関西の写真史
中川繁夫:著


映像情報

(1)
新しい映像の評論理論誌と銘打たれた「映像情報」誌の創刊号は、1980年8月1日付です。フリー・スペース聖家族通信が、その7月、第五号をもっておわり、その延長上に「映像情報」が発行されました。1984年1月15日発行の第12号まで、三年半にわたって、不定期刊されてきた中川繁夫の個人誌です。

創刊号の内容には、フリースペース聖家族通信の80.8月号を載せています。映像情報からの告知として、次のように言っています。

<月刊「映像情報」は、フリー・スペース聖家族通信が発展的廃刊となったあとを引き継ぐかたちで、創刊されたものです。まだまだ情報誌としての体裁には至っていないし、情報源そのものも不足です。しかし今、80年代にはいって、ミニコミとしての情報誌の必要を痛感するところから、自然的に発生してきたものです。今さら、その理由を述べるまでもなく、十分にその意は汲みとってもらえることと考えますが、ぼくら自身のメディアを持つことによってのみ、現今の映像の閉塞状況を打開していくことができると思うのです。(後略)>

百部発行、一部百円、編集発行は「フリースペース聖家族事務局」として、月刊「映像情報」編集室を設け、発行人は中川繁夫。手書き10ページのコピー版、ホッチキス止め、この時点では、フリースペース聖家族で展覧会等の企画を実行し、その理論誌として目論まれたのが「映像情報」でした。

創刊号の目次には、写真評「四才児の写真をめぐって」、写真展評・イベント評、中川が書き進めていた連載「私風景論」があります。これらの内容からは、写真をめぐる様々な問題点をあらわにし、マスメディアと向きあうパーソナルメディアとして展開していく姿勢が汲みとれます。

こののち1984年11月には、フォトハウス構想の発表が行われますが、それまでの間、映像情報編集室として、先に記した本号12巻、写真集として中川繁夫作「夢幻舞台」発行、号外の発行等、印刷物として発行されていきます。

    

(2)
フリー・スペース聖家族通信を引き継ぎ、映像情報が創刊されるのが1980年8月です。編集発行は、フリー・スペース聖家族事務局、月刊「映像情報」編集室。発行人は中川繁夫。新しい映像の評論理論誌とサブタイトルがつけられています。

1970年代半ばから1980年代にかけて、写真を取りまく環境が大きく変化してくるときでした。新聞や雑誌に掲載される静止画イメージ・写真の範疇から、写真を個の表現作品として扱っていこうとする考え方です。紙媒体にてメディアの主流があった時代から、テレビメディアへと移行してくると、写真より映像がその主流となってきます。録画できる電磁テープ、ビデオが開発され、フィルムにかわる方式として記録の主体となってきます。

写真が、商業の中心から周辺へ追いやられることで、写真撮影技術を修得したカメラマンの、金銭授受をともなうマーケットが縮小してきたといわれています。そこで写真の独立、絵画や版画と同様に、作品として売買するということが浮上してきたと思われます。オリジナル・プリント。写真を写真単体として売買する、そのことが具体的になってくる年代でした。

おそらくそこで、写真をめぐる論、考え方、捉え方といった領域で、評論・理論を求めていたのだと思います。社会の変化、メディアの変化、大きな転換期にさしかかった写真制作の現場で、映像情報は試行されたと解釈しています。当時、東京では佐藤元洋氏が編集発行のCOPE、コペ(個人誌)があり、写真装置が発行されます。関西では中川繁夫が編集発行の映像情報(個人誌)が創刊され、オンザ・シーンが発行されます。

文学における同人雑誌の形態が、写真においても1960年代から、いやはやその昔から、巷のカメラクラブは同人形態をとっていたし、現在においても、二科会とか視点委員会とか、同人(会員)形態をとっているといえます。職能団体である日本写真家協会もふくめ、ある傾向の作品をつくるグループからそれを職業とする団体、それらが写真という作品をめぐって、業態をつくっているんです。

写真を制作する技術、写真を売買するための枠組み、そのための学校、そのための組織。そうして、写真を社会学的に、芸術学的に、心理学的に、言いだしたらきりがありませんね、哲学的に、歴史的に、等々。つまり、評論・理論の構築、その必要に迫られていたのが、1980年代の初めであったと考えます。

1970年代にはカメラマンと仕事のバランスが、供給と需要のバランスが、崩れ出したと言われています。つまり意識の高いカメラマンが、みずからの生活費の獲得と名誉のために、浮遊する写真作品の底辺を理論武装させようとの試みだったのではなかったか、です。映像情報の試みは、この真っ只中において、個人誌として作られてきたメディアでした。

(3)
全12号の記事タイトルをまとめてみます。

創刊号、1980.8.1発行
・フリースペース聖家族通信
・写真評論、四才児の写真をめぐって
・写真展評、イベント評
・連載:私風景論(2)
・映像情報からの告知

第二号 1981.1.1発行
・映像情報、情況
・写真論、「花嫁のアメリカ」その方法と成立の考察
・私風景論(3)、以下四号まで連載
・映像情報からの告知、編集後記、以下最終号まで連載

第三号 1981.3.1発行
・映像情報、情況、以下最終号まで連載
・写真論、土田ヒロミ論
・写真「無名碑」(1)
・写真「冬の旅より、金沢」

第四号 1981.5.1発行
・写真「春日の光景」
・写真「無名碑」(2)
・釜ヶ崎取材メモ「大阪日記」(1)
・写真論、沖守弘論

第五号 1981.7.1発行
・京都の写真状況が教えるもの:石原輝雄
・写真「無名碑」と「大阪日記」、以下最終号まで連載
・写真論、「記録とは何か」一枚の写真から

第六号 1981.10.1発行
・映像論「写真、映画、ビデオ論」(1)
・写真論「写真は芸術にあらず」:石原輝雄
・映像情報からの告知、出版案内

第七号 1981.12.1発行
・映像論「写真、映画、ビデオ論」(2)
・東松照明「太陽の鉛筆」試論:三谷俊之
・写真「81夏-自宅周辺-」

第八号 1982.2.1発行
・映像論「写真、映画、ビデオ論」(3)
・写真論「いま、写真行為とは何か」
・フォト・シンポジューム・イン京都、討議録
・写真と文「私風景・日記」

第九号 1982.5.1発行
・写真「自宅周辺」
・映像論「ビデオ状況の出発点」:岡崎純
・東松照明論(1)「内灘、長崎、沖縄の系譜」

第十号 1982.8.15発行
・写真「続自宅周辺」
・”おなにい”としてのビデオアート:吉田幾俊
・写真「釜ヶ崎」
・東松照明論(2)「内灘、長崎、沖縄の系譜」

第十一号 1983.8.15発行
・写真「続続自宅周辺」
・いま!東松照明の世界展、大阪展、私自身のための総括

第十二号(最終号) 1984.1.15発行
・写真「西陣の人々」京都シリーズ抄
・写真の現在展’84 アピール
・写真評論「現代写真の視座」

ほかに号外が第五号まで発行されています。

















































































































































































































































































フォトハウス

最新更新日 2018.11.23


関西写真史目次

フォトハウス



関西写真史目次に戻る