関西の写真史
中川繁夫:著
釜ヶ崎青空写真展
釜ヶ崎青空写真展 1979.8
1979年8月、大阪市西成区萩ノ茶屋、行政名あいりん地区、通称釜ヶ崎、ここに労働者が集う三角公園って呼んでいる公園があるんですが、ここで写真展を開催することになりました。企画は中川繁夫、主催は釜ヶ崎夏祭実行委員会(って名称だったと思う)。ベニヤ板三枚、高さ180×横幅270の壁面にキャビネ版250枚を掲示するというもの。夏祭り開催中に撮った写真を翌日に展示し、写っているのがあれば持ち帰っても良い。この展覧会を四日間開催しました。
写真展が催される場所には、ギャラリー、美術館、そういった専用空間において展示されるのが通例です。1979年当時、ぼくは京都市内で開催される大きな写真の合同展に、出品する権利を持っていました。関西二科展、全日本写真連盟写真サロン展、同連盟選抜展、光影展、それなりの装いをして京都市美術館、京都芸術文化会館などの壁面に展示するのでした。しかし、次第にぼくの気持ちは、そうではない方向に進んでいたようです。
ちょうどそれより10年前、1969年には東京において「プロヴォーク」同人による写真誌が発行され、時代のマイナーな風潮をつかんだと思うんですが、そのメンバーの一人、中平卓馬氏の「なぜ、植物図鑑か」(1973年刊)という署名の本を、京都にいてかなり熱心に読み込んでおりました。ぼく自身のなかにも、そのころは反体制的な考えに同調しているレベルでしたが、それらの風潮で、写真をめぐる体制に反発していったのだと思えます。
美術館ではない公園で、評価を得る中心部ではなくて辺境の地で、額装した作品ではなくてピン張りで、観客は写された人々。釜ヶ崎青空写真展の企画は、そういった立場で実行されますが、写真を愛好している人たちの反応はイマイチ。むしろ、無視されたのかも。しかし、若い世代の写真愛好者のなかには、のちになって存在を知ってくれた人もいた。
京都、大阪の写真界、大学の教授だった岩宮武二氏を支部長においた関西二科会、アマチュアカメラクラブの長老たちが運営する写真クラブとその写真展。そういった既存の発表場所からは一番遠くて一番稚拙な、写真の在り方を、あえて組み立て、青空写真展を開催したのでした。写真家がいない場所、被写体となる人々が鑑賞できる写真展、家族のなかで共有しあう写真、そういう写真の在り方を模索していたと思う。
ぼくの写真活動の原点、あるいは文筆活動の原点、原点というより起点だったようにも思えます。関西の写真界から遠く離れた場所で、ぼくは、雑誌の編集をはじめます。「季刊釜ヶ崎」(1979年12月)と「映像情報」(1980年8月)。写真展示空間は、飲み屋「聖家族」の壁面を使って、リトルフォトスペースからフリースペースへ、この空間は1979年12月から1980年5月まで、諸般の事情により休止となりました
釜ヶ崎青空写真展風景 1980.8
最新更新日 2018.11.23