関西の写真史
中川繁夫:著
第一部
関西の写真史(1)-1-
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語り始め 2014.12.13
もう一年以上も前に書いていた「関西の写真史」、中断して久しい気がします。いつも心残りのまま、ほったらかしにしていた文章です。書いても何の反応もなく、読者もいないのに、と思う気持ちがあって、ぼくのなかでの書くべく優先順位としてだんだんと下がってきていたところでした。モチベーションがさがる、そうゆことなのですが、それよりも、かって書いた文章たちを、デジタル化していくほうに傾斜してきたところです。
ところが最近になって、ぼくが書いて載せているHPなんかを見て、読んでいただいている方がおられる、というこのもわかって、書かないとあかんわなぁ、なんて思いだしたところです。そうはいっても、すぐに取りかかるほどにはモチベーションが高くなく、関西写真史を書くというより、文章じたいを書けなくなっているところです。かんたんなお茶をにごすというまさにそのような文章を、ブログに載せたりしているけれど、それもままおろそかになるところです。
とはいいながら、意欲はあるんですが、取りかかるまでに気持ちの準備がいります。ほかの文章を書いていて、このことに集中するゆとりがなくなっているんです。でも、中途半端なままではいけないと思うので、ゆるゆると書きだして見ようかと思ったところで、このブログを開いたわけです。あらためて、最初から書きだす方がいいのかもしれないと思っていて、若干、通史からはじめてみようと思っています。また、中途半端なことにならないように、こころがけます。参考のため、ぼくの写真史HPをリンクしておきます。
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ぼくの自伝風に体験をベースにしてあれこれと書いていく方が、スムーズに進められるように思っています。思い起こせば1975年、昭和50年に大学を卒業したんですが、そのころはまだ文学研究を友だちたちとしていました。最後のころには夏目漱石をテーマにあげて、文学論を語ろうとしていました。でも、60年代のおわりから70年代にかけて、学園闘争があって、それが終わって普段の学生生活に戻って、目的を失った動物たちが右往左往している感じで、こころはシラケてしまって、という情況だったかと思います。学友たちはそれぞれに新しい生活に入っていたし、ぼくにはもう妻子がある身の上でした。カメラを買うのはその頃のことです。長女が三歳くらい、次女が生まれたころです。職場に店を出しに来るカメラ屋さんに勧められてニコマートを買ったのです。
写真を撮るということへの興味は、たとえば小学生の上級になって、小さな今で言えばトイカメラを買ってもらって、伊勢への修学旅行に持っていったのを覚えています。それから中学生三年の時には、八ミリフィルムをカートリッジで入れるカメラを持っていた、というのは買ったのでしょう。学校へ持っていって、かなり頻繁に撮った記憶があります。もちろんモノクロフィルムで、近所の写真屋さんへ持って行って現像と紙焼きをしてもらって、フィルムを詰めてもらう。そういえば友だちに写真好きがいて、チンチン電車が終わるというので写真を撮りに行きました。父がブロニー判のカメラを持っていて、そのころは父のブームが去っていて、ぼくが使うことが出来た。高校の一年のときには、そのブロニー判カメラで撮っていました。
案外、カメラ扱いは上手だったように思います。そのころなんて露出計はありませんでしたから、大体の見当で絞り値とシャッター速度を決めるのでした。フィルムの感度はASA、今のISOですが、100です。作品がどうこうなんて考える余地もなかったし、教えてもらうこともなく、見よう見まねでカメラ操作をしていた。二十歳になるころ、ラピッドカメラって言ったかと思うんですが、フィルムを装填すると自動巻きあげになるカメラを、彼女と二人して買いました。それから半世紀近く経っているのですが、先日、ネガカラーをスキャンしていたら、その時の写真がフィルムのなかにありました。プリントしたものは現存しているんですが、フィルム発見です。こうして家庭にカメラを持ち込む時代の、その時代のままに、ぼくの写真とのかかわりが始まっていたのです。
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ぼくが東京から京都へ戻ってきたのが1969年10月の終わりごろ。この年の10月21日という日は、国際反戦デーで大きな騒動が起こった日です。この年の3月、京都にあった出版社の東京勤務となって、本郷の会社と西片のアパートとを行き来する生活をはじめました。小説家を目指していた自分には、どうしても東京生活がしたいと思っていたんです。いわゆる上京ってことになるんですが、ひとまず大学に休学届をだして、出版社で仕事をすることができるようになったのです。意気揚々といえばよろしいでしょうか、夢と希望を抱いて、大学紛争さなかの東京へいきました。文学の情況はそれなりに情報を集めていました。月刊雑誌では「情況」というのがあって、読者でした。時代の写真家として有名な中平卓馬氏がここの編集部員だったことを後に知ることになるんですが、ぼくはまだ文学青年で、写真青年では全くなくて、写真を撮るなんてことは贅沢な趣味だと思っていました。というより恋人や友達を撮る以外に、写真を撮るなんて、思いもよらなかったのです。
ニコンのカメラ、標準レンズ付きのニコマートを買うまでの五年間、今思うと新しい生活を体験しながら家庭をつくっていく平均的な、つまりごくありふれた、どこにでもありそうな、モデル家族だったと思われます。でも、この五年間は快い風に吹かれながらも、屈辱に満ちた年月でもありました。三年遅れで大学生になり、三年遅れで全共闘運動を体験し、その前からつきあっていた彼女と結婚し、一年後には子供が出来て、三年後には次女ができて、まだまだ文学を捨てきれなかったところでカメラを買ったのです。年齢は27才になっていました。関西の写真史というタイトルをつけているのに、写真の話しが出てこないのを不審に思われるかも知れませんが、ぼくの写真歴の前史として書いておかないと後につながらないと思うからです。
こんな書き方をすると、ぼくの写真人生40年が関西の写真史だ、とも思われそうですが、ぼくが書く写真史だから、ぼくの主観と体験が底流になるから、つまりぼくが書き連ねる関西の写真史、というわけです。1970年のはじめから、伏見郵便局に勤めだして、集配業務から貯金の窓口業務になっていきました。京都の伏見って処は酒造会社が多い処です。窓口業務になって、そのころの郵便局はオープンカウンターではなくて、鉄格子ではなかったけれど、仕切りがあって、でもロビーのガラスの外には灰色の鉄格子、道路の向こう側は酒蔵の茶色い板壁です。気持ち的には、東京は本郷界隈で仕事をしていたぼくには、閉鎖された空間、耐えられそうもない視覚に、耐えていました。京都へ戻って郵便局に職を求めたきっかけに、東京で本郷郵便局が会社のほぼ隣にあって、昼時には近くの食堂で制服を着た郵便局員と一緒になっていたから、新聞の求人欄に出ていた広告をみて、問い合わせたのだと思っています。
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カメラを買った当時の、撮る目的は何だったかと問われれば、家族を撮るため、と答えます。時代は1970年代の半ばです。ぼくらの年代の価値観でいえば、遠いところの出来事よりも、身の回りに起こる出来事のほうに、興味がわいてきていたように思います。戦後に生まれたぼくらの、1960年代って外化の時代で学生運動とかに惹かれて進んでいったと思うんですけど、それが終わった1970年代は内化の時代となっていたようです。身近な家族、妻や子、ちょっとはにかみながらも素敵な生活が目の前にありました。コーヒー豆を買ってきて、ミルで豆を挽いて、ホウロウのポットに挽いた豆をネルの袋にいれて、お湯を注いで、コーヒーを飲む。素敵な生活のイメージが、週刊誌や雑誌に特集されて、フォークソングなんかも盛んになって、それはそれは素敵な家族生活が、目の前の関心ごとでした。
ぼくがカメラを買って、最初に向かう被写体は自分の子供、家族、まだ幼年だったけれど子供の幼稚園の友だちとその家族。まだ写真?楽部に参加する前のフィルムには、家族が写っています。カメラを持って最初の交友は、職場にあったカメラクラブでした。そこでカメラ雑誌を見ました。雑誌の名前はアサヒカメラでした。職場の先輩であり写真の先輩でもあった庶務課のひとに、いろいろと写真のことについて話をしました。伏見にいたので伏見近郊の名所を撮影に行きました。カメラを持って作家をするようになる人の、最初のきっかけは様々です。これはぼくの最初のころの話しです。最初のころは、カメラ雑誌が先生で、職場の先輩が先生でした。暗室をはじめるのも、このころでした。フィルム現像はまだしていなくて、紙焼きだけ。そのうちフィルム現像も始めることになります。
朝日新聞を購読していて、そこの社告に、全日本写真連盟の入会を促す記事がありました。新聞に月例写真の入賞作品が載っている。そんなこともあってか、個人会員として入会しました。目の前にひろがる会員さんたちの写真が、とっても素晴らしいもののように思えました。モデルさんを使った写真、風景の写真、写真の構成とか、ぼくにはわからなくて、知りたい欲求に満ちだしていたのだと思います。そこそこしているうちに京都シュピーゲル写真?楽部が改称された「光影会」というカメラクラブに入会します。当時の主宰者は達栄作氏、ぼくの最初の先生となる人物です。京都シュピーゲルは、大阪に本拠をおくシュピーゲル写真家協会から派生した京都グループです。大阪のシュピーゲル写真家協会のメンバーだった木村勝正氏が京都で旗揚げされた写真クラブです。ぼくはたまたま、そこのクラブのメンバーとなったのです。
最新更新日 2018.11.23