関西の写真史
中川繁夫:著

     
                 
聖家族 1979.12
第二部

はじめに

最近、身の回りの整理をしていて、手元にあった資料をみながら振り返ってみると、あれから30年。もう過去、ぼくの体験を中心に残されている資料、それをまとめて文章にしたい。そんな欲求も生じてきて、いま、ここにいます。

ここでは、写真を学んで、写真を撮って、写真を発表していく、その外枠を辿ってみたいと思うんです。特に関西の1980年代とその前後、それから今現在につながる1990年代、2000年代、おおむね10年区切りで、書き起こしていきたいと思うんです。

ここで書きすすめた文章は、HPにまとめていこうと思っています。すでに、まとめるページは作ってあるので、参考に見ていただければ、ありがたです。

さて、30年も前とはいいながらも、現在活躍中の方々の名前が出てきます。伏せるのが適切なのかどうか、迷ったけど、いいことをして、そのことを書く予定だから、後々のことをも思い、実名で記載します。それから、内容はぼく(中川繁夫)が体験し、手元にある資料で、当時の聴き語りを中心に書いていきます。これをきっかけに、他の方々の発言を期待したいし、関西地域の写真史がまとまっていけば、いいなぁと思うところです。

いくつかの視点から、出来事を立てて、それを軸に全体を関連付けていければ、ぼくとしてはベターです。ぼくの体験、ひとりよがり体験、思うままに書き進めていきたいと思う。いよいよ船出、どこへ行くのか、ジグザグ航路となりそうな気配です。老年となった脳が、どこまで汲みだしてくれるのか、定かではないですが、出発します。
   shigeo nakagawa 2012.8.20

<前史>

 いま、ぼくの手元に、1977年の関西二科展の出品目録があります。関西二科展の出品目録は絵画部、彫塑部、商業美術部、写真部にわかれています。関西の写真部は、会員に京都は浅野喜市氏、大阪は古沢和子氏、青木君夫氏、兵庫は堀内初太郎氏の名前があります。以下、会友に達栄作、高橋一郎、須原史郎、西岡伸太、緒方しげを、小山保、竹内広光、土居幹男、亀忠男、ここまでは東京の本部の管轄でしょうか、他は関西二科会に登録の会員まで合わせて82名が出品しています。これをもって何を言いたいのかと言えば、ぼくの名前もあるからです。つまりぼく、中川繁夫は関西二科会の会員であったということです。

 それから最近手に入れた年譜、京都丹平史譜、2008年のクレジットが入っています。1904年、明治37年に浪華写真倶楽部が生まれたときから書き起こしていて、現在に至る、そのジグゾーパズルが記されているんです。上田備山、安井仲治、小石清という名前があり、中山岩太、ハナヤ堪兵衛は芦屋カメラクラブ、丹平写真倶楽部の設立は1930年、上田、安井らの他、平井輝七、本庄光郎、棚橋紫水らがいます。稚草社の田中幸太郎、光人会の棚橋、大阪光芸倶楽部には入江泰吉、岩宮武二の名前が、アヴァンギャルド造影集団には花和銀吾、平井の名が。これらは戦前、1945年以前のこと。

 戦後丹平写真倶楽部は、京都丹平、兵庫丹平、奈良丹平に別れたそうです。1953年、シュピーゲル写真家協会が結成されます。シュピーゲル写真家協会には棚橋、河野徹、木村勝正、岩宮、堀内らの名が記されています。木村は1960年京都シュピーゲルを結成し、木村の死後1975年には光影会と名称変更します。関西の写真シーン、1970年代はまだ前記のカメラクラブたるものが、ヒエラルキーを保ちながら、並列していて、職業写真家とそうではない写真家が混在していたと考えています。

 東京を中央とした美術団体の二科会写真部、朝日新聞社が中心の全日本写真連盟、それらの関西支部、各府県支部、などなど、おおむね職業写真家とアマチュア写真家が混在しながら、写真の表現に関与している時代だったと思います。その他の影響でいえば、カメラ雑誌の存在があげられます。現在も健在なアサヒカメラ、日本カメラ、1985年に廃刊となったカメラ毎日、他。カメラ雑誌は、特にカメラ毎日は、若い写真愛好者をファンにして、影響力をもっていたと思えます。1970年代、転機になるのは、やはり東京の動きであり、その影響をうけて、関西でもぼちぼち、それらに呼応する動きがでてきたのかな、と思えます。

1970年代概観

 はなはだ恐縮しながら私的体験をベースに書き起こしていきますが、1970年代の関西というよりぼくの写真状況です。シュピーゲル写真家協会から派生してきた写真クラブ、光影会に参加して数年目には関西二科展に出展するようになっていました。でもぼくの手本は、写真雑誌、特にカメラ毎日の内容に傾倒していたようです。東京での出来事、1975年に始まる「ワークショップ・写真学校」の話題、自主ギャラリーの話題、それから雑誌のアルバムに載る写真。

 ぼくの情報源は、カメラ雑誌からで、ほぼ東京の出来事、京都にいるぼくには、遠い向こうの出来事、しかしその数年前には東京にも住んだ経験があったぼくは、身近な存在としても捉えていました。しかし、京都にいて写真を発表する、その向こうには大阪があり、東京は写真団体の本部がある場所、やはり、とてつもなく遠い処、そんなイメージでした。

 四条河原町をあがったところに京都書院という書店があって、そこで得た本に「なぜ植物図鑑か」という中平卓磨の論集をむさぼり読む。でも、そんな内容の話しが、当時の京都の写真仲間には通じるわけがなく、どうしたらいいのか、迷うばかりでした。そんななか、「街へ」をテーマに大阪へ取材の地を求めていったのが1977年です。

 これからここで書きしるし、論じていこうとする枠組み、既存のカメラクラブ等に参加していない若い人たちの動き、その芽をさえ察知していなかった自分があります。上下関係のヒエラルキーによって組まれた写真界、プロアマ混在の枠組みから、一歩づつ足を踏み外していくぼくを、いま、遠くの出来事として、記憶の映像がまわっています。

街へ、大阪の街へ、梅田界隈から天王寺界隈へ、当時のカメラ雑誌にも街をテーマにした写真が掲載されていました。自分の興味がその風景にあるから、そこを求めて徘徊するんですけど、1978年の秋には釜ヶ崎へと足を向けていきます。京都の写真団体、その向こうにある写真団体、カメラ雑誌に掲載される街の風景、それらから遠く離れた場所。そういうイメージを抱いて、カメラを持ち出し、写真を撮りはじめた。すべては、ここから始まるようにも、思えています。

その後、1980年をこえて数年後には、1970年代に動き出していたムーブメント、写真作家活動、いろいろなことが知識としてわかってきます。関西の写真史に大きく関係していると思う写真雑誌「地平」、梅津フジオ氏の「写真情報」、東京では佐藤元洋氏が主宰していた写真誌「COPE」、当時のカメラ雑誌からは得られなかった動きが、ぼくのめの前に現われてきます。

1979年8月、ぼくは釜ヶ崎の三角公園で「青空写真展」を開催します。この写真展に至る事柄は、個人的なレベルで成熟してくるんですが、このプロセスは、ここでは触れなくて、別に記載したいと考えています。ええ、この関西写真史の枠組み、論調、内容を、どのように組み立てるのか、それがぼくのなかでまだ、明確になっていないからです。かって、原稿用紙時代では、推敲をかさねた決定稿がタイプ打ちされて目にふれるようにしたんですが、現在はブログに書き起こし、初稿から発表する形になっています。メディアの変容も含め、写真史という論を組み立てていきたいと思っています。

関西の写真シーン、1970年代を概観すると、最初に浮かび上がってくるのが、1972年に創刊される写真誌「地平」です。この「地平」は1977年第10号まで発刊されますが、関西の若い世代の写真家に影響を及ぼしてきたと、ぼくは考えています。関わったメンバーを見てみると、大阪写真専門学校(現在はビジュアルアーツ大阪)で教鞭をとっていた編集兼発行人の黒沼康一氏、それから百々俊二氏、梅津フジオ氏、中川貴司氏らが参加しています。

 大きなシーンでは、東京の1960年代末の「プロヴォーク」、1975年から始まった「ワークショップ・写真学校」の開校、それに続く自主ギャラリーの設立と運営、それらのムーブメントが、雑誌メディアを通じて関西にも波及していたと考えています。その流れを汲むかのように、「地平」の写真評論、写真作品があるようにも思えます。

 もちろん、写真をする行為とか、撮影対象になる被写体とか、関西だから特別に、とは考えていなくて、写真界全体の潮流のなかで、作家が作品を生み出していくことにつながります。個別作家の作品内容についての評論は、ここではしません。ここでは、個別作家がその発表媒体としていく「場」、出来上がってきた「場」について、記述していくつもりをしています。

 1970年代の前には1960年代、1950年代。こうして関連づけていけば、1950年代のアメリカの動向から、日本の動向へ、それから関西の動向へというようになってきます。ここでは、それらの動向には折あるごとに記述しますが、ここでのメインは、1980年代の関西の個別の出来事です。

 1970年代には、1980年代の関西の既存写真団体には所属しないインディペンデント系写真作家を排出する萌芽を、読み取ることができます。また、1970年代後半には、オリジナルプリントの概念が語られだすときでもあります。若き写真家たちがグループ化され、次第にうねりとなって成熟してくる。いま、振り返ってみると、そんな感を抱いています。

 既存の写真界は、肖像写真館があり、広告写真スタジオがあり、雑誌カメラマン、フリーのカメラマンが活躍してきます。その担い手たる写真家が学んできた場は、おおむね大学の写真学科であり、写真の専門学校です。プロのカメラマン、写真家を輩出する学校、学校を卒業したときから、写真家の称号があたえられる。とはいいながら、プロとして、つまりそれで生活が営めるかと問えば、かならずしも生活できたとは言い難い側面も多々あったと思います。











































































































































































































































































フォトハウス

最新更新日 2018.11.23


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