、カメラ毎日、日本カメラ、フォトコンテストといった月刊誌が発行されていました。1984年休刊となったカメラ毎日を除いて、それらは2015年現在でも存続しています。関西圏にいて情報を得る手段といえば、カメラ雑誌からの情報が主流であったと考えています。東京から発信される情報。先にあげた月例写真コンテストが目玉であって、カメラメーカーの新製品情報、ハイクラス向けの技術情報、それらが記事となって流されてきます。地方の写真愛好者は、おおむねカメラ雑誌の愛読者です。そのなかでも異色な企画を立てていたのが、カメラ毎日、であったと考えます。1970年代以降、関西の写真を語るうえではずせないのが、ここからの東京情報であったと考えています。
-9- 2015.2.12
<新しい潮流の1970年代>
1968年に東京で、写真同人誌<provoke>が発行されます。当時から東京発のカメラ雑誌の記事が、ある意味全国の写真愛好家たちを均一な土俵にのせていく役割を担ったと思われます。1968年はどういう年であったかというと、学生運動、学園紛争が最高潮になっていく年です。この政治運動の流れを真に受けとめたり横目で流したり、当時の若い世代の反応はまちまちですが、そのことを意識せずにはいられない事象でありました。<provoke>は、そういう潮流のなかで発生してきた季刊同人誌です。写真の系列ではめずらしい同人誌ですが、文学においては、文学同人誌がたくさんありました。文学のレベルで、小説家や批評家が、同人誌で執筆するということが作家への登竜門であったとすれば、写真における<provoke>はそれからの写真作家を生み出すシステムの萌芽があったとは考えられまいか。
「地平」という同人誌が発刊されるのは1972年です。以後「地平」は1977年9月に10号を発刊し休刊となります。関西で、大阪で、「大阪写真専門学校」で教鞭をとる黒沼康一氏が編集発行人であり、黒沼氏の論説を軸にして、若い写真家たちが集います。たちえば「地平」創刊号に写真を投稿しているのは、百々俊二氏、梅津フジオ氏、山下良典氏らで、彼らは大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ大阪)で教鞭をとったり周辺で活動したりで、若い学生たちに影響を与えていきます。明治以降累々と続いていた浪華写真俱楽部からの関西写真シーンで、それら従前の写真クラブを中心とした活動が主流であったところから、若い世代の新しい潮流が発生してくることになってきて、写真の愛好家たちの層は、二重構造を持つことになってきます。
大阪には、写真を学ぶ学校法人の学校がいくつかあります。代表的な学校をあげるなら、大阪芸術大学写真学科、当時の名称で表記しますが、日本写真専門学校、大阪写真専門学校があります。もともと写真学科や専門学校では、職業カメラマンを養成する教育機関で、そこを卒業することで職業カメラマンとして仕事をしていくことになるのでした。これは東京レベルでも同様で、日本経済の高度成長時代にコマーシャル分野でカメラマン需要が増加して、それにともなって写真学科や写真専門学校が設立された経緯があります。1970年代になると、写真学校を卒業しても思うような写真家職業に就職できないという、過剰人員をかかえた業界となってきたのだと言われています。職業としてつけない写真学生などが、どうしていくのかというと、写真作家という枠組みが作られ、写真作家を標榜するようになるのです。
-10- 2015.3.14
<新しい潮流の1970年代>2
1960年代の後半には大学紛争と言われている事態が、東京の大学から派生して全国の大学に及んでいく時期でした。若い人たちの関心ごとが政治に向かっていった時代でした。写真を愛好する若い人たち、当時大学生であった人、また高校生であった人たちが、写真を撮ることを通じて、政治のありかたに関わっていった時代でもあったと思えます。写真を撮るということが、それ自体が目的ではなく、考える手段である、という考えが生じていたのではないか。文学や演劇といったジャンルと呼応するように、新しい写真の群が生まれてきていたのではなかったか。
商用に使う写真、つまり写真館の記念撮影とか、新聞雑誌掲載の写真、当時には盛隆をきたしてくる広告の仕事など、写真を撮ることで仕事としての対価をもらう、ということに対して、そうではない、俗にはアマチュアと呼ばれる写真愛好者たちが、カメラ産業を支える群として、前時代からみればとんでもなく沢山の人数になっていた時代でもあります。写真を撮ることを趣味とする。そのためには旅行をする。そのためには展覧会をする。そのためには・・・・、というように日常生活から離れて、写真を撮ることそれ自体が目的となって写真を撮る。いや、無意識ながらも、そうではないとする風潮が起こってくるのがこの時代、1960年代から1970年代にかけてだったのではないか。
大学の中ので写真部や写真同好会に集まる学生で、文章ではなくて画像をもって表現の手段とする人たち。学生を終えて社会人となって、なおかつカメラを持って画像をつくる人たち。こういった人たちを支えているメディアは、東京にあり、東京の動きが地方に及ぶ。ぼくは1970年代の半ばから写真に興味を覚えて、写真を撮り始めて、関西にいるけれど、その情報の大半は、カメラ雑誌から得ていました。すでにその頃、東京を中心として、新しい写真家の動向が注目されるようになっていたのです。カメラ雑誌の記事には、新しい潮流を生むべく内容の記事がありました。それらはもちろん写真批評家であり写真家であり、人がその中心です。
関西の写真家たち、とはいっても先に二重構造を指摘しましたが、その新しい潮流は明らかに東京から発信される情報に影響を受け、みずからの行動指針として反応してきたように思えます。関西の写真史、その表面に出てくる新しい潮流の成果物として記述するなら「オン・ザ・シーン」という同人雑誌のような同人雑誌でもない印刷物の成果をあげることができると考えています。ただし「オンザシーン」誌の発行は1980年になりますが、おおむね1970年代後半の関西の写真状況を反映するものでした。
最新更新日 2018.11.23