関西の写真史
中川繁夫:著


オン・ザ・シーン

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写真雑誌「オン・ザ・シーン」は、1980年創刊、1985年第六号を発刊して休刊となりました。関西の写真史、とくに1980年代を中心に、筆者、中川繁夫の記憶と若干の資料をベースに、書き起こしているところです。「オン・ザ・シーン」誌においては、第四号に筆者自身の写真「無名碑」23点を掲載してもらったこともあり、親密感を抱いています。筆者においては、同時期、個人誌「映像情報」を編集発行していた経緯もあり、深い交流がありました。

発行所は写研工房、事務局はスタジオ・シーン、1982年9月発行、四号の発行人は中村一夫、編集長永田典子、編集スタッフに浅井英美、阿部淳、新見輝人、飯間加寿世、太田順一、奥野竹男、田中嗣治と名前が載っています。大阪市東区瓦町のビルの一室にあったにスタジオ・シーン。大阪写真専門学校(現・ビジュアルアーツ大阪)を卒業したメンバーの仕事オフィスが、その事務局となっていました。

    

写真表現の方法に、いくつかの潮流があるとすれば、「オン・ザ・シーン」に掲載される写真には、1970年代の揺れ動く被写体を撮った揺れ動く写真、また1980年代の潮流となるシリアス系写真、静止した写真というか、凝視する視点というか、そういった写真が、混在して掲載されてきたと言えます。その意味においても、筆者は「オン・ザ・シーン」誌は、関西の写真史、1970年代から1980年代を論じるのに、欠かせない雑誌だといえます。

創刊号の特集は「挽歌」、写真発表は、伊ヶ崎光雄「南の風サンタモニカ」、田中嗣治「真南風」、太田順一「ナッシング」です。第二号の特集は「貌」、写真発表は、百々俊二「休日」、飯間加寿世「家族」、太田順一「日記・藍」、奥野竹男「潮風」です。連載写真通信「ふぇろう村から」華房良輔と浅井英美、ノート「推理から認識へ」西井一夫、と名前が続きます。

メディアを持つということは、人が集まり、人が動き、人が繋がる、そういった役割をになっていくことになります。「オン・ザ・シーン」という雑誌メディアが、個々の個人に還元され、還元された個人が別の枠組みをつくっていく、その流れができてきます。相互に関連し合い、影響し合い、潮流は形成され、流れていきます。1980年に創刊される「オン・ザ・シーン」誌は、潮流の一角を占めるメディアとして存在した、と考えています。

    

(2)
1980年に創刊される「on the SEENE オン・ザ・シーン」誌を軸にして、当時の関西の状況を書き上げてみます。オンザシーンに集まった人たちの群、これらの人々の大半は、1960年代の後半から始まるコンポラ写真の系譜を受け継ぐ作風といえばいいかと思います。東京を中心にして、コンポラ旋風が吹いてきますが、その中心メディアは、月刊のカメラ雑誌、そのなかでも多大な影響を与えてきたのが「カメラ毎日」のような気がします。

1975年に始まる「ワークショップ・写真学校」、そこから展開される写真展や、自主ギャラリーの動向が、雑誌を通して関西の若手写真愛好者にも伝わってきます。全国的に均一な表現方法として、カメラ雑誌が果たす役割は大きな意味を持ちます。ある意味、ここでも東京化現象が起こっています。

東京が中心であって、それ以外は地方、東京に情報が集中して地方に広められていく。この図式が写真を取りまく環境にも表れてきます。とはいえ、関西において中心をなしてきたシステムが、アマチュアカメラクラブ。浪華写真倶楽部(1904年〜)に始まるカメラクラブの系譜の中から、多くのカメラクラブが林立している状況です。

写真を教える学校、大学とか専門学校ですが、関西、大阪には大阪芸大写真学科、日本写真専門学校(現:日本写真映像専門学校)、大阪写真専門学校(現:ビジュアルアーツ大阪)、その他にもいくつかの写真を教える学校がありました。

写真を撮ることを職業とするカメラマンの人たち。会社所属の人、スタジオを経営している人、フリーで仕事を請け負っている人。いわゆるプロカメラマンの人々。1980年当時の、関西での大きな流れは、アマチュアの人、プロの人、写真学校卒業の作家指向の人、などが混在して、潮流をつくっていました。

そのなかで生まれてきた写真誌「オン・ザ・シーン」は、大阪写真専門学校を卒業した若い写真家が中心になって活動が続けられてきて、若手写真家たちの中心的なメディアとして存在します。現在(2012年)のように、インターネットなどのメディアがなかった時代です。日本の写真1970年代から1980年代を眺めてみると、写真のオーソドックスな潮流として、表現の方法、内容、ともに関西における中心的役割を果たしたメディアでありました。と同時に編集に携わったメンバーが、また、中心的役割を果たすことにもつながってきます。

大阪写真専門学校の教官たち、そこで学んだ学生たち、東京とつながり、東京の潮流を関西において具現化していくメンバーたち。写真というメディアの、時代の中心的プロパガンダーとして、その役割を演じていたと、いい意味で認識しておく必要があるでしょう。

    

(3)
現時点(2012年)の位置から、1980年初頭の状況を語るとなると、俯瞰して見えてくる流れがつかめます。1980年に大阪で発行された「オン・ザ・シーン」誌、この雑誌を軸に、その前、それ以後、1960年代から2000年ごろ、20世紀後半から終わりまでを、流れととらえてみます。

1960年代後半には、東京で「プロヴォーク」誌が発行されます、この「プロヴォーグ」誌は、いわば新しい世代による、古い質の写真の解体をはらんだ運動ととらえられます。この傾向、作風を含め福岡において「地平」誌が発行されます。この「地平」のメンバーが大阪において、「大阪写真専門学校」の教員として活躍します。「オン・ザ・シーン」誌を発行するメンバーが、大阪写真専門学校の卒業生であることに注目すれば、人脈として、新しい世代の写真解体運動を含めた質を、継承していたと言えます。

日本の写真表現の方法は、1970年前後に、あるレベルにおいて、文学領域を内含するようになったと考えています。その文学の軸となる自然主義から私小説への意識を、写真に持ち込んでくる。つまり私写真、私の見る風景、といった内容の写真群。おおむねそれらはドキュメント手法によっています。この流れは、現在においても紆余曲折はあれども、「ビジュアルアーツ大阪」を基軸として続いている傾向です。

いっぽう、1980年頃には、「プロヴォーグ」以後の、コンポラの流れをくんでいる写真のレベルがあります。写真の被写体と制作態度を、より開かれたものとするように。写真を閉鎖的な場所から開放的な場所へ。プライベートゾーンからパブリックゾーンへ、その後者を担う写真家と写真の群です。

この論文の筆者、中川繁夫による「映像情報」、その後に設立される「フォトハウス京都」。その後には、大阪において畑祥雄氏による「大阪国際写真センター」の設立と行政レベルを巻き込んだ写真講座の実行。1990年代に入ると、「写真図書館」の設立、インデペンデント系写真学校の運営、写真表現大学、OICP写真学校。人が集まり学習し発表していく基盤として、形成されてきます。

    

2012年現在において、ビジュアルアーツに学び作品を発表している人たち。写真表現大学等を修了して作品を発表している人たち。その他には大阪芸大写真学科を卒業した人たち、成安造形大学を卒業した人たち、日本写真映像専門学校を卒業した人たち。関西の写真シーンを担う学校の教員、ギャラリー主宰者等、おおむねこういったグループのなかで、活動していると言えます。

1980年代以降は、現代美術と写真という軸が現われてきます。現代美術作家と呼ばれる人たちがカメラを使って作品を発表する。従前に写真と呼ばれていた作品、それとは別に、写真制作の手法に、現代美術のコンセプトが形成されてきます。いま、あらためて、写真とは何か、現代美術における写真とは何か、こういった議論が起こってきてもいい環境だと思えるのですが。

ともあれ、1980年に創刊する「オン・ザ・シーン」誌は、それ以後の写真に作家とコンセプトにおける内容を、持っていたと言えます。

    



































































































































































































































































































































フォトハウス

最新更新日 2018.11.23


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